第十話「文化祭当日、ON AIR」
── 前話のあらすじ ──
第九話「文化祭放送、やりますか」
桐島から文化祭の校内放送枠・三十分を提案された。ソラは即座に断りかけたが、一週間考えた末に「やる」と決断。「一人じゃできない、あなたも一緒に喋ってくれないと無理」と、ハルに初めて素直に頼った。
二人はリスナーからの投稿コーナーを企画。投稿箱を置いた翌日に十七枚の紙が集まり、「好きな人に話しかけられなかった。明日こそ話す。たぶん」という投稿を読んだハルの心臓が静かに跳ねた。
前日の夕暮れ、ソラは「今日の雲、ラジオに見える」と言った。「明日の放送、うまくいきますように」——誰に向けたともわからない言葉が、ハルには届いた。
────────────────
第十話「文化祭当日、ON AIR」
文化祭の朝は、晴れだった。
ハルは登校しながら空を見た。雲が少なかった。薄く青い空が、どこまでも続いていた。
放送は午後二時から。それまでは自由だった。
でもハルは、十時には放送室にいた。
ソラも、すでにいた。
「早いですね」
「あなたもでしょ」
「ソラさんが来てると思ったので」
ソラは少し目を細めた。
「……なんで私が来てるとわかったの」
「なんとなく」
「根拠は」
「心配性だから」
ソラは何も言わなかった。でも否定もしなかった。
机の上には、構成表とコーヒーカップが置いてあった。ハルの分も、すでに用意されていた。
「……早く来ると思ったから」
ソラが言った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
二人でコーヒーを飲みながら、構成表を確認した。いつもより静かだった。緊張、というより——集中、という感じだった。
* * *
昼過ぎ、ケンジが差し入れを持って来た。
「コンビニのおにぎり。腹減ってたら声に出るぞ」
「ありがとう」とソラが言った。
ケンジが少し驚いた顔をした。
「……雨宮さんから『ありがとう』もらったの初めてだ」
「そうだっけ」
「そうだよ。いつも無言で受け取るじゃないか」
「……成長した」
「なんか悔しいな」
ケンジはそれでも嬉しそうだった。
「俺、廊下で聴いてるから。頑張れよ二人とも」
「うん」とソラが言った。
ハルはケンジを見た。ケンジはハルに向かって、こっそり親指を立てた。
ハルはその意味を、今日はちゃんとわかった。
* * *
午後一時五十分。
放送室に、二人だけになった。
ソラはマイクの前に座っていた。構成表を一度見て、伏せた。
「……緊張してる」
「しますよね」
「あなたは?」
「してます」
「してなさそうな顔してる」
「顔に出ないタイプです」
ソラは少し笑った。
「……ねえ、ハル」
「はい」
「もし——うまく喋れなくなったら、助けて」
「わかりました」
「絶対に」
「絶対に」
ソラはハルを見た。真っ直ぐ、正面から。
ハルも見た。
「……信じる」
ソラが言った。
ハルは何も言わなかった。
言葉より、頷くほうが正確な気がしたから。
* * *
午後二時、ちょうど。
ハルはスライダーをゆっくり上げた。
校内放送のスイッチを入れた。
「ON AIR」のランプが、灯った。
赤い光が、部屋に満ちた。
ソラは一回、深く息を吸った。
そして——
「こんにちは。深夜三時のラジオです」
声が、校内に流れた。
* * *
最初のコーナーは、いつもの「今日の雲」だった。
ハルが話した。今日の空には雲が少ないこと。でも一つだけ、南の端に白い雲があること。形は——
「ラジオに似てます。古い四角いやつ。アンテナが出てる」
ソラが小さく「あっ」と言った。マイクから少し離れた声だったが、たぶん聴こえた。
「昨日もそう見えた、って思いました。今日もそう見えます」
ソラが続けた。
「……私の父が、ラジオが好きでした。毎週同じ番組を聴いていました。私は内容は知らないけど、父が楽しそうに聴いているのは知っていました。声が、好きだったんだと思います。誰かの声を聴くのが」
ハルはソラの横顔を見た。
いつもより少し遠くを見ていた。でも——穏やかだった。
「今日、この放送を聴いてくれている人に、少し話したいことがあります」
ソラの声が、落ち着いた。
「声は、消えません。誰かに届けた声は——届いた先で、ちゃんと残ります。だから——喋ることを、怖いと思わなくていい、と私は最近思っています。うまく言えなくても、ぜんぶ伝わらなくても、声にしたことは、どこかに残る」
校舎のどこかで、誰かが足を止めた気がした。
ハルにはわからない。でも、そんな気がした。
* * *
投稿コーナーが始まった。
ハルとソラが交互に読み上げた。
「ラジオネーム・プリン命さんから。今日の給食のプリン、隣の子にあげたら泣くほど喜ばれました。プリンってそんなにすごいんですね」
「プリンはすごいです」とハルが言った。「あの、ふるふるした感じが」
「食感の話になってる」とソラが言った。
廊下からくすくす笑う声が漏れてきた。
「ラジオネーム・三歩進んで二歩下がるさんから。好きな人に今日こそ話しかけようと思っていたのに、また話しかけられませんでした。でも、目が合いました。これって進展ですか」
「目が合ったなら、進展だと思います」とソラが言った。
「根拠は」とハルが聞いた。
「……目が合うって、相手もこっちを見てたってことだから」
「確かに」
「だから——次は、声にしてみてください。うまく言えなくても、声にしたことは残るので」
廊下が、少し静かになった。
静かな聴き方だった。
* * *
三十分が、あっという間だった。
最後のコーナー、ソラが言った。
「深夜三時のラジオ、文化祭特別版——そろそろ終わりです」
一拍置いた。
「毎週木曜日、旧棟の放送室から流しています。廊下で聴いてくれてる人もいます。今日初めて聴いてくれた人も、いると思います」
ソラの声が、少し柔らかくなった。
「……正直に言うと、最初はここで喋るつもりなんてありませんでした。放送室に来ていたのは、別の理由があったから。でも——声にしてみたら、届いた。届いた先で、何かが変わった。私が、変わった」
ハルはミキサーの前で、ソラを見ていた。
ソラは前を向いていた。マイクに向かって。どこか遠くに向かって。
「声は消えません。届けた声は、残ります。——父に教わったことです」
間があった。
「パーソナリティは、雨宮ソラと——」
ソラがハルを見た。
「朝倉ハルでした。また木曜日に」
ハルはスライダーをゆっくり下げた。
スイッチを切った。
「ON AIR」のランプが、消えた。
部屋が静かになった。
それから——廊下から、拍手が聞こえた。
たくさんの拍手ではなかった。でも、確かに聞こえた。
* * *
ソラは動かなかった。
マイクの前で、手を膝の上に置いて、じっとしていた。
「ソラさん」
「……うん」
「よかったです」
「……うん」
「届きましたよ、ちゃんと」
ソラはゆっくり顔を上げた。
目が、また少し赤かった。
でも今日は——笑っていた。
小さく、でも確かに、笑っていた。
「……うん」
三度目の「うん」は、今までで一番柔らかかった。
ハルはその笑顔を見て、胸の中に何かが広がるのを感じた。
温かくて、少し苦しくて、でも悪くない——そういう何かが。
名前をつけるなら、きっと——
ハルはその続きを、今日は心の中にしまっておくことにした。
まだ、声にする準備ができていなかったから。
* * *
夕方、校門のところでケンジが言った。
「よかったぞ、マジで」
「ありがとう」
「雨宮さん、最後のやつ——父に教わったことです、ってとこ。泣きそうになった」
「泣いてましたか」
「泣いてない。泣きそうになっただけ」
「そうですか」
「……お前は?」
「私は?」
「雨宮さんのこと、どう思ってんの。今日改めて」
ハルは少し考えた。
空を見た。夕暮れの中、あの白い雲はもうなくなっていた。代わりに、茜色の空が広がっていた。
「……好きだと思います」
ケンジが三秒固まった。
「……言えるようになったじゃないか」
「声にしないと残らないので」
「それ、今日の放送の受け売りじゃないか」
「ソラさんから教わったので」
ケンジはしばらく笑っていた。
「……告白、するのか」
「準備ができたら」
「いつ準備ができるんだよ」
「わかりません。でも——そう遠くないと思います」
ケンジは笑いながら歩き始めた。
「楽しみにしてるよ」
ハルは夕空を見上げた。
雲はなかった。でも空は広かった。
声にしたことは、残る。
だから——もう少しだけ、温めておこう。
ちゃんと届けられるように。
——第十話・了——
次回「木曜日の、いつもの放送室で」




