第一章 第三幕 ~セイクリッドイクリプス~ その1
第三幕 ~セイクリッドイクリプス~
それは、人の姿にも獣の姿にも見えた。
黄昏の街に残滓として取り残された繁華街のなごりを刻むアーケード。
今しもその上を、赤茶けた獣がその巨体を軽々と跳躍させていった。
音速の戦闘機が通り過ぎたかのように、その直後、あえなく残り僅かな街並みの屋根と屋根とがその獣の進行方向に合わせて次々に吹き飛んでゆく。
ザンッ……
不意に、いかなる奔逸さの発露か、獣はまるで人めいて光よりも闇の割合を色濃く変えてゆく黄昏の街の大路に立っていた。
すると、どこに潜んでいたのか、闇に紛れていた全身を厳重な武装に覆った一団が、獣に対してすべての退路と視界を断つ絶対の布陣にて迫っていた。防護服、などの呼称ではとても言葉及ばないまでの、体格が数倍に膨れ上がるほどの重装備だった。
ザッ……
指揮官らしきひとりの手が上がる。何らかの指示を下すハンドサインではなく、あたかも決闘の作法でもあるかのような様式美としての攻撃宣言だった。
獣を封殺せんとしていた数十名が、阿吽の呼吸でさらに選抜された数人となって地に伏せさせていた〝楯〟を前に構える。
通常、これらの半透明な楯には、そこに〝所属〟なり帰属する何かしらの組織名が毅然として大きなフォントで印刷されてあるはずだが、そこには何も無かった。
すっと、中心に糸を引っ張ったかのように、選ばれた数人すべてが同時に獣に殺到した。
半円状に湾曲した楯でもっての一斉攻撃――
動物園であれどこであれ、〝動物〟が逃亡すると、決まって〝楯〟を持った飼育係たちがおっとり刀で追跡する。
時代がどう変われど、動物に対しては楯が有効なのだ。
楯越しに反撃する能力を備えた動物は存在しない。
楯とはあるいは、人と獣が対立する太古に創始された人類の秘策、秘密兵器だったかもしれない。
だが……
そこにいたのは人でもあり、同時に獣でもあるものだった。
古代の密集戦術めいた楯の壁を、あっさりと獣は真上に行う跳躍によってやり過ごし、その余力は、どこが触れたのかも不明なままに、楯持つすべての戦闘員を大輪の花火の如くに吹き飛ばした。
しかしながら、蹴散らされる側とて無力ではなく、そこには知性の光があった。
それも見越していたかのように、第二陣の兵装が火を噴く。
火砲――対人兵器としても不格好な大き過ぎる砲身を、距離を取っていた数人が狙いを定め、一斉掃射していた。
されど、その射線軸にあえて身をさらすかのように仁王立ちして、獣はそれらすべてを受け止めていた。
獣毛が、たしかに着弾地点に飛び散っていたはずである。
黄昏の街のくすんだ背景に、オレンジ色の火花と、白っぽい灰色の煙が浮かぶ。
それらの中心に敢然として立つ獣の胸に腹に、パツッ、パツッと、蒼い炎が浮かんでいた。
「……」
声にない焦りの気配が最前列の指揮官に浮かんでいた。
射撃部隊は経過を見守っている。さりとて、誰が見るまでもなく、その結果はありうるべからざるものだった。
獣は、まるで腹が痒いかのように撃たれた箇所を末端にゆくほど膨れ上がった巨大な獣の掌で掻いていた。
その指先に、つまみ上げられたものがある。
潰れているが、それを雲間に僅かに見え隠れする怯えたようなおざなりの月光にかざすと、ようやく色遣いが息を吹き返したかのように――鉛玉は銀色に反射していた。
ふと……月の影が獣の上を通り過ぎた後、その顔はいつの間にか人間めいていた。
現れた頑丈な顎が、にやりと動いた。
「人類史のどこにも、狼を屠る『銀の弾』などありはせぬよ。月の神話だったか? すべてを劇的に解決する一撃。そのようなものは迷妄に過ぎぬ。憐れなるかな……」
鷹揚として、まるで幼な子を教えさとすかのように獣と人の声が混じったくもぐった声が崩れた往来に響く。
つ……と、影がその上をすり抜けた途端、顔は獣に戻っていた。そしてお手玉のように掌で跳ね上げていた〝銀の弾〟を、やおら一斉に軽く腕のみの力で投擲した。
誰も動けなかった。
直後に彼らの後ろで爆風が起こり、かろうじて形を残していた影絵の廃墟がここでひとつ、跡形もなく粉塵に帰した。
獣は粗略にも急に背中を向けた。
そして後ろも見ずに、獣でありながら人めいて、ゆったりとそこを歩いて離れていった……
その圧倒的な敗残すら意に介さないかのように、さらに後方に伏せられていた通信部隊が、冷徹なまでに壊滅の経緯を別動隊に伝えていた。
「『ヴォーダンの獣』は、十時の方向に移動中。『銀の矢』効果無し」
「……了……解……状況を……報告……されたし――――」
砂嵐のような雑音だらけの通信が、突然晴れ渡った。
「こちらは特務機関〈カムナガラ〉所属、特一級霊士、御刀代威人である。これより先は我らが全権を掌握する。防衛隊の方々に告げるものである。貴下らは速やかに結界の外に退去されたし。繰り返す。戦略的撤退を為すべきは今である。ご健闘に敬意を表しつつ、疾く実行されることを願う。以上」
声が直接通信機を乗っ取ったかのような交信は、前後もなくふっつりと切れた。
武装集団は急に挙止を失い、慌てて通信機を頼むが、それらはすべて雑音のみを繰り返し、機能しなくなっていた。




