第三章 第二幕 ~次元跳躍の猫~ その3 水蓮篇
「あれ?」
話に気を取られていた彼方は、いつの間にか腕の中の猫がすり抜けて逃げ去っていることに気付きました。
「あ……」
見ると、猫は滑るように走り、いくらか勾配のある斜面を駆け上ってゆくのでした。
「待って……」
つられて彼方もその丘を登ってゆくと、登り詰めたその先にひょっこりとひとつの天幕が現れ、今しも猫はその中に入ってゆくのでした。
引き込まれるように、彼方もそれに続きます。
「あの……わっ……」
何気なく覗いたそこは、全くの深淵でした。
遮光しての光を閉ざした闇ではなく、光の対極の闇そのもので覆い尽くしたかのような、全くの濃密な闇の空間だったのです。
もちろん、こうなってしまっては黒猫など見えるはずもありません。
「わ……あれ? 私……どこから入ったのかな……」
急に怖くなって辺りを見渡しますが、見えるものなど何も無く、それでいて目に映るすべてに様々な夜の景色が、星座と銀河とが映し出されていたのです。
「あ、夜だから見えないのか」
彼方は真っ暗闇の中でなぜかほっとして頷きますが、すぐに首を振ります。
「え? さっきまで昼間だったような?」
どう考えても異様でした。
身動きが取れないまま、上を見て横を見て首を捻り、ついに掌を打ち合わせます。
「あ、ここってプラネタリウムみたいなところか」
「そうだよ」
ねぎらいの声がして彼方は反射的にそちらに顔を向けますが、いずこも同じ、闇のままでした。
我に返ってのけ反ります。
「ひゃあ!? 何? 誰? 誰かいますか?」
「いるけど?」
やはり、声のみが聞こえました。
「あの、あの……どなたでしょうか?」
後ずさりしてもしても、背中がどこかにぶつかることはありませんでした。
「ここだよ」
その声は、斜め後方より聞こえました。
彼方は振り返ろうとしましたが、それはあまりにも恐ろしく、なので身体全体を捩じって、それと向かい合いました。
そこには、青白く照らされて、人影が長座していたのでした。
ほぼ完全な闇――のはずなのに、その青年だけは何故かくっきりと目にも鮮やかなのでした。
よく見ると、その辺りのみふっくらと盛り上がっていて、丘の上のさらに極小の丘として、草を密集させた天然のクッションの上に、耽美系の消え入りそうな蒲柳の質めいた、陰のあるどころか翳だらけの青年が横たわるように腰を下ろしていたのです。
「ここは僕の閲覧席だよ」
青年は訊かれる前に答えます。
彼方も、つられるままに問うていました。
「何を……見ているのでしょうか?」
不思議なことに見え方とは裏腹に、吸い込まれるようなこの青年の佇まいは何の恐怖も覚えず、とても人あたりが良さそうに感じさせたのです。なので口を衝くままに、彼方は思うところを訊ねていました。
「見たままだよ。ほら……」
青年が顔を上に向けます。彼方もその角度に合わせます。
そこにはやはり、大銀河星団がまたたいていました。
「宇宙……でしょうか?」
「その通りさ。ここは早廻しで宇宙の生成消滅を傍観するところだよ」
「はあ……」
小さく頷きます。そして気が付きます。
「あ、あの……私は……」
「トワに聞いていますよ。今日のお客、巫彼方さんでしょう?」
「はい。彼方です」
黒過ぎる闇は闇のままでしたが、それでも彼方はどこか気楽になれてやっと落ち着くことができました。
そうして改めて見上げますと、ここはどうにも変に見えてきました。
「あの、プラネタリウムって星座の形に線が引いてあったり、説明が流れてきたりしますけど、ここって……」
「ああ……」
青年は、闇の中で手を振ったようでした。
「ここは僕が造り上げた宇宙図だよ」
「AI制御の宇宙動画を投影しているのでしょうか?」
「そのようなものだよ。よく本質を捉えたものだ。感服するよ」
「えっと、どうも……」
褒められて照れてしまった彼方は、闇の中で頭を下げます。
そうして再び闇に浮かぶ宇宙を見上げても、青年が何が楽しくてこんなことをしているのかさっぱりなのでした。
「あの……これって、何を楽しむものなのでしょうか?」
踏み込むには勇気のいることですが、なぜか妙に気さくな感じのする話し易い青年に見えたので、心やすくも彼方は思うことを率直に訊ねていたのです。
「宇宙の変遷だよ」
予想通り、青年は打てば響くままに、おだやかな返事を彼方に返します。
「でも……何も見えませんが」
人あたりが良すぎて、彼方もさらに深く訊いてみたくなりました。
「見えないことが、却ってそれを見たい人にとっては良いことだってあるのさ。『羊の絵を描いてよ……』って、わかるかな?」
「はい。大好きです。小さな勝気な薔薇を愛した王子様のお話し……」
「そうだよ。ああ、嬉しいな。話しが通じるってことは……」
「そう……ですか……」
どのように応じたものかわからずに、彼方は通り一遍の対応にとどめていました。
「ああ、ほんとうだ」
唐突に、青年は気付いたようでした。
「倍率が高過ぎた!」
慌てて両手を振ります。すると、四方八方から小さな光と塵のようなものがその手の動きに合わせて乱舞しながら集まって来るのでした。
「あの、これって……〝ビッグバン〟とかでしょうか?」
彼方はよそ行きの言葉をあえて使ってみました。
青年は首を振ります。
「そこまでのことはないさ。拡散し過ぎた銀河を収縮させただけ。まあ宇宙にとってはビッグクランチに遭ったようなものだけどさ」
こちらも彼方の耳を通り抜けてゆきました。
なので耳に残った気になる単語を訊ねてみます。
「銀河?」
「そうだよ。これはアンドロメダ。よく知られているな」
「あ、はい。それでしたら……」
「巫さんも動かしてみようか?」
「え? どうやってですか?」
「簡単だよ。手を振ってごらん」
「こう……ですか?」
「そうそう。なかなか筋がよさそうだ」
彼方が手を挙げてそれを闇雲に振ってみると、いつの間にか頭の上に見慣れた渦巻銀河が浮かび上がっていました。
「それがアンドロメダだよ」
「あちらにも、似たような銀河があります」
「あれは、僕らの天の川銀河さ」
「あ、あれが……」
両手を上げたままそちらを見ていると、何だかアンドロメダ銀河が天の川銀河に向ってゆくようなのでした。
「あの、このままだとぶつかってしまいます」
「動かしているのは君だけど?」
「あ、そうでした……」
彼方は手を振ったり廻したりしましたが、銀河は止まりません。
「どうしましょう? 止まりませんけど」
「慣性の法則だよ。外から力が加わらない限り、止まっているものは止まり続け、動いているものは動き続ける。今、巫さんがちからを加えたのでアンドロメダ銀河は……ほら、天の川銀河と衝突を果たした」
「え? ええ? 困ります! どうしましょうか?」
「どうもしないな。銀河を構成する要素同士の間隔はあまりにも大きいので、すり抜けてしまうのさ」
「助かりました」
「それは良かった」
「あの、これは私には責任重大過ぎるので……」
「他のことをしてみようか? 重ブラックホールに重ブラックホークをぶつけて宇宙の上位何番目かの衝撃を起こしてみるとか?」
「結構です。私はただ、猫を……」
「猫?」
無意識に口を衝いた言葉に彼方ははっとして、何をしていたのかを思い出しました。
「猫を知りませんか? 黒い猫です」
「いません。ポーが埋めてしまいました――などとイソップめいて戯れてもつまらないな。僕は知らないのでクレアさんに会ったら訊ねると良いと思うよ」
「わかりました。勝手に入って失礼しました」
「どうぞ。お気遣いなく……」
彼方はお辞儀をして去ろうとしましたが、こうなってもどこがどこなのか見えないままだと気付きました。
「あの……ここの出口はどこでしょうか?」
「山で迷子になったら上を目指すべきなのに、なぜか誰もが下ってしまう。砂漠で迷子になったらまっすぐ進めばそのうち横断できるけど、なぜか誰もが迂遠に曲がってしまう。さて、ではプラネタリウムで迷子になったらどうするべきだろうか?」
「えっと……北極星を捜しましょうか?」
「おお!」
青年は生気の乏しすぎる気配をかなぐり捨てて身を起こしました。
「ここしばらくの間、これほどの心やすらけくしてくれる言葉を聞いたことはなかったな。人は闇の中では光にこそ惑わされるので、どうぞさらなる常闇をこそお進みください」
「……はい……」
彼方は首を捻るほかありませんでしたが、仕方なく一番闇の深い方向を直感で決めてそちらに向かいました。
歩いても歩いても切りが無い感じでしたが、不意に全身が境界に、天幕の壁にぶつかると、するりと外にこぼれ落ちていました。
「あら、巫様。このようなところにいらっしゃいましたか」
眩しさにまばたきを繰り返していると、クレアの声が聞こえました。
はっきりと目を開けると、すぐそばにクレアが控えているのでした。
「あ……」
なぜか妙に気恥しいような気分になってはにかみながら、彼方は少しその天幕を離れて訊ねます。
「今の方も……」
「さすがに見えませんが、きっと『水蓮』様でしょう。トワ様の三番目の兄にあたる方です」
「はい……」
彼方はもっと訊きたいことがあった気がしましたが、それよりも気になるのは猫でした。
「猫を見ませんでしたか? ここにはいませんでした」
「ここにいないとすると……本家の方かもしれません」
「本家……」
彼方は今思い出したかのように、目の前にそびえているのに巨大過ぎて目の端にも入らなかった洋館を、ついに目の中に映したのです。




