第三章 第二幕 ~次元跳躍の猫~ その2 黒夜叉篇
「あら、そうでした。猫……猫でしたか?」
顔を上げつつクレアは首を彼方に向けて傾けるのです。
「あ、はい。猫が迷い込んできて……」
「そうですか。何色でしょうか?」
「黒だったと思います」
「黒い……迷い猫……」
首を左右に振り、やがて一方向に見定めます。
「それでしたら、あちらに……」
と……不意にクレアの眉間あたりが厳しくなり、されどその陰翳はすぐに拭い去られ「……あちらにいるかと存じます」と、彼方に伝えました。
「はい。ありがとうございます」
彼方は、そのまま浮かれているかのようにクレアの教示する方向に足を速めました。
薔薇の迷路は途切れたまま、そこはぽつりと濃い緑を残す木々が枝を張り巡らせる空間でした。
「猫……どこ……?」
彼方が胸の前で手を組んであちこちの草むらを覗き込んでいますと、「どうかしたのかよ?」との声が頭上で響きました。
「ひゃあ!?」
とっさにしゃがみ込んだ彼方の上に、逆向きの若い男が座禅を組んだままぶら下がってきました。
「きゃあ!」
これはさすがに礼儀も何も無く、彼方は逃げ出そうとしましたが足は動かず、頭を両手で押さえながら恐々見上げると、そこにすっと、クレアが割って入ったのでした。
「殿下? こちらは大切なお客人なのですよ。おたわむれはお控えください」
「けっ。オレはただ、話しを訊いただけだろ?」
「殿下は存在するだけでも迷惑なのです。どうぞこのまま、目の届かないところまで消え失せてください」
「どこまで行けってか?」
「そうですね。ざっと十万億土まで遠ざかればせいせいいたしますわ」
「やなこった」
その男はその間も、逆向きのままびよんびよんと上下に揺れていました。
クレアがあまりにも何でもない風に対応していますので、彼方も怪訝な顔付きのまま立ち上がってよく見ると、男は右足の足首を紐で結び、木々のあちこちに張り巡らされたロープにその先を結わえて弾んでいたのでした。
その、異様にちからのある目を見開いた、くっきりとした顔立ちに硬い髪質の頭を動きに合わせて逆立たせた、胸元の大きく開いたぴったりとした革の衣装に全身を包んだ細身ながら筋肉質の様子は、容易にあるものを彼方に連想させたのです。
「ああ、えっとすみません。サーカスの練習でしたか……」
彼方はほっとした声を上げます。
「サーカス?」
男は意表を衝かれた顔をして、最初から大きな目をさらに見開いて三白眼に見紛うまでに顔中を目にしました。
「オレが曲芸師に見えるってか? けけ、楽しい奴だ! 気に入ったぜ」
「世迷い言はそれまでにしていただけませんか? 殿下。巫様は本日の主賓なのです。殿下のたわごとだらけの悪戯にお耳汚しをされては〈ブルーブラッド家〉の恥となりましょう」
さらにクレアが割って入ります。
「けけ! まるでこのオレが、この家の恥辱みたいな口を利きやがる」
「あら? 正直の頭に神宿ると申しますが、今日はどうした風の吹き廻しか悪魔が退散して神様に宗旨替えされたご様子ですかぁ?」
クレアは最後をにゅ~とあえて引っ張って、これ以上ないほどに煽ります。
彼方はこのやり取りは自分が原因ではと困惑してとっさに「あ、あの……猫を見ませんでしたか?」と、上に向って訊ねました。
「猫?」
不意を突かれて、男もぶら下がったまま腕組みをします。
「それだったら、あれか?」
「え?」
男の視線の先、立木の枝に隠れて黒い猫が小さくなっていました。
「あ、いました! クレアさん! 猫です」
「ええ、猫ですね」
興奮気味の彼方に対してクレアは、あまり関心がないかのようにおざなりに頷きます。
「猫さん。降りてください!」
彼方は木の下まで行って手をひろげます。
「そんなこと、猫が聞くかよ。猫ってのは大概、人の願うことの反対をする天邪鬼の性分だぜ」
「ええ。殿下と同じです」
クレアは、その男に関しては即座に対応しました。
「けっ、めんどくせえなあ……」
男の影がひゅっと上に跳ね上がると、次の瞬間木の葉を舞い散らせながら彼方の前に頭を逆にしてぶら下がっていました。
「そらよ」
軽く、男が手渡すそれは、たしかに先程の黒猫でした。
「あ、ありがとうございます」
受け取るしかないので男が抱きかかえていた猫は、そのまま彼方の腕の中に収まったのです。
「ほら殿下。巫様のお役に立てたことは喜ばしい限りですが、鬱陶しいのでさっさと消えてくださいませ」
「おうさ。じゃあな」
男はいたずらっぽい大きな目のまま手を振ると、引っ張り上げられるように木の枝の中に消えてゆきました。
クレアの前に立つ格好で歩きながら、立て続けの出来事にあてられて彼方はぼうっとしていました。
「あの……あの方も……この家の……?」
「殿下のことでしょうか? でしたらその通りと申し上げましょう。第二子にあたる方です」
「殿下さん?」
「ええ、『黒夜叉』と申します。以後お見知り願う……までもありません」
「黒夜叉さんは何をされていらっしゃるのでしょうか?」
「大学にいるようです」
「ご専門は?」
「さあ? 〈ブルーブラッド家〉の人間が風来坊ではどうにも外聞が悪いので形式のみかと。巫様がお心にとどめるまでもないことです」
「えっと……」
遠慮仮借ない態度に、これ以上踏み込めないと彼方は口を閉ざしました。
でもひとつだけ、訊くしかないことを訊いてみました。
「あの……黒夜叉さんはなぜ……逆向きにぶら下がっていたのでしょうか?」
「さあ、どうしてでしょうか? 殿下のお心など、わたくしの知るよしもありませんが、きっとタロットカードの『吊るされた男』の真似事でもされていたのでしょう。ぴったりのはまり役ですし」
「そう……ですか……」
何もわからなかった彼方は、そのまま頷くほかありませんでした。




