第三章 第二幕 ~次元跳躍の猫~ その1 銀月篇
第二幕 ~次元跳躍の猫~
「あ……」
薔薇の花と花の間を、つんと澄まし顔の猫が何気なく跳んだのでした。
「待って……」
あとで考えてみると、彼方にその猫を捜す理由などどこにも無いのに、なぜか切迫した衝動に背中を押されてそのあとを追いかけて、薔薇の迷路のさらに奥に入り込んでいったのです。
「猫……猫……どこ……?」
歩き廻っているうちに、ふっと薔薇の迷路が途切れました。
そこには反対側の薔薇の壁がうす靄にかすむほどの空間がひろがっていました。
ですが何より圧倒的な存在感を持って迫ってくるのは、その中央部に立つ大男とその振る舞いだったのです。
「ぬんっ! おうっ!」
男は、激しい気迫に合わせて両の拳を交互に突き出していました。
全体には武道着みたいなものを纏って、しかし上半身は小さなシャツ一枚。
そこから力士の脂肪を鋼とすり替えたかのような逞しい双碗が繰り出されていたのです。
二メートルを楽々超える大男の目測十メートルほど先には、木の枝を組み合わせてつくったトーチが大岩の上で赤々と燃え上がっていました。
今しも男はそれに向って拳撃を繰り返し、見るとその炎は拳の動きに合わせて揺れ惑っていたのです。
彼方が立ち尽くしていますと、やおら男は動きを止めこちらを向き、悠然と声を掛けるのです。
「どうかされたかな、お嬢さん」
腹の底から振動が突き上がるような、それでいて柔和なまでにおだやかな声でした。
彼方ははっとして、ですが何と答えるべきか迷って「あの……それって何をされているのでしょうか?」と、見たままのことを訊ねてしまっていました。
「おう。これか?」
男はのんびりと上腕で額の汗をぬぐいつつ、離れたまま彼方に聞かせます。
「男の子が誰でも一度、必ず思うことだな。拳の風圧で蠟燭の火が消せぬかな――とな」
「え……蠟燭どころではないような……」
なぜか初対面にもかかわらず、あまりにも大度にも温容さに溢れた男の気配につられるように、彼方も砕けた口調で首を捻ります。男もそれを自然なことと受け止め「それもそうだな」と、頷くのでした。
たしかに、燃えている束ねた木の枝は、多少生乾きも混じっているのか、時折りパチッ……パチッと爆ぜ、かがり火然として火の粉と黒いすすとを舞い上げているのでした。
「だが、それなりではつまらんしの。やるのであれば、とことんよ」
見ると、周りにはおそらく身体を鍛える道具がいくつも転がっていました。彼方は怪訝なまでにそれを見渡します。
男はその間も、気合を決して緩めずに「ぬんっ……ぬんっ……」と正拳突きを繰り返しているのです。
彼方は気付きました。
火は、消えるどころか拳に遠間で打たれるたびに勢いを募らせ、さらに大きくなっているのです。
「あ、もしかして……」
彼方が呟くと「む?」と、男は首を傾けてきます。
「何かな?」
「えっと、外れていたら失礼かもですけど……もしかすると風を起こして火を消そうとしているのではなく、北風と太陽みたいにあえて火を大きくして消そうとしているのでしょうか? 燃え尽きてしまったら……火は消えるしかありませんし……」
「ほう!」
得たり賢しと、我が意を汲み取る者が現れたことに男は目を円くしました。
「そうよな。オレは火を消すのではなく、火をもってすべてを喰らい尽くさんと慾しているのよ。よくぞ絵解きを成し遂げたもの。あっぱれよな」
男は手を止め、彼方に大きな身体を傾けて敬意を表すのでした。
「いえ、いいえ。そんな、私は……」
彼方は、男がなぜ自分に礼を尽くしているのかわからず途惑っていました。
「私は、ただ……猫を……」
ここで思い出したかのように、彼方は辺りを見廻します。
「猫?」
大男は首を捻ります。
「なるほど。何かの気配がそこらをすり抜けていったかに伺えたが、あれがそうだったのか」
「猫は、どこにゆきましたか?」
「猫か……猫は……おお、仔細はあの者に伺うとよい」
「え?」
男の視線の先を見ると、足音すら消し去ったままのメイドが――クレアが立っていました。
ようやく、ほんのしばしの顔合わせであれ知った顔が見えたので、彼方はほっとしてそちらに歩を進めます。
クレアは立ち止まると男に向って深々と礼をして、彼方に身体を向けました。
「巫様。お迎えに参上いたしました」
「あ、はい。ご足労おかけして失礼しました」
彼方がぺこりと頭を下げると、背後ではあまりにも際立ち過ぎた男が拳の連打を再開し、その風圧がこちらも揺るがせていたのでした。
「あの、私……猫を……」
「……? 猫でございますか?」
「あ、でもその前に……」
彼方は声を潜め身を屈め、つられてクレアも頭を近付けます。
「あの……武術?をされているのは……どのような方でしょうか?」
「ええ」
軽やかにクレアは紹介します。
「あちらにいらっしゃるのはトワ様の第一の兄君にあらせられる、『銀月』様です」
「あ……トワのお兄様……」
「ええ、その通りです」
少し歩きながら、話しを続けます。
「銀月さんって、何をされている方なのでしょうか?」
「今は大学院に在籍し、ご自分を物理屋と称されていらっしゃいます」
「え?」
少し衝撃を受け、彼方はその肩越しに再度『銀月』を見遣ります。
『銀月』は我関せずとして拳を振るい続け、その一撃一撃をもって次第に木の枝を組み合わせたトーチはほころびを見せ、燃え上がった枝は舞い上がり、強烈な炎に喰い尽くされ、落ちる頃には燃えさしとて残さず、ぽろぽろと宙で砕けて散らばるまでもなく塵となって消えてゆきました。
最後の一撃にはトーチは跡形もなく、残されたのは巨大な赤い炎のみで、それは大岩さえ貪婪に吞み込むかのように覆い被さり、揺らめく熱気に圧し潰さんとしていました。
彼方ははっとして首をすくめ、まるで自分が拳で打たれたかのように目を閉じ、顔を戻しました。
「学者の風情には縁遠いので、奇異に思われましたか?」
クレアがかすかに口の端をほころばせながら訊ねます。
「い、いいえ……」
どう見ても取り繕ったまま、彼方は首を振ります。
「息抜きのスポーツは結構なことかと……」
「ええ。恐れ入ります」
何がどのような返答なのか、クレアはつつましくも両腿の前に両手を添え、ここでも頭を下げたのでした。




