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第3話【定時退社で初の異世界へ!】

 細い長針と短針が重なり合い、文字盤の数字がちょうど【17:00】を刻んだ。

 私は寸分の狂いもなく、デスクの上に置かれていたノートパソコン型の神界端末を静かに閉じた。


「よし、本日の定時となりました。お疲れ様でした」

「えっ、あ、もう上がるのかい!? ちょっと待ってくれ玲奈! まだ未処理のクレーマー案件の書類が山積みなんじゃが!」


 最高神が、手元に積み上がった羊皮紙の山を前に焦った表情で悲鳴のような声をあげる。

 だけれど私は前世で培った鉄壁の営業スマイルを1ミリも崩すことなく、完璧な動作で鞄に荷物を収めた。


「最高神様、事前に交わしました労働条件契約書・第4条をご確認ください。定時以降の超過勤務は一切行わない取り決めとなっております。無意味な残業は業務効率の著しい低下を招くだけです。……前世の私と同じ愚は二度と犯しませんので」

「うぐっ……何も言い返せん……っ!」


 ぐうの音も出ない最高神を華麗にスルーし、カバンを肩にかけ直して案内課の執務室をあとにしようとした、その時だった。


「――ちょっといい? 新人ちゃん」


 壁際に置かれた革張りのソファで、高級そうな神聖ワインのボトルをそのままラッパ飲みしていた女性が、気怠げに声をかけてきた。


 波打つような華やかな金髪に、胸元が大きく開いたドレッシーな神聖ドレス。乱雑に着崩した隙間から覗く白い肌や滑らかな鎖骨には、思わず目を奪われるようなアンニュイな色気が漂っている。

 けれど、完璧に整った綺麗な顔立ちには、まるで消えない呪いのように深いクマがくっきりと刻まれていた。

 世界すべてに嫌気が差したような虚ろな瞳と、全身から漂う圧倒的なやさぐれ感。元が息を呑むほどの美人だからこそ、その痛々しい佇まいには、どこか危うい魅力があった。


 彼女は先輩女神のヴィクトリアさんだ。

 かつては案内課の絶対的エースとして数々の転生者を送り出してきた凄腕女神だったが、度重なるクレーマー転生者の理不尽な対応で激しくメンタルを病み、現在は半休職状態で昼間から酒をあおっているらしい。


「ヴィクトリア先輩、何かご用でしょうか?」

「ヴィーでいいわよ、ヴィーで。……あんた、さっきのイキリ高校生を『即死です』の一言で見積書叩きつけて撃沈させたでしょ? 影から見てたわよ。いい度胸してるじゃない」


「恐縮です。ただの規約に基づいた適切なカスタマーサポート対応に過ぎません」


「くくっ、最高ね。……ねえレナちゃん、せっかく定時で上がるなら、神界の福利厚生をフル活用してみない?」

「福利厚生ですか?」

「『異世界自由アクセス権』を使ったお忍び旅行よ。私が美味しいお酒とご飯、奢ってあげるからどうかしら?」

「――行きます」

「よし! そうと決まれば新人歓迎異世界食べ歩きに行くわよ!」


 定時退社で美味しいお酒とタダ飯。

 前世の社畜時代には存在すら許されなかった夢の響きに、断る理由などどこにも存在しなかった。


 ◇◆◇


 ヴィー先輩が指先を鳴らして展開した転移魔法陣をくぐり、私たちが降り立った場所――そこはファンタジー感あふれる、異世界『カグランディア』の大都市『ヴェルザリア』だった。

 夕暮れの橙色と深い茜色が混ざり合う幻想的な空の下、どこまでも続く石畳の街道は、現世では考えられないほどの熱気と活気に満ちあふれていた。


「んっ……ここが、私たちが神界から送り出した転生者たちが生きている世界――カグランディアですか」

「どう? 私達が管理しているだけあっていいところでしょ?」

「はい、とても心地良い世界ですね」


 ヴィー先輩が冗談っぽく笑っていたが、私の返答にどこか誇らしげに腕を組んで街並みを眺めていた。


 すれ違う人々を観察すれば、一般的な人族だけではない。

 優美なシルエットの長耳を覗かせながら薬草や魔法具を吟味するエルフ族に、ふさふさとした狐や狼の耳と尾を揺らしながら大きな荷物を運ぶ獣人族の行商人。

 さらには、金属の甲冑を鳴らして笑い合う背の低いドワーフの冒険者たち――多種多様な種族が当たり前のように肩を並べて行き交っている。


 肌を撫でる夕風はほんのりと温かく、空気そのものが何か力を含んでいるのか、息を吸い込むたびに胸の奥が心地良く澄み渡るような、不思議な感覚を覚えた。


 賑やかな喧騒に耳を澄ませば、露天商たちの威勢の良い掛け声や、街角に立つ吟遊詩人がリュートを奏でながら口ずさむ伸びやかな歌声、異民族同士の陽気な笑い声が心地よい重奏となって耳を打つ。


 さらに街道の両脇に所狭しと立ち並ぶ屋台からは、巨大な鶏肉から滴り落ちる肉汁が炭火にはじけて立ち上る香ばしい芳香や、柑橘系ハーブをブレンドしたフルーティーな醸造酒の芳醇な香りが風に乗って漂い、私の鼻腔を激しくくすぐった。


「ヴィー先輩、お腹と背中がくっつきそうです」

「あら意外、レナもそんなこと言うのね! ……それなら早速行くわよ」

「はい」

「あ、そういえば案内課の女神は普段、この世界に過度な干渉をしちゃいけないルールなんだけど……観光とお忍びで飲むくらいなら見逃されてるの。ちなみに現地の人間に神界の本名を自ら(・・)明かすのはNGだからね? 適当な偽名を使いなさいよ」

「わかりました。……お忍び用の偽名ですね」


 返事をしながら街並みに目をやると、立ち並ぶ店の看板や掲示板には、見慣れないにょろにょろとした異世界の文字のようなものが躍っていた。

 本来なら読めるはずもない謎言語なのだが――次の瞬間、私の視界の隅に、まるで洋画の字幕のようにすっと自然な日本語訳が浮かび上がった。

 さらに耳をすませば、すれ違うエルフや獣人たちが喋っている聞いたこともない言語まで、まるで吹き替え音声のように脳内でリアルタイムに日本語へ変換されている。


 ……あ、案内課の女神になった時点で勝手に全言語理解の補正スキルがかかってるのね。

 説明も一切受けてないけど、映画の字幕と自動翻訳方式なら画面もごちゃつかないし、なかなか優秀なUIね。


 とくに感動も動揺もすることなく、脳内で勝手に仕様を納得した私は、前世の知識と神界の神聖な雰囲気をミックスさせながらネーミングの検討に入った。


 私の本名の神楽坂玲奈を神界っぽさと、天使や女神のような幻想的な語感をプラスするなら……


「では、私はこの世界では『レナエル』と名乗ることにします」

「レナエル? ふふ、なんか古代の神話に出てくる女神様みたいで語感がいいじゃない。私は普段通り『ヴィー』で通してるわ」


 ヴィー先輩の先導で私たちは賑やかな大通りから一歩路地裏に入り、赤ちょうちんのような魔導ランプが温かく灯る一軒の居酒屋の前で足を止めた。


「今日はここにしてみるわね。レナ、異論は?」

「異世界初心者で勝手もわかりませんし、ヴィー先輩にお任せいたします」


 店頭の木製看板には『オークの酒樽亭』と刻まれている。

 重厚な木の扉を開けて暖簾をくぐると、店内は大きな木樽ジョッキを威勢よく打ち合わせる冒険者たちで満席に近い熱気に包まれていた。

 武具を背負った男たちだけでなく、笑い声をあげる女性冒険者やドワーフ、獣人たちの姿も混ざり、活気にあふれている。


「おぅ、らっしゃい! ……う〜む、ここらじゃ見かけない綺麗な姉ちゃんたちだな!」


 厨房の奥から声をかけてきたのは、立派なアゴヒゲを蓄え胸毛と白いエプロンが特徴的な、頑丈な体つきをしたドワーフの店主だった。


 相手の言葉は恐らくスキルの影響で理解できるようになったみたいだけれど、私の言葉は伝わるのかしら?


「褒めてくださってありがとうございます。ふたりなのですが席は空いていますか?」

「そら目が醒めるくらいの美人さんだからな! ――ちょうどカウンター角の2席が空いたから、そこでもいいか?」

「えぇ、お願いします」


 無事に言葉も通じたようで、私たちは空いていたカウンターの角席に腰かけ、さっそくヴィー先輩の奢りで、名物のドワーフ印の樽生エールと、巨大な魔獣の希少部位を香ばしく焼き上げた串焼き肉、さらにおつまみとして熟成魔獣チーズの薫製と、焼きたての大麦パンを注文した。


「くぅぅっ……! やっぱり仕事終わりの1杯は最高ねぇ……!」


 ヴィー先輩が木樽のジョッキを勢いよく傾け、ゴクッゴクッと喉を鳴らし、プハァッと心底幸せそうな息を吐き出す。

 ……昼間から職場でワインをラッパ飲みしていたような気もするけれど……まぁ、そんな細かいことは気にしないで私も飲もう。


 並々と注がれたジョッキを掴んでみて驚いた。

 なんと木樽ジョッキなのにキンキンに冷えているのだ。

 ……これはもしかして生活魔法の一種かしら? いずれにせよまさか異世界でキンキンに冷えたビールが飲めるなんて、控えめに言っても人類の宝であり、誇張抜きで神に感謝を捧げるレベルの奇跡である。ただし最高神は除く。


「レナちゃん、本当に今日あなたが来てくれて助かったわ。あいつら……『チート全盛りくれ』だの『ハーレム作らせろ』だの好き勝手言ってくる人間ども、私、心底大嫌いだったのよ。私たちがどれだけ胃を痛めて精神削ってたか……」

「お気持ちは痛いほどお察しします、ヴィー先輩。ですがご安心ください。これからは私がすべて規約とロジックで撃沈させ、職場の健全化を図りますから」

「新人が頼もしすぎる……! 一生ついていくわレナちゃん……!」


 そんな職場の苦労話で盛り上がっていると、カウンターの奥からドワーフの店主が、ジュージューと音を立てる焼き立ての巨大肉串を差し出しながら話しかけてきた。


「しかし姉ちゃんたち、どっから来たんだ? 聞いたことねぇ言葉で話してるし、特にそっちの黒髪の姉ちゃん……お貴族様とも違う、なんというか漂う雰囲気が只者じゃねえな――お名前を聞いてもいいかい?」

「あぁ、私の連れかい? 彼女はね――」


 ヴィー先輩がニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべて私を見た。

 私は目の前に現れた香ばしい肉串を一口噛み締め、口いっぱいに広がる肉汁とハーブの旨味に密かに感動しながら、静かに完璧な営業スマイルを浮かべ、口を開いた。


「私の名前ですか? んっ……この世界では『レナエル』とお呼びください」

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