第三話
「ここです」
抑揚のない声で、女は淡々と言った。
巡査は女の視線を追った。彼女が見つめているのは、先程から気にしていたあの黒い染みである。
女は目を奪われたかのように黙り込み、声を掛けることさえ憚られるほどであった。だが、巡査は意を決して尋ねた。
「それがどうしましたか……?」
女は答えない。
食い入るように、ただ壁の染みを眺めている。
やがて女は、スカートの裾を翻して巡査を振り返った。
「こんなの、ありましたっけ……?」
青白い蛍光灯に照らされた染みは、こうして眺めてみると、確かに人の輪郭のようにも見えたのである。
見つめているうち、その黒い染みの奥には、何か得体の知れぬものが潜んでいるような気さえしてくる。巡査は唾を飲み下し、努めて平静を保ちながら、女と共に来た道を引き返すことにした。
その途中であった。
背後から、足音がついてきた。
こつ、こつ、と一定の間隔を保ちながら、二人の後ろをついてくる。巡査は足を止め、振り返って懐中電灯を向けた。無人の混凝土の道を、黄色い光線が照らすだけである。
そういえば、北原には妙な言い伝えがあった。
まだ巡査がこの交番に配属されたばかりの頃、古参の巡査部長から聞かされた話である。
夜更けに北原地下道を歩いていると、自分のものではない足音が混じることがある。その時は、決して足音の数を数えてはいけない。
理由を尋ねると、巡査部長は笑って答えた。
――数が合わなくなるからな。
当時は、新任をからかうための与太話だと思っていた。
巡査はもう一度、暗い地下道を照らした。
誰もいない。隣には女がいる。
二人分の足音なら、聞こえて当然なのである。
そう自分に言い聞かせ、巡査は再び歩き出した。
こつ。
こつ。
こつ。
交番に戻ると、巡査は奥の座敷から古いモニターを運んできた。今時珍しいブラウン管式で、傍らの黒い録画装置には無骨なボタンが幾つも並んでいる。
巡査は教わった手順で操作しながら、例の地下道の映像を再生しようとした。机の傍らには、未記入の遺失届が置かれている。女は巡査の隣に座り、録画映像を呼び出そうとする辿々しい手付きを、興味深そうに眺めていた。
荒れた画像の中に、例の地下道の入口がゆっくりと浮かぶ。午前一時五十分。音声は無く、地下道はまるで地獄の底へ繋がるかのように暗く沈んで見えた。やがて、白いワンピースを着た若い女が現れた。女は暗闇に吸い込まれるように、地下道へ入っていく。
巡査は静かにスイッチを切り替え、巻き戻し、再生する。風の止んだ交番の中で、スイッチを押す小気味よく乾いた音だけが響いた。
巻き戻した映像にも、やはり白いワンピース姿の女が映っていた。だが、その前方に男の姿はない。白いワンピースの女は、誰もいない前方を追うような足取りで地下道へ入っていった。
巡査はそこで初めて、女の話そのものを疑った。過去の事件の記憶が蘇り、現実と混同しているのかもしれない。
いずれにせよ、女の言う男は防犯カメラの何処にも映っていない。やはり、女の妄想なのではないか。
巡査が再生を止め、女に向き直ろうとした、その時である。女は首を伸ばして画面を覗くと、抑揚のない声ではっきりと言った。
「違う」
女はモニターを指差した。
「私、こんな服は着ていません」
巡査は眉を顰め、画面へ顔を近付けた。
そして、気付いた。――顔も違う。
モニターに映っているのは、目の前の女ではない。
つまり、今夜のうちに別の女があの地下道の中に入ったのである。
巡査はモニターに映る女の顔を凝視した。
何処かで見たことがある。
記憶を辿るうち、ふと一つの顔が脳裏に浮かんだ。
巡査は背後を振り返った。灰色の棚には、古い記録を収めた青いファイルが整然と並んでいる。その中から一冊を抜き取り、頁を繰った。
やがて、一枚の写真に指が止まった。
それは、三年前に届け出られた行方不明者の記録だった。
印刷された若い女の顔は、モニターに映る白いワンピースの女、その人であった。
三年前に姿を消したはずの女が、今夜、あの地下道を歩いていたのである。




