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遺失物  作者: 宝積 佐知
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第四話

 三年前に姿を消した女の名は、佐伯美緒《さえき みお》。二十二歳。当時は大学生で、アルバイトからの帰り道に消息を絶っていた。所持品も発見されていない。


 最後に目撃されたのは、例の北原地下道であった。


 佐伯に関する捜査資料には、当時交際していた竹下隆二《たけした りゅうじ》という男から、事情を聴いていたことも記されていた。失踪に何らかの関わりがあったと疑われていたが、決定的な証拠は見つかっていない。竹下は事情聴取に対し、佐伯が失踪した夜には会っていないと供述していた。


 その時、カチリと硬質な音がした。

 巡査が振り向くと、女が扇風機のスイッチを入れたところだった。窓辺に吊るされた風鈴が微かな音を立て、蚊取り線香からは細い煙が立ち昇り、やがて空気に溶けていった。


 巡査はファイルを持つ手に、汗がじわりと滲むのを感じていた。得体の知れない寒気と、空恐ろしさ。まるで、崖の縁に立たされているかのような緊張感に襲われた。


 巡査は恐る恐る、女に尋ねた。




「あなたを殺そうとした男の名前は?」




 女は表情を変えなかった。吐息を漏らすような声で、そっと告げた。




「竹下隆二です」




 巡査はファイルを閉じた。途端、顔面に風が吹き付けたが、気にする余裕はない。思考が縺れ、何から考えればよいのか分からなかった。ゆっくりと事務椅子に腰掛け、暗いモニターと白紙の遺失届を見遣った。


 三年前、竹下隆二と交際していた佐伯美緒が失踪した。

 そして目の前の女の話が事実ならば、同じ頃、彼女もまた竹下隆二に殺されかけている。


 今夜、女は竹下を追って地下道へ入り、竹下を「落とした」と言う。しかし、防犯カメラには、女でも竹下でもなく、三年前に失踪した佐伯美緒が映っている。


 巡査は解けない謎に苛まれながら、絞り出すようにして問い掛ける。




「佐伯美緒という女性をご存じですか」




 女はゆっくりと首を傾げた。




「さえき、みお?」

「ええ」




 女は暫く考え込んでいたが、やがて、にこりと少女のように微笑んだ。




「綺麗な名前ですね」




 巡査は女の顔を見つめた。

 それ以上、女は何も言わなかった。


 巡査は拳を握った。時刻は三時に差し掛かろうとしている。交番内の異様な緊張感の中、時計の秒針だけが、カチカチと鳴っている。


 巡査はボールペンの先端を何度も押しながら、尋ねた。




「あなたのお名前は?」




 女は一瞬ぽかんとした顔をして、口を開いた。




「……名前?」

「ええ。あなたはまだ、お名前を名乗っていないでしょう」




 女は俯いた。

 長い沈黙があった。

 だが、とうとう答えなかった。


 三年前に殺されかけたという話を確かめようにも、名前が分からなければ照合のしようがない。

 巡査はやや苛立って、ボールペンで机の上を叩きながら尋ねた。




「住所は?」

「……分かりません」

「大学は?」

「……大学?」




 自分のことさえ満足に答えられない状況にあっても、彼女は竹下隆二のことだけは異様なほど鮮明に覚えている。


 首を絞められた感触。山の土の匂い。

 竹下の顔。今夜、彼を見つけたこと。


 しかし、自分についてだけ、空っぽ。


 その時、開け放たれた窓から、湿気を孕んだ風が吹き込んだ。


 巡査が窓を閉めようと腰を浮かせた、その時である。机の上の黒電話がけたたましく鳴り響いた。それはいっそ小さな獣が威嚇するが如く、凄まじい音を喚き散らした。


 巡査が受話器を取ると、聞き慣れた仲間の声がした。




『若い女性の遺体が発見された』




 巡査は何も言わなかった。受話器の向こうから、同僚の声が淡々と続く。




『服装は、グレーのパーカー。黒いロングスカート。それから、白いスニーカー』




 受話器を握る手に、力が籠った。

 発見された女の服装は、今まさに隣に座る女と同じなのである。




『遺体の右腕は、脇を流れる排水溝に浸かっていた』




 巡査は女を見た。

 女もまた、自分の濡れた右袖を見ていた。




「ああ、だから、濡れていたんですね」




 女は一人合点したように、人形めいた笑みを浮かべた。


 心臓が早鐘のように脈を打ち、受話器を持つ手が汗で滑る。巡査は眩暈を覚えながらも、聞き逃すまいと耳を澄ませた。




『遺体の身元は、まだ分かっていない』




 同僚の声が遠い。

 まるで彼方に響く雷鳴のようだ。




「発見場所はどちらでしょうか」

『北原地下道』




 何処か遠くで風鈴が鳴っている。

 巡査は背中に冷水でも流し込まれたような心地で、ゆっくりと電話を切った。


 唾を飲み下し、巡査は振り返った。


 だが、女はいない。無人の古いパイプ椅子が一脚、まるで何事もなかったかのように鎮座している。


 扇風機が回り、生温い風を掻き混ぜていた。低い稼働音を聞きながら、巡査は静まり返った交番の中でじっと息を殺した。身体は石になったように動かない。


 りん、と風鈴が鳴った。


 巡査は油の切れた発条人形のような足取りで、元の席へ戻った。


 その時、ふと気付いた。

 灰色の業務机の上に、遺失届が置かれている。


 先程までは、確かに白紙だった。

 だが、そこには細枝のように頼りない筆跡で、こう記されていた。




 遺失物 人間一名




 巡査は遺失届を手に取った。紙が、微かに震えている。自分の手が震えているのだと気付くまで、暫く掛かった。




 遺失日時 本日午前二時十三分




 女が交番へやって来た時刻だった。

 その下へ、視線を落とす。




 遺失場所 北原地下道




 喉が鳴った。

 さらに、その下。




 遺失者氏名




 巡査は息を止めた。

 そこには、自(・)分(・)の(・)名(・)前(・)が書かれていた。


 巡査は遺失届を握ったまま、動けなかった。

 燃え尽きた蚊取り線香から立ち昇る煙だけが、真っ直ぐ天井へ伸びていた。

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