第二話
古ぼけた壁掛け時計の秒針が、カチコチと忙しなく時を刻んでいく。風鈴の音色と、扇風機の低い唸りが静かに響き渡る。
女はパイプ椅子に腰掛け、扇風機の風に当たっていた。風を受ける度に長い髪が靡き、微かに柔らかなシャンプーの匂いがした。
巡査は女から聞き取った話を書き留めた用紙を眺め、頭を抱えた。
女の話はこうである。
三年前、彼女は交際していた男性に殺されかけたという。
首を絞められ、意識を失った彼女を男は山の中に捨てて行った。しかし、運良く彼女は助かり、犯人の男は捕まらなかった。
それ以来、女は男を探し続けていたが、ついにその男をこの町で見つけたのだと言う。そして、女は男の後を追い、地下道に入った。男は曲がり角を曲がった。数秒遅れて、女も後を追った。――だが、そこには誰もいなかった。
地下道は出口まで一本道で、隠れられる場所もない。だから、女は交番にやって来たのである。
「見失った、というのとも少し違うんです」
女は言葉を探すように俯いた。
「落とした、としか言いようがなくて……」
女は膝の上にある二つの拳を、不安そうにぎゅっと握った。
巡査は暫し逡巡し、立ち上がった。棚から警邏中の看板を扉に下げ、懐中電灯を用意する。女の話は勿論半信半疑であったが、放っておくわけにもいかない。
ふと見ると、蚊取り線香が残り僅かとなっていた。白い煙が細く天井へ真っ直ぐに伸びていくのが見えた。
扇風機は回っているのに。風鈴も鳴っているのに。
巡査は、女と連れ立って件の地下道に向かった。
地下道へ続く階段は、夜の底へ沈んでいくようだった。
件の地下道は、北原地下道と呼ばれている。
この辺りは、かつて北原と呼ばれる谷戸であった。今では住宅が建ち並び、北原という古い地名も地図から消えて久しい。
明治の末に鉄道が敷かれた折、古くからの生活道を残すために小さな隧道が造られた。それが昭和四十年代の複線化に伴って改修され、現在の地下道になったという。
今となっては、そのような来歴を窺わせるものは何もない。
白いタイル張りの壁には雨垂れに似た黒ずみが幾筋も残り、ところどころに剥がされた広告の跡がある。頭上では細長い蛍光灯が青白く明滅し、低い天井を頼りなく照らしていた。
一段、また一段と下りるたび、地上の音が遠ざかっていく。
車の走行音も、信号機の電子音も、酔客の笑い声も、やがて厚い混凝土の向こうへ押しやられた。
代わりに聞こえてきたのは、自分たちの足音だった。
こつ、こつ、と硬い靴音が壁にぶつかり、少し遅れて後ろから追いかけてくる。
地下道は思ったよりも長かった。
幅は大人が四人並んで歩けるほどある。見通しも悪くない。途中に店舗もなければ、非常口らしい扉もない。両端の階段を除けば、出入りできる場所などどこにもなかった。
それなのに、一本だけ切れかけた蛍光灯があった。
明滅するたび、十メートルほど先の景色が消える。
点く。
誰もいない。
消える。
暗闇。
また、点く。
やはり、誰もいない。
「この先です」
女が言った。
声が地下道いっぱいに広がった。
――この先です。
遅れて返ってきた自分の声に驚いたのか、女は口を閉ざした。
二人はそのまま進んだ。やがて女の足が止まる。
「ここ」
壁際を指差した。
「ここで、いなくなりました」
何の変哲もない場所だった。
白いタイル。蛍光灯。排水溝。壁際に寄せられた煙草の吸い殻。
人一人が忽然と消える余地など、どこにもない。
巡査は前を見る。
出口へ続く階段が、遠くに見えている。
後ろを振り返ると、今しがた下りてきた階段も見える。巡査は何か空恐ろしいものを感じながら、恐々と問い掛けた。
「曲がり角っていうのは?」
だが、女は答えなかった。
能面のような無表情で、黒々とした双眸を闇の中で瞬かせるだけである。巡査は堪らず、もう一度問い掛けた。
「さっき、男が曲がり角を曲がったって言いましたよね」
だが、女は沈黙したままだった。
巡査はもう一度、地下道を見渡した。
一本道だった。
曲がり角など、初めからどこにもなかった。
「……あれ」
漸く、女が呟いた。
その声だけが、妙にはっきり響いた。
「おかしいな」
女は壁を見ていた。
そこには、大きな黒い染みがあった。
巡査の背丈ほどもある、縦に長い染みだった。長年染みついた水垢か油の類にしか見えない。
だが女は、まるで姿見でも覗き込むように、それを繁々と眺めていた。




