第一話
日本列島が茹だるような熱気に包まれた、或る夜のことである。
交番には、夜勤を申し付けられた一人の巡査がいた。灰色の業務机に向き合い、日誌や細かな書類を片付けていた。
折悪しく、交番では数日前からクーラーが故障していた。猛暑を凌ぐために、焼け石に水とはいえ団扇と扇風機が支給され、軒先には申し訳程度に風鈴が吊るされた。
巡査は汗で滑るボールペンを握り直し、顎に伝う汗を拭った。時刻は午前二時を過ぎていた。最後の一仕事を終えようと大きな背伸びをした、その時のことだった。
交番の引き戸が音もなく滑り、微かに風鈴の音色が響いた。巡査は訳もなく寒気を感じて身震いし、風邪を引いたかもしれないと溜息を吐いた。だが、その時、震えるような細い声が響いた。
「ごめんくださぁい」
それはまるで古木の隙間を吹き抜ける風のように頼りない声だった。巡査は顔を上げ、深夜の来訪者を認めた。
それは一人の若い女だった。
薄いグレーのパーカーに、黒いロングスカート。白いスニーカー。何処にでもいそうな大学生くらいの女に見えたが、スマートフォンや財布の類を持っている様子は無かった。
怪我は無さそうだ。ただ、酷く顔色が悪く、頬はこけ、まるで砂漠を彷徨い歩いた旅人のようにやつれて見えた。
巡査はボールペンを机に置き、椅子から立ち上がった。安いパイプ椅子が、悲鳴のような軋みを上げた。窓際に置いた蚊取り線香からは糸のような煙が立ち昇っていた。
「どうしました」
巡査が尋ねると、女は視線を落とし、言葉を躊躇ったようだった。巡査が辛抱強く待つと、女は胸元で両手を握り、意を決したかのように口火を切った。
「人を落としました」
りん、と風鈴が鳴った。
巡査は暫し沈黙し、ゆっくりと尋ねた。
「……落とした?」
問い掛けると、女は俯いたまま、ゆっくりと頷いた。胸元に握っていた両手がゆっくりと解かれ、だらりとぶら下がる。
女の服の右袖は濡れていた。グレーの袖が深い色に染まっている。――外は雨でもないのに。
女の薄い唇が弧を描く。細められた瞳には、何か愉悦にも似た笑みが浮かんでいる。
「はい。探してもらえますか?」
巡査は初め、何かの言い違いであろうと思った。落としたというからには、財布か何かのことに違いない。
だが、この女は人を落としたと言う。酔っている様子もなければ、正気を失っているようにも見えない。
女は相変わらずにこにこと機嫌良さそうに微笑み、まるで此方の反応を試しているかのように感じられた。巡査は平静を装いながら、遺失届の用紙を取り出した。
未記入の書類を机の上に並べながら、巡査は尋ねた。
「誰を落としたというのですか」
巡査が問うと、女は紅を掃いたような薄い唇を歪ませて、歌うような軽やかな口調で、こう言ったのである。
「私を殺した人です」




