第五話
今日も穏やかな日だ。
――今日も、あのお店に行きたい。
私はいそいそと着替えをすませると、春で華やぐ通りを、あのお店――「想い出屋」を目指して歩いて行った。
木彫りの看板を眺めながら、お店のドアを開けると、
「あら、由紀ちゃん、いらっしゃい」
おばさんが私に気づいて笑顔を向けてくれる。
――名前、覚えてくれたんだ。嬉しいな、と思う。
「良子さん、おはようございます。また来ちゃいました」
カラリン、とドアベルが鳴る。誰か入ってきたようだ。
「こんにちはー」
落ち着いた雰囲気の女性の声がする。
やがて、声の主と思われる人がこちらへやってきた。
多分、年齢は良子さんと同じくらい。
表情が穏やかで落ち着いていて、すごく上品な感じがする。
「あら、大内先生。こんにちは。いらっしゃいませ」
良子さんが軽く頭を下げる。
「あら、可愛いお客さん」
大内先生、と呼ばれた女の人がこちらに笑みを向ける。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げる。
大内先生は、近所で開業医をしているのだそうだ。
だから、“先生”と呼ばれているらしい。
大内先生は、今日は休診日なのだ、と教えてくれた。
毎週休診日になると、このお店に来ているそうだ。
いつもこのお店に来ている常連さんの一人、というわけだ。
「それで、今日もこのお店に来たのね。
・・・居心地がいいでしょう?このお店」
「はい!」
それは本当にそう思う。
ここにいると、とても穏やかな気持ちになれる。
自分の家より、ずっと居心地が良いのだ。
私が全力で頷くのを見て、皆の顔が柔らかい笑顔になる。
「今日も、あのピアノ、弾いていいかしら」
大内先生が指さした先には、“BECHSTEIN”と書かれた、アップライトピアノが置いてある。
「もちろん。心ゆくまでどうぞ」
良子さんがそう返す。
「お言葉に甘えます」
そう言って、先生はピアノの前に腰を下ろすと、静かに弾き始める。
これは―――きっとジャズだと思う。
どこかで聞いたことのある曲だ。
雨の日のしっとりとした感じ、と言ったら良いんだろうか。
薄暗いお店の中の雰囲気とも相まって、とても幻想的な感じがする。
田崎さんも良子さんも、仕事の手を休めてピアノの音に聞き入っている。
ぱちぱち、拍手の音。
お店に来ていたお客さんであろう。お店のアンティークを見ていたご夫婦も、大内先生の演奏に聞き入っていたようで、熱心に拍手を送っている。
私も手を叩く。
すごいな・・・
大内先生がピアノから立ち上がって、軽く頭を下げる。
「いつもすみません、こんな良いピアノを使わせてもらって」
「いえいえ、こちらこそ。こんな素敵な演奏を聞かせてもらってるんですから・・・」
良子さんは笑いながらそう言う。
大内先生が曲名を教えてくれた。
Autumn Leaves.
ジャズの曲の中でも有名な、スタンダードナンバーの一つ。
日本では、“枯葉”というタイトルでも知られている曲なのだそうだ。
大内先生は、昔、医者ではなくて、プロのジャズピアニストになろうかと思っていた時期もあったそうで、ジャズのライブハウスでも生演奏を披露していたんだとか。
道理で、とても上手いはずだ・・・。
結局、今日も夕方まで、お店で過ごさせてもらった。
夕日に朱く照らされる街を眺めながら、私は家に帰る道をゆっくりと歩いていく。
中学、そして高校と。ほとんど家と学校の往復しかしていなかった私にとっては、田崎さんや良子さん、大内先生の存在がとても眩しく映る。
とてもキラキラとしている。
それに比べて、自分の無力さが軽く嫌になる。
十数年生きてきたというのに、私は、何もできないんだな・・・
私は、これからの人生で、誰かのために、何かできるのかな。
「想い出屋」の田崎さん、良子さんや大内先生のように。
誰かのために、何かできるようになりたいな。
そんなことを、ふと思った。




