第四章 (2)
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少しだけ眠い頭で、カトラリーを洗う。冷たい水が気持ち良くて、けれど眠気を飛ばすほどの威力はなかった。
昨夜は数学の問題と格闘して、つい寝るのが遅くなってしまったのだ。試験までもう間もないので、解らないところは少しでも潰したい一心だった。
(……でも、今日は帰ったら少しだけ寝よう)
眠い頭で勉強しても身に入らないのは、今までの経験上で理解している。ほんの少しだけでも睡眠をとってから勉強した方が、頭に入り易い。
丁度最後のカップを洗い終わったところで、カウベルの音が鳴った。棗も花入も他の客の相手をしていて、建水もコーヒーを淹れている最中なので、花梨は急いで手を拭いて入店した客の許へ急ぐ。
そこにいたのは、一人の老人だった。青北という名の彼はこの近所に住む、まごうことなき人間の常連客である。祖父が店主を務めていた頃からの顔馴染みだ。
席に着こうと歩き始めていた彼だが、その歩みはいつもより遅い。よく見ると歩き難そうに片足を引き摺っており、花梨は慌てて彼に肩を貸した。
「悪いねえ、花梨ちゃん」
「いえ、構いませんよ。それより足、どうされたんですか?」
「最近、どうにも膝の調子が悪くてね。儂も歳かねえ」
バツが悪そうに笑った青北はカウンター席の一つに腰かけ、コーヒーを注文した。
足が悪いというのに店に来てくれるのは嬉しいが、あまり無理はしないで欲しい。そう思いながら建水が淹れたコーヒーを持っていくと、青北は目を細めて店内を見回した。
「儂はね、ここでこうやって雨音を聞きながらコーヒーを飲むのが好きなんだよ。こうしていると、昔と変わらない空気を味わえるからね。楸さんとの思い出も思い出せる」
青北はコーヒーを一口飲み、丁度カウンター内に帰ってきた棗に目を向けた。
「棗さん、この店を引き継いでくれて、ありがとうね。お陰でまだこうして美味しいコーヒーを味わえるよ」
「そう言っていただけて、嬉しいです。でも、これは私がやりたくてやっているだけなので」
以前の店は、棗や建水、常連の妖怪達もよく知っている。店主は代わったものの、今も雰囲気やメニューに然程変化はないが、やはり祖父の代とは少し違うと感じる。
そう思う花梨にとって、青北の言葉は温かく胸に残った。やはり、花梨も人間なのだ。同じ人間の、それも祖父と同年代の彼があの頃を覚えていてくれて懐かしんでくれるというのは、存外嬉しいものらしい。
すっかり眠気が吹き飛んだ花梨は、いつも通りに仕事を熟す。先ほどまでの憂鬱さも薄らいだような気がした。
青北は棗と時折会話をしつつコーヒーを楽しみ、数十分ほどで席を立った。レジまで歩くのを手伝って、彼が会計を済ませるのを見てから花梨は棗に声をかけた。
「棗さん、青北さんをお家まで送ってきても良いですか?」
すると青北は驚いたような顔をして、すぐに首を横に振った。
「花梨ちゃん、ありがとう。でも、すぐそこだし、一人でも大丈夫だよ」
「でも、心配ですし」
「だが――」
「花梨、行っておいで」
押し問答になりかけた時、棗がはっきりとそう言った。しかし青北は申し訳なさそうに眉を傾ける。
「花梨ちゃんには、まだ仕事が残っているんじゃないかい?」
「青北さんは常連さんですし、これもサービスの一環と思っていただければ」
棗がにっこり笑うと、青北も「それなら……」と首肯した。
花梨はコートだけ取りにいき、二人で店を出る。青北には腕と肩に掴まってもらって、彼の傘をさして歩き出した。
「済まないね。こんな爺さんと相合傘なんて、嫌じゃないかい?」
「そんなことないですよ。頼って貰えて、嬉しいです」
「……本当に、花梨ちゃんは楸さんによく似ているねえ」
「え?」
祖父に似ているなんて、今まで誰にも言われたことがなかった。驚いて青北の方を見ると、彼は懐かしそうに空から落ちてくる雨をその目に映していた。
「顔がとか、そういうのじゃないよ。心根がね、そっくりなんだよ。優しくて、気が回って――それから雰囲気がね、自然と楸さんと重なるんだ」
青北が足を止めるので、花梨も立ち止まる。傘が少し前に傾いで、雨水が滑り落ちた。
「花梨ちゃんがこんなに立派になって、店を手伝っているんだ。楸さんも誇らしいよ」
「……そんなこと、ないですよ」
気を遣わせないように、自分はちゃんと笑えていただろうか。そう心配になるくらい、表情筋を上手く動かせなかった。
自分は何も立派ではないのだ。人付き合いは上手くないし、枝美からも逃げてばかりなのだから。
後ろめたい気持ちを気づかれたくなくて、花梨は「行きましょう」と歩を再開させようとした。しかし、青北の首元で何か光った気がして、手を伸ばす。
「ちょっと待ってください。ゴミみたいなのがついてます」
指先で摘まんでよく見てみると、それは透明で細い糸のようなものだった。
(蜘蛛の糸?)
青北が何処かで蜘蛛の巣でも引っかけてきたのだろうか。花梨はその糸を雨に流すように道端に捨て、青北の手を引いた。
間もなく、彼の家が見えてくる。古めかしい平屋の一戸建てだ。
「青北さん」
背後から声がして振り返ると、一人の青年がこちらに駆けてくるのが見えた。
短く切られた濃茶色の髪と白いTシャツ、ジーパンといったシンプルな恰好が清潔感を覚えさせる。
「青北さん、足が悪いって言っていたのに、出かけてたんですか?」
「ちょっとコーヒーが飲みたくてね。大丈夫だよ、これくらい」
「だったら、せめてオレに声かけてください。スマホの番号教えたでしょう」
青年に叱られて、青北が苦笑しながら薄い頭を掻く。これでは、どちらが年上なのか分かったものではない。
青年は花梨に目を向けて、手にしたビニール傘ごと頭を下げた。
「すみません、送ってもらって。お世話になりました」
「い、いいえ。大したことはしてないですし……ええと?」
青年は青北と親しいらしいが、青北を彼に任せて良いものかと躊躇する。というのも、彼が纏う気配が人間のそれではなく、妖怪のものだったからだ。
力の強い妖怪ならば気配ごと化けて、同族や視ることのできる人間をも欺くという。しかし、彼はそれほど強い力は持っていないのだろう。花梨にも判るくらいだ。
それに、彼の気配は何故だか判らないが引っかかりのようなものを覚える。喫茶店で妖怪相手に接客をする日々なので、他人の空似というやつかもしれないが、以前にもこの気配に触れたことがある気がするのだ。
「彼は近所に住んでいる子でね。何かと気を遣って、色々と手伝ってくれるんだよ」
「“子”って……オレは子どもじゃないですよ」
気安い会話を横で聞いて、彼等が本当に仲が良いのだと知れる。青北も彼を信頼している様子だ。
青年の雰囲気も、嫌な感じはない。自分の勘違いかと、花梨は彼の傘の下に青北を移した。傘は閉じて彼に渡し、持ってきていた自分の傘を広げる。
家まで残り数メートル。その短い距離を歩いていくふたりの背中を見つめていた花梨は、大きくなった雨の音に急に記憶が呼び起こされた。
青年の気配。それは花入の婿になる予定だった妖怪――炭斗のものと重なるのだ。
あの時は花梨の顔には面があり、人間であることを隠していたので、炭斗は花梨が花入を連れて逃げた張本人だとは気づいていないようだ。もし気づいているのなら、花入は何処だと間接的にでも探りを入れてくるはずである。
いくら青北と親睦が深く嫌な雰囲気がなくとも、妖狐一族を騙そうとした妖怪だ。もしかしたら、都合の悪い気配や印象は術で隠してしまっているのかもしれない。
引き留めるべきか否か。考えあぐねていると、後ろの方から水を撥ねる足音が聞こえてきた。
「花梨さーん! お客さんの忘れ物――」
高い声が途中で止まる。振り返ると案の定、片手に傘、もう一方の手にタオルハンカチを握った花入が立っていた。
どうやら、青北が店に忘れたものを届けにきてくれたようだ。だが、タイミングが悪過ぎた。
「あ……」
「――あ」
花入と炭斗、ふたりの視線が交差して同時に固まる。
雨の音で炭斗には花入の声が届いていなければ良いと思ったが、そう都合良くはいかなかったようだ。
多分あの空気感なら、青北は大丈夫だ。それよりも、花入と炭斗を近づかせる方が不味いだろう。そう判断した花梨は、すぐさま地面を蹴って花入に近づき、彼女の手を取って走った。
雨の中を走りながら、疑問が頭を過る。
花入を見た炭斗は、目を見開いて静止した。逃げた花嫁がいきなり目の前に現れたのだ。驚くのは当然であるし、どうしたら良いのか一瞬判らなくもなるだろう。
しかしながらその驚愕の中に、狼狽や恐怖に似た感情の色が見えた気がした。こういう場合、捜していた相手を見つけたのだから喜んで然るべきなのではないだろうか。だというのに、彼からは正反対の感情が窺えた。
考えれば考えるほど、訳が分からない。けれどとにかく今は、店に戻ることだけを考えよう。店なら棗の術がかかっているから、炭斗も近づけないはずだ。
必死で来た道を戻っていると、その途中で急に手足が動かなくなった。何かが絡みつくような感覚に視線を向け、自分と花入の身体に透明な糸が巻きついているのが判った。
傘から手を放すと、糸の間で引っかかって宙に浮く形になる。
「何……これ……っ」
「花梨さん……っ」
いくらもがいても、糸は外れない。それどころか、肌に食い込んで痛みと共にどんどん身動きが取れなくなっていく。
「――ああ、かかった、かかった」
ぞっとするような声が上から降ってきた。耳に入るだけで背筋が凍るような、気味の悪い響きがする。
見たくはないが、見ないでいるのも怖い。恐る恐る上空を見上げた花梨は、恐怖で喉が引き攣った。
矢鱈美人の顔が空から降りてくる。小さな顔に対して身体は大きく、優に花梨を丸ごと包んでしまえるほどもあった。その身体からは人間の手足が左右に四本ずつも生え、器用に周囲の糸を操っている。
(――蜘蛛)
そうだ、この糸は蜘蛛の糸だ。そして彼女は、蜘蛛と人間を融合させたような悍ましい姿をしている。
「予定が狂ったけれど、まあ、これはこれで良いわ」
ねっとりした笑みを含んだ声音を吐き出して、三メートルほどもある長い灰の髪を花梨と花入の前に垂らした。赤い瞳が暗く輝いて、目が離せなくなる。
自分の頬を流れるのが雨なのか自分の涙なのか、それを確かめる術はなかった。




