第四章 (1)
数日前まで蕾だった紫陽花が綺麗に咲いている。青や紫の花の群れが歩道に沿って伸びており、雨の雫を受け止める。
そういえば、花のように見える部分は実は萼なのだと、どこかで聞いた覚えがある。人の目を欺いているみたいだと思うと、土の成分で色が変わるということも含めて、まるで妖怪みたいな花だ。
鮮やかで綺麗で、雨の中にひっそりと佇む。そんな怪しげな様子も、妖怪と似通っているのかもしれない。
そんな風に考えながら紫陽花を眺めるのも、数少ない梅雨の楽しみだった。
とはいえ、花梨の足取りはどうしても重くなる。
当然、梅雨に入れば雨夜の月の営業日が増える。ここ数日は毎日店に通っていた。
欲しい本も多いのでバイト代が稼げるのは嬉しいが、試験勉強もある上に連続出勤となると憂鬱になるのも当たり前というものである。
店に辿り着くと、そこにいたのは棗ひとりだった。客もおらず、店内はいつも以上に静かでがらんとしている。
棗に尋ねると、建水は足りなくなった食材の買い出しで、花入は奥で休憩を取っているという。
「花梨も準備をしておいで」
棗に言われてバックヤードに向かおうとしたが、ふと足を止めて彼女を振り返った。
「あの、一つ訊きたいことがあるんですけど」
「何だい?」
「花入さんの言う殺生石って、那須の伝説になっている殺生石なんですか?」
その名に聞き覚えがあった花梨は、殺生石を調べてみたのだ。すると、栃木県那須の伝説の記述を見つけた。
曰く、平安時代、玉藻前という美女が鳥羽上皇の寵愛を受けていたが、鳥羽上皇は日毎に衰弱していった。陰陽師の安倍泰成が玉藻前の正体が九尾の狐であることを暴き、衰弱の原因は彼女にあると指摘。正体を見破られた玉藻前は逃亡し、人に害を及ぼした後、那須の地で討伐されて殺生石になったといわれている。
しかし殺生石になった後も、その石からは毒素が振り撒かれて周囲に悪影響を与えた。その後、玄翁和尚という僧侶が殺生石を割り、欠片が全国に散ったという。
花入の言う殺生石がこの伝説の石の欠片なのだとしたら、毒素を放つ危ないものなのではないか。そう思ったら、少し怖くなったのだ。
しかし花入達妖狐の一族にとっては大事な宝らしいので、彼女の前でこのことを話すのは躊躇われた。だから、店に棗しかいない今なら彼女に殺生石について訊けると思ったのだ。
そもそも棗がそれについて詳しいのかどうかは判らないのだが、彼女なら知っているような気がした。
「そうだよ。妖狐一族の宝は、かの有名な殺生石の欠片で間違いない」
さも簡単に、棗は言ってのけた。そして、思わず息を呑む花梨に笑ってみせる。
「安心おしよ。その伝説は何年前の出来事だと思っているんだい。年月を経て、今はもうただの石ころさ」
棗が実際に妖狐一族の宝を最後に見たのは、今から百年ほど前。花入の父親の先代に当たる妖狐の婚礼の儀の際だったという。
棗が遠目に見ても、あれは何の力もないものだと判るほどのものだった。そしてそれは、妖狐達も承知しているそうだ。
ただの石ころと化しても、それは玉藻前という悪行を犯した同族の遺物であることには変わりない。あのような大規模な災害を齎せば、妖怪達の沽券や存亡にも関わってくる。もう二度とこういったことがないようにとの戒めも含め、一族は今もあの石を守っているのだ。
「だが、他の妖怪は違う。未だに強大な力を持つ石だと信じて疑わないモノも多い。妖狐の守りは堅いから、狙う妖怪は少ないが、極偶に盗もうとする輩はいる。炭斗も、その内のひとりなんだろう。きっと、直接力はないと伝えたところで信じない。そういうものなんだ」
嘆息を漏らした棗の横顔が、厭に妖艶に見えた。棗の説明を聴いて殺生石への不安感が拭えたこともあってその表情に思わず見惚れた花梨だったが、袂から煙管を取り出したのを見て、その腕に飛びついた。
「ちょっと、棗さん。お店で煙管を吸っちゃ駄目だって、建水さんに言われてるでしょう」
「……少しくらい良いじゃないか。今はお客だっていないんだし」
「建水さんが帰ってきたら、臭いでばれますよ。それに、そうやって油断してるところにお客さんが来たりするんです」
言いながらウィンドウの方に目を遣って、そこにちらついた影に花梨は思わずカウンターの陰に身を隠した。
一瞬しか見えなかったが、間違いない。店の前にいたのは、チェック柄の傘をさした枝美だった。
花梨がここでアルバイトをしていることは既に知られてしまったが、まさかまたここに来るとは思わなかった。枝美にとってはもう顔も見たくない相手だと思うのだが、今になって恨み言でもぶつけたくなったのだろうか。
カウンターの下の方からそっとウィンドウを窺うと、枝美は少しだけ店内の様子を見渡してから帰っていってしまった。
それを見届けて、ほっと胸を撫で下ろす。最近昔のことを思い出したせいで、必要以上に心臓がドキドキしている気がする。
「大丈夫かい?」
「は、はい。すみません……」
棗は花梨が立ち上がるのを手伝って、それ以上は何も訊かなかった。




