第三章 (3)
「夏祭り、一緒に行かない?」
そう誘われたのは、夏休みに入る少し前のことだった。
毎年この時季になると、近くの神社で夏祭りが行われる。小さい神社ではあるが、有名なところらしい。同時に花火も打ち上がるので、人気があって人の出も多いのだ。
夏祭りなんて、小学生の時に家族と行った以来だ。当然のことながら、友人と行った思い出はない。だから友人と行く夏祭りには、少なからず憧れがあった。
枝美とは、これまでに買い物やゲームセンターに遊びにいっている。どれも新鮮な経験で、最初はあった緊張や遠慮も少しずつ薄れていった。
「うん、行きたい」
花梨がすぐに頷くと、枝美は嬉しそうに笑った。
祭り当日、田舎であるこの雨水市では年に数度しか見られないと思うほどの人が、境内にごった返していた。普段あまり出かけることのない花梨にとっては、目が回りそうだった。
半ば枝美に手を引かれるようにして、屋台を見て回った。ラムネを飲んで、焼きそばやりんご飴を食べ、射的で景品を獲れずに下手くそだと笑い合った。
こんな風に心から笑えたのは、何年振りのことだろうか。それくらい、友人との夏祭りは想像以上に楽しいものだった。
――だから、忘れていたのだ。
賑やかな場所、特に神社という特別な空間は、人でないモノも好むということを。
先を行く枝美から逸れてしまわないように、花梨は彼女の背に目を凝らして参道を進んでいた。周囲では色んな人の話し声や笑い声、祭囃子の音、屋台の発電機の音などが響く。
そんな中、花梨と擦れ違った影が何かを落とした。
「あの、落としましたよ」
それ――赤い風車を拾って振り返った花梨は、そのまま固まった。一瞬前まで五月蠅いくらいだった周りの音が遠退いていく。
見上げるほど背の高いその顔には、ひょっとこの面を被っていた。だから、どんな顔をしているのかは判らない。
それでも、その異様な気配でそれが人ではないと知れた。
「キミ、ワタシが視えるの?」
そう言いながら、ひょっとこの面が近づいてくる。
妖怪の中には人――特に視える人間に害を成そうとするモノもいる。それは単なる悪戯であることも少なくないが、命すらも奪おうとする場合もあった。
今目の前にいる存在は後者であると、花梨は肌で感じた。
「どうしたの?」
背後で枝美の声がした。急に立ち止まって背を向けてしまったから、心配してくれたのだろう。
その声を聞いた瞬間、自然と身体が動いた。恐怖で竦みそうになるのを振り切って、目の前の妖怪に技をかけて地面に沈める。とにかく枝美に危害を加えられたくなくて必死だったので、この時自分がどんな技をかけたのかは覚えていない。
妖怪がどんな風に転がっているのかを確認する間もなく、花梨は枝美の手を取って走った。
この場から逃げなければ――その一心だった。
「……ねえ、今の何?」
鳥居を潜って人気のない場所まで来て、ようやく足を止める。それからすぐに、冷たい声が耳に刺さる。冷えた背筋の感覚は、花梨にとって覚えのあるものだった。
振り返りたくはなかった。枝美がどんな顔をしているのか、見るのが怖かった。
しかし、そうしないでいるのもまた、恐怖でしかなかった。
ゆっくりと背後に視線を向ける。
(ああ――)
氷のような双眸と目が合って、身体が凍りついたように指一本動かなくなった。
「何と喋ってたの?」
「……」
「何? あたしを怖がらせたかったの?」
「……」
「なんで何も言わないの? そんな子だなんて、思わなかった」
枝美の目が細くなる。
それ以上は言わないで欲しい。
そんな願いも虚しく、彼女は口を開いた。
「気持ち悪い」
「――!」
憎悪に満ちた声と視線。それに耐え切れなくなった花梨は、彼女に背を向けてその場から逃げ出した。
それと同時に、大きな花火の音が空気を揺らした。大輪の花は花梨の目には映らず、ただ色とりどりの光の欠片が後ろから夜の暗がりに伸びてくるだけだった。それは、まるで散った花弁のようだった。
自分でも気づかない内に、枝美に期待していたらしい。
もしかしたら彼女なら、視えることを伝えても友人であり続けてくれるのではないか。受け入れてくれるのではないか。そんな風に思えるほど彼女は優しくて、一緒にいるのが楽しかったのだ。
けれど、どうやら違ったらしい。
あの目は、今まで花梨を拒絶してきた他の人と同じものだった。恐怖と憎悪と侮蔑の入り混じった、暗い色。
あんな声を、枝美の口から聞きたくはなかった。忘れてしまいたいのに脳にこびりついて、今でも耳を塞ぐと記憶が再生されてしまう。
あの瞬間の光景も音も感情も、怖いくらいに鮮明に覚えている。思い出す度に怖くなるし、つい昨日のことみたいに思えてしまう。
その翌日から、枝美は花梨に近寄らなくなった。花梨も彼女を避けるようにしていた。また同じ感情を向けられたらと思うと、怖くて仕方がなかった。
それからすぐに夏休みに入り、二学期が始まってからは以前と同じ生活に戻った。春からの数ヶ月間が、まるで夢だったみたいに呆気なく。
けれど楽しかった記憶だけは色濃く残り、孤独の淋しさは前にも増して重くのしかかった。こんなことなら最初から枝美と関わらなければ良かったと思う一方で、それでもたった短い期間でも彼女といられて良かったという相反する感情もあった。
今となっては、どうするのが正解だったのか、花梨にも判らない。
*
あの時のことがトラウマになっているのかもしれない。折角自分のことを誰も知らない遠くの高校に入学したのに周りと馴染めないのは、もう二度とあんな思いはしたくなくて、花梨自身が無意識に人を避けているからではないだろうか。
一からやり直したいのに、一歩を踏み出すのが怖い。また同じことになるのではないかと、どこかでそう思っているのだ。
「そこ、もう拭きましたよ」
花入に声をかけられ、花梨ははっと手を止めた。
今は営業時間を終えた店内の清掃中だ。ぼんやり考え事をしていたせいで、彼女が既に拭いたテーブルを再び拭いていたらしい。
これでは、拭きが足りないと先輩風を吹かせているみたいではないか。いや、どちらかというと嫁をいびる姑に近いかもしれない。
「ご、ごめんなさい。ぼーっとしてただけで、決して花入さんの拭きが甘いとかそういうわけでは……」
「花梨」
慌てて弁明しようとする花梨の言葉を遮って、棗が名前を呼ぶ。見ると、彼女は僅かに眉根を寄せて腕を組んでいた。
「今日はもういいから、帰りな」
「え、でもまだ片づけが……」
「良いから。ぼんやりして、皿でも割られたら困るしね」
棗に追い出されるようにして着替えた花梨は、雨の中を家路に就いた。
傘を傾けて空を見上げると、雲に覆われた空はまだ微かに明るい。
(……変な気遣いさせちゃったな)
傍から見たら、仕事に身が入らない花梨を棗が怒っていたようだっただろう。しかし、あれは彼女なりの優しさだと花梨は知っている。
枝美が店に来てから帰るまで、彼女を花梨に近づかせないようにしてくれたのは棗だ。何も訊きはしないが、昔から花梨のことを知っている彼女には全てお見通しなのだ。
次の営業日には、しっかり仕事を熟してみせよう。そう誓った花梨は、雨を踏み締めた。




