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喫茶雨夜の月は今日も雨降り  作者: 夏月七葉


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第五章 (1)

 天井にぽっかりと空いた穴から、月光が入り込んでくる。大きな満月の下の部分だけがここから見えるが、眩しいくらいに白く光っているのがよく判る。この空間には光源がそれしかないのに、何があるのかよく見渡せた。

 とはいえ、ここには何もない。ごつごつとした岩があるだけで、地面も壁も天井も大して変わり映えがしない。


 穴から覗く空は、よく晴れている。月も星もよく見えた。

 しかしながら、雨水市の上空にはまだ雨雲が居座っているのだろう。そもそも、時間的にもまだ夕方のはずだ。暗くなるにはまだ早い。


 それならば何故、夜空が見えているのか。

 それは、ここがまほろばだからだ。

 まほろばの空に太陽が昇ることはない。四六時中夜の世界――それが妖怪の世界だ。


 蜘蛛の妖怪に捕まった花梨と花入は、このまほろばにある洞窟に攫われた。岩と岩の間に張り巡らされた蜘蛛の糸がふたりを拘束し、身動きが取れない状態である。

 花入は捕まった後すぐに元の妖狐の姿に戻って、恐怖で震えてしまっている。せめて花入だけでも逃がしてやりたいのだが、糸は頑強でびくともしない。それに花梨自身も怖くて上手く身体が動かず、拘束されている状態では得意の柔術も発揮できなかった。

 花入は花梨から少し離れたところで拘束されている。近くにいることすらできないのが歯痒い。いや、単に自分が心細いだけなのかもしれない。


 花梨は何度か棗にまほろばへ連れてきてもらったことがある。だが、こんな場所は知らなかった。

 一言でまほろばといえど、広大な世界だ。地球全土を知る者がいないように、まほろばの全てを知るモノなどきっと存在しないのだろう。


香合(こうごう)さん、ここまでしなくても……」

「アンタがぐずぐずしているから、こんなことになったのよ」


 離れたところから声がする。数少ない暗がりにいるのでよく見えないが、炭斗とあの蜘蛛の妖怪だ。彼女の名は香合というらしい。


「でも、回りくどいことをしないで、最初からこうすれば良かったわ」


 暗がりから、白い顔と恐ろしい身体が姿を現す。顔が厭に整っているせいで、余計に恐怖感や悍ましさが際立っていた。


「娘を引き合いに出せば、長も言うことをきくでしょう」


 ここに来るまでの間の彼等の会話や様子から、炭斗は香合に命じられて殺生石を狙っていたのだと判った。彼は香合に脅されて、花入と結婚しようとしたのだ。婚礼の儀の際に社から出される殺生石を奪い、持ち帰るようにと。


 いっそのこと、殺生石には何の力もない石ころだと言ってしまった方が良いのだろうか。しかし、棗から聞いたところに拠れば、言ったところで信じはしないだろう。縦しんば信じたところで、花梨達を生きて帰すとは思えない。

 危ない橋は渡れない。他に逃げられる方法はないだろうかと花梨は思考を巡らせるが、そう簡単には思いつくはずもなかった。


 月の光の中に全身を晒した香合は、不快な笑みを湛えながら花入に近づいていく。何をする気なのかと内心ハラハラしながら見ていると、彼女はその細い指で花入の頤を掴んで自分の方へと顔を向けさせた。


「貴女も逃げ出したりなんてしなければ、こんな怖い思いをしないで済んだのにねぇ。最初の計画で殺生石を手に入れられたら、ここまでする必要はなかったんだから。恨むなら、自分と失敗したあの間抜けにして頂戴ね」


 流し目と言葉で水を向けられた炭斗が、びくりと怯えたように肩を竦める。香合から遅れて月光の下に現れた彼は、花嫁行列の時に見た狸の姿に戻っていた。


「ぎゃああああ!」


 突然悲鳴が響いて、驚いて声のした方を見る。どうやら、自分から視線が逸れた隙に花入が香合の指先を齧ったらしい。香合が慌てて花入から手を引き抜いた後、その小さな口元からは僅かに血液が垂れていた。綺麗な銀の毛並みをしているせいで、赤が目立って見える。


 香合は噛まれた指先を別の手で押さえて、きっと花入を睨みつける。そうしてから、間髪入れずに彼女の頬を思い切り叩いた。

 自分より何倍も大きい相手に引っ叩かれて、花入の身体が飛んでいきそうなほどの勢いで傾ぐ。


「やめて!」


 思わず、悲鳴にも似た叫びが花梨の喉から飛び出る。直後に香合の鋭い目がこちらを捉え、その恐ろしさに身が竦んだ。先ほど出たばかりの声をどう出したのか判らなくなるほど気管が狭まって、呼吸すらも苦しくなる。

 身体をこちらに向けて、香合がゆっくり歩いてくる。その速度に合わせて恐怖を膨らませながらも、彼女の背後で炭斗が花入に駆け寄っていくのを見て、どこかほっとしている自分もいた。

 顔を上げているので無事なことは判ったが、怪我はしているはずだ。そんな花入の傍に誰かがついていてくれていること、そして香合の言いなりになりながらも良心を持ち合わせていると知れた炭斗に対しても、良かったと思えたのだ。


 すぐ目の前までやってきた香合は、花梨を見下すように見据えて薄く笑む。


「貴女、人間でしょう。それも、視える」

「――」


 今はあの面がない。人間だとバレてしまうのは、当然のことだ。

 それに、花入を連れて逃げたのだ。妖怪を視ることができて、事情もある程度知っていると推察することは簡単である。


 そうと解っていても、直接指摘されるとつい息を呑んでしまう。花梨は身を硬くして、ただ気持ちに負けまいと香合を睨み返した。


「知っているかしら? 視える人間の眼は、強い力を宿すそうよ。妖怪にとって甘美なほどに素晴らしい力が」


 さも楽しげに言う香合が笑みを深くする。一方の花梨は目を丸くして、彼女の言葉の意味を反芻した。


 自分の目に力が宿っている――そんな話は聞いたことがない。棗も建水も、店に来る他の妖怪だって、誰も教えてはくれなかった。

 彼女の言っていることが本当のことなのか、それを確かめる術はない。しかし不安定な状態にある花梨に衝撃を与えるには、充分な言葉だった。


「殺生石ももうすぐ手に入るけれど、それに加えて更に力が得られるのなら、その好機を逃す手はないわよね。力があれば、アタシの美貌が保てるのよ。こんなにも美しい顔をこの世から消してしまうのは、惜しいと思わない?」


 尋ねる形を取りながら、その返答に否を許さない。


 自然と喉が鳴る。口が乾く。全身が凍えたように冷たいのに、肌がひりついて熱い。

 どうすることもできないでいる花梨の頤に、香合の指がかかる。無理矢理上向かせられた先に見える彼女の顔は、月の逆光で黒く見えた。


「貴女の眼、アタシに頂戴」


 その言下、眼前に鋭い爪が迫った。

 薄い瞼では、一切防御の役には立たないだろう。それでも、瞼を閉じたいと思った。少しでも恐怖から逃げたいと心が叫んでいるのに、閉じることすら怖くてできない。


 目玉を抉られる痛みを想像して、身体が震える。

 もう駄目かと思った次の瞬間、横合いから飛んできた何かが香合の身体を吹き飛ばし、彼女の悲鳴が尾を引いて岩壁に激突する音が響き渡った。

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