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喫茶雨夜の月は今日も雨降り  作者: 夏月七葉


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第五章 (2)

 何が起こったのか理解できないまま、開けた視界の上部――天井の穴から巨大な何かが下りてくるのだけが判った。

 それは一言で言うならば、水の塊。水流が滑らかな弧を描き、伝説上の龍をまるで生きているかのように象っていた。顔の造形は目鼻が判る程度なのに、背鰭や鱗、細長い髭は彫られたように繊細だ。

 その身体が月光をきらきらと乱反射させ、重圧を与えつつも柔らかに輝く。


 そして、その背には人影があった。目を凝らすと、それは棗のように見える。

 しかし、雰囲気というか気配がいつもと違うように感じられた。普段は着ないような丈の長い豪奢な着物と羽織を纏い、どこか神々しさすら感じる。

 その後ろには建水の姿も見えるので、棗で間違いないと思うのだが、どうにもしっくりこない。


 水の龍が地面に伏し、ふたりが足を下ろすと同時に龍は空気に溶け入るように消え去ってしまった。綺麗な姿だったので、花梨は少しだけ惜しい気分になった。


 棗が香合を見遣る。壁にぶつかった衝撃でパラパラと落ちてくる岩の欠片を頭に受けながら、香合は一瞬身を縮こまらせた。

 彼女は決して睨みつけているのではない。なのに、どうしてか視線の先にいないはずの花梨にも威圧を覚えさせる。


「怪我はありませんか?」


 駆け寄ってきた建水が花梨の身体を拘束している糸を外してくれる。いくら力を入れてもびくともしなかった糸が、建水の手によると絡まった縫い糸より簡単に解けていく。


「建水さん……ですよね?」

「そうですよ」


 その魔法のような手際を眺めながら、思わず尋ねずにはおれなかった。しかし、返ってきたのはいつもの淡々とした声。それを聞いて、ほんにんだと確証する。

 とすると、あれはやはり棗なのだろう。


 彼女は月光の下にすっと立ち、香合を見据えたまま口を開いた。


「さて――」


 その一言だけで、その場の空気が一変する。どこか淀みを覚えるじめっとした空間を、清らかな水で洗い流したかのようだ。


「私の土地で、何をやろうとしていたのかな」

「……何をしようとも、アタシの勝手よ。誰にも指図される謂れはないわ」


 ゆっくりと身を起こしながら、香合が棗を睨め付けた。その視線はぞっとするほど艶麗で鋭いのに、棗は意に介す様子もなく、嘆息を漏らす。


「確かにそうだ。妖怪にも自由はある。寧ろ、こよなく自由を愛する存在だ。――だが、私の土地なんだ」

「――!」


 言葉で刺されたかのように、香合がびくりとする。


「悪いが、私もそれなりに自由にやりたいのでね。それに、あの土地の私の目の届く範囲での悪行は、許し難いのだよ」

「この――土地神風情が!」


 滔々と話す棗に激昂した香合が背後の壁を蹴って、彼女に襲いかかった。しかし当のほんにんは眉一つ動かさず、いつの間にか手にしていた煙管を静かに指先でくるりと回す。

 飛び上がった香合を冷めた目で眺めながら煙管を差し向けると、何処からともなく宙に水が生まれた。そしてそれは先ほどと同じ龍の形を取り、開けた大口で香合を呑み込んでしまう。

 透明な水の腹の中で暫くもがき苦しんでいた香合だったが、やがて手足は力を失い、動かなくなった。龍が姿を消すと、香合の身体は地面に伏す。しかし、不思議と濡れている様子はなかった。


 ふう、と息を吐いた棗は煙が出ていない煙管の吸い口を咥えて、花梨の方へ顔を向ける。


「花梨。頑張ったね。大丈夫かい?」

「え……と……その、棗さん……ですか?」


 姿形は棗そのものなのに、纏う雰囲気や今目の前で起こったことが彼女と一致しなくて、戸惑いながらもそう尋ねる。

 すると、棗の表情がふっと淋しげに揺らいだ。一瞬のことだったが、花梨にはそれが泣き出しそうな顔に見えた。彼女の泣く姿なんて、今まで見たことがないのに。


 何か言おうと棗が口を開きかけた時、走ってきた花入と炭斗が彼女の前に膝をついた。


「申し訳ありません! 土地神様とは露知らず、これまで失礼な態度を」

「土地神様。オレは香合さんの計画に荷担しました。どうか、オレにも裁きをお与えください」


 頭を地面に叩きつけそうなほど勢いよく低頭するふたりを見下ろした棗は、優しい表情で小さく首を振った。


「花入、気にしないでくれ。黙っていたのは私の方なのだから、知らなくて当然だ。それに、花入が失礼だなんて思ったことは一度もないよ。――それから、炭斗」


 名を呼ばれて、炭斗がびくりと肩を聳やかす。


「そうだね……妖狐の一族に事実を話し、素直に謝罪を申し入れること。それから、忙しい時にうちの店を手伝ってもらおうかな」

「……それだけ……ですか……?」


 炭斗は思わずといった様子で顔を上げ、拍子抜けしたようにぽかんとする。棗はふっと笑って煙管を回した。


「君はやりたくてやったのではないだろう。少し調べさせてもらったが、君は数年前に現の山で怪我をして、青北さんに助けてもらったそうだね。それ以来、人間に化けて彼の傍に寄り添い、世話を焼いているそうじゃないか。その青北さんを人質に取られて、仕方なく手を貸したのだろう」

「――……」


 炭斗は何も言えないまま、目を丸くして棗を見つめる。その沈黙こそが、肯定の意を如実に物語っていた。


「青北さんは、私の氏子だ。彼からも沢山言われているだろうが、私からも言わせてもらおう。――ありがとう」


 どこか別世界の出来事のようだ。ここはまほろばなので花梨達が住む現とは別の世界であることには違いないのだが、まるでそのどちらとも異なる花梨の知らない空間を覗き見ているような、そんな気分になった。


 ぼんやりとしていた花梨だったが、棗の視線がこちらを向いてそっと息を呑んだ。そのまま自分の方へ歩いてくるので思わず足を後ろに下げたが、いつの間にか背後にいた建水が邪魔をしてそれ以上は下がれない。


「――花梨さん。申し訳ありませんが、棗様のお話を聴いてあげてください」


 建水の囁きに気を取られている内に、目の前に棗が立つ。間近に迫ると、彼女の姿が何倍も大きく見えて、益々いつもと違う気がした。


「あ、あの……ええと……」


 何か言わなければと思うのに、何も言葉が出てこない。どうにか絞り出した声は意味を成さず、自分も多分棗も困惑している。

 棗はその場にしゃがみ込むと、いつになく自信がなさそうな微笑みで花梨の顔を下から見上げた。


「私は、雨水神(うすいのかみ)――雨水市の土地神だ。……今まで黙っていて、悪かったね」


 はっきりとそう言われて、花梨はエプロンの裾を握り締めた。

 正直、まだ信じられない。棗は雨女で、妖怪で、雨夜の月の店主で――花梨にとって身近な存在だった。妖怪のことも祖父のことも語り合える、唯一無二の存在だ。

 それがいきなり神様だなんて言われても、感情が追いつかない。


「……雨女だったんじゃないんですか」


 ようやく口が動くと思ったら、自分でもびっくりするほどぶっきら棒な口調になった。怒っているわけではないのに、これでは不満をぶつけているみたいではないか。

 そういう感情ではないのだと弁明しようとした矢先、花梨より先に棗――雨水神が言葉を発する。


「それは、半分は本当だよ」

「……え?」


 雨水神は目を閉じて、昔を思い出すように言う。


「私は元々雨女だった。だが、雨水の土地で旱魃が起こり、水に飢えた住人達が雨乞いをしたんだ。そこに偶々居合わせた雨を操ることのできる私が、妖怪から土地神になった」


 妖怪と神は紙一重。

 妖怪も崇められ信仰心が生まれれば神となり、信仰が廃れて消え去った神は妖怪に変じる。


「曖昧なものだろう」


 自嘲気味に笑った雨水神がそのまま何処かへ行ってしまいそうな気がして、花梨は咄嗟に手を伸ばして彼女の手を握った。

 驚いて軽く目を見開く彼女を引き留めるように、花梨は必死に言葉を紡いだ。


「でも、ここにいる。わたしには視えてる。わたしにとって、棗さんは棗さんです」


 言ってから、その言葉の意味がじんわり自分の心に沁み入った。

 どうして、こんな単純で当たり前のことを失念していたのだろう。花梨にとって棗はそれ以上でも以下でもなく、妖怪だろうと神だろうと関係ないのだ。


 数秒遅れて頬を染めた棗は、いつもの笑みを浮かべた。


「――そうだな」


 そんな彼女の様子にほっとしかけたその時、彼女の向こうから強く恐ろしい気配が漂ってきた。はっと視線を向けると、そこで気を失っていたはずの香合が物凄い形相で迫ってきている。雨水神の背後から奇襲をかけるつもりらしい。

 しかし雨水神もそれには気づいており、動揺することなく振り向き様に煙管を構えようとした。だが、


「――花梨!」


 雨水神の様子を横目で見ながら、彼女のその叫びを聞きながら、花梨は咄嗟にふたりの間に割って入った。


「邪魔をする気かしら。それなら、貴女のその眼ごとアタシがもらい受けるわ!」


 後ろに棗がいてくれる。そう思うだけで、何故か恐怖は感じなかった。

 冷静な頭と動きで伸びてきた香合の腕を掴んで複数ある脚を一度に払い、不安定になったその巨体を投げ飛ばす。


 地面に仰向けになった香合は自分の身に何が起こったのか理解できないといった風に目を白黒させ、動けないでいる。そんな彼女の許に飛んできた建水は、どこから出してきたのか判らない頑丈そうな縄で手足を拘束し始めた。


 その一連の様子をぽかんと見ていた雨水神は、一瞬後に弾けるような笑い声を響かせた。


「強くなったね、花梨」


 目元を拭いながら言う雨水神に、花梨は急に恥ずかしくなって顔を赤くした。

 思わず動いてしまったが、先ほど見た彼女の力を思えば一柱でどうにかなったのだろう。寧ろ、花梨が間に入るよりもっと上手く、もっと鮮やかに事を収めたのかもしれない。


 下を向く花梨の頭に、温かな手が載った。


「ありがとう。だが、あんまり無茶はしないでくれるなよ」

「……はい」


 揉むように撫でる感触は、昔と何も変わらない。

 花梨は改めて、棗は棗だと思うほかなかった。


 それと同時に、香合が言っていたことを思い出す。花梨は離れた手を追うように、雨水神の顔を見上げた。


「あの、わたしの眼って、妖怪にとって力になるものなんですか?」


 すると、雨水神は僅かに目を伏せた。


「結論から言うと、それはない。花梨の眼は妖怪を視るだけで、彼等に力を与えるようなことはないよ。ただ、殺生石と同じように、視える人間の眼は力を宿すと信じる妖怪も多いんだ」


 そこで言葉を切り、真っ直ぐに花梨の瞳を見る。


「そういう輩もいるということを今まで言わなくて、済まなかったね。身を守る為にも、本人が知っておくべきことだった。それを伝えることで花梨が妖怪の全てを恐れてしまうことが、私は少し怖かったのかもしれない。あの店に花梨が来なくなることが、嫌だったんだろうね」


 彼女の口から「怖い」なんて単語が出てくるとは思わなかった。それに、自分のことをそんなに想ってくれているなんてことも知らなかった。

 棗はいつも尊大で雲を掴むような存在で、こんな面を持っているなんて微塵も感じさせない態度ばかりだったのに。

 今の気弱な台詞も自分が神だと明かした時の不安そうな顔も、全部花梨の知らない棗だった。さっきから驚いてばかりいるが、その感情すらも嬉しいと思ってしまうのは何故なのだろう。


「神様なのに、随分と感情的なんですね」

「神といえど、万能ではないんだよ。できることもあれば、できないこともある。感情的にもなるさ。そういったところは、人や妖怪とそう変わらないよ」

「――大丈夫ですよ」


 なるべく気負いのないように、何気なく声を出す。

 こんなことはあまり言わないので、意識すると途端に気恥ずかしくなってしまう。それでも、今ここで伝えなくてはいけないことだった。


「わたしは、もう大好きな妖怪が沢山いますから。雨夜の月のない生活なんて、考えられません」


 客も棗も建水も、花梨にとっては大切な存在だ。もう人生の一部みたいなものである。手放す気は、毛頭ない。


「そうか」


 露骨に安心したような顔をされて、安堵より先に戸惑いを感じる。本当に今日は初めてのことばかりだ。

 この感情をどうしたものかと花梨が困っていると、香合を縛り終えたらしい建水がこちらに駆け寄ってきた。


「雨水神様。やるなら、しっかり意識を刈り取ってください」

「いやあ、こんなにすぐに目を覚ますとは思わなくて」


 真顔で怖いことを言う建水と、それに対して苦笑いを浮かべる棗。途端にいつもの雰囲気に戻って、花梨は思わず笑った。

 やっと、心から安心できた気がする。はやり、花梨の居場所はここらしい。


 そんな花梨を優しい表情で一瞥した雨水神は、香合に目を向けて眉を上げた。


「全く反省していないようだから、それなりのお仕置きが必要だね」


 言って、手にしていた煙管を香合に差し向ける。すると、彼女は抵抗する間もなく水でできた檻に捕らわれ、次の瞬間には檻ごと姿を消してしまった。


「現でもまほろばでもないところ――私が作った空間に閉じ込めたんだよ。誰もいないし何もない。広大なそこで数百年は彷徨ってもらおうかね」


 目を瞬かせる花梨に、雨水神はそう説明する。その表情には意地の悪い色が滲み出ていて、相当怒っていたことを改めて痛感した。


 右手で持っていた煙管を左掌に打ちつけると、乾いた音と共に雨水神の姿が揺らぎ、いつもの棗の恰好に戻った。着物は普段着で、雰囲気も落ち着いたものになる。


「私はね、雨水の人間や妖怪達と普通に接したいんだ」


 言いながら、花入と炭斗、花梨を順に見る。その縹色の瞳は月光を受けて、綺麗に輝いていた。


「だからこうして、雨夜の月の店主をしている。これからも、私を“棗”でいさせてくれるかい?」


 花梨は花入、炭斗と視線を交わし、息を揃えて頷いてみせた。


「――勿論です」


 色好い返事に、棗は満足げに笑う。

 そして煙管を掲げて水の龍を出現させると、全員を振り返った。


「それじゃあ、帰ろうかね。私達の店に」


 異論を唱えるものは、誰もいない。

 月光の降り注ぐ洞窟内は、最初の印象と違って美しく見えた。

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