終章 (1)
「すみませーん」
「はーい、今行きます」
客に呼ばれ、花梨はカウンターを出た。
弱い雨が降る、穏やかな午後。通常営業の雨夜の月は、今日ものんびりと時間が過ぎていく。
香合――棗の言によると、彼女は女郎蜘蛛という妖怪らしい――に攫われたあの日からまだ間もないというのに、まるであの出来事が嘘だったみたいに日常が帰ってきた。
花梨の場合、昨日まで定期試験だったので忙しかったこともあり、もう遠い昔のような気さえしてくるようだ。流石に試験中はアルバイトも休みを貰ったが、割とギリギリまで働かされた。これで成績が悪かったら、棗を恨んでも仕方がないと思う。
『けど、花梨なら大丈夫だろう?』
試験前に似たようなことを言ったら、棗にそう返された。何故だか自信満々にそう言われたら、誰だって嫌な気はしない。
そんな彼女に言い包められて、結局は思う壺だ。実際、中学時代は今回と同じように手伝いをしてそれなりの成績を維持できていたので、上手い言い訳も思い浮かばない。
一度、点数を落としてみようかとも考えたが、大学受験を考えたら危ない橋は渡れない。結局は、棗の言いなりになるしかないのだ。
まほろばでの自信なさげな棗の姿は幻覚だったのではないだろうか。そう思えるほど、現に帰ってきた彼女はすっかり元通りだった。
カウンター席に座る客と楽しそうに会話をする棗を横目に見ながら、花梨はコーヒーの注文を建水に伝える。彼は黙したまま頷いて、作業に入った。
あの後で聞いた話だが、建水もまた妖怪ではないのだという。彼は神使という存在で、その名の通り、神に仕えるものなのだそうだ。
通常、神は動物の中から神使を選び取って携える。彼等は常に神と共にあり、神とも妖怪とも異なる存在だ。雨水神は蛙の建水を選び、彼を神使にした。
全国的に知られる有名な神には複数の神使がつくが、雨水神のような土地神にはひとりが精々といったところらしい。理由には力の差もあるそうだが、管轄がそれほど広くないから少数で構わないという事情も少なからずあるという。
簡単に言うと神の手伝いのようなものだと笑う棗の背後で、建水がこっそり嘆息を吐いていたのを思い出す。
神の身でありながら、現とまほろばの狭間で喫茶店をやりたいと言うような主人に仕えることになって、彼も苦労が絶えないのだろう。実際に、花梨も建水が棗に苦労している場面は何度も見てきていた。
因みにあの時、花梨と花入が助かったのは、建水のお陰でもある。
青北の忘れていったタオルハンカチを見つけて、今ならまだ間に合うと止める間もなく店を飛び出ていってしまった花入を、棗が命じて建水が追いかけたのだ。その先で丁度花梨達が連れ去られるのを目撃し、跡を追ってあのまほろばの洞窟を突き止めたのである。
神使という特別な存在ではあるが、力の強い妖怪とやり合えるだけの力は建水にない。だから一度戻って棗に報告をしたのだそうだが、彼自身はすぐに助けられなかったことを悔やんで花梨と花入に頭を下げた。
しかし、それは仕方のないことであるし、花梨としては無茶をして建水が怪我をするよりずっと賢い行動だと思った。花入も同意見だと言って頷いていた。
それだけに、物理攻撃でありながら香合に技をかけた花梨が素晴らしいと、建水に褒められてしまった。悪い気はしないが、怖いのでできればもうあんなことはしたくない。
「いらっしゃいませ」
花梨はカウベルの音に振り返ったが、そこにいたふたりに思わず目を瞬かせた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
「おや、いらっしゃい」
人の姿に化けた花入と炭斗が、揃って頭を下げる。
まほろばの洞窟から現に戻ってきた後すぐに彼等と別れて以来だ。確か、炭斗はそのまま妖狐一族の長に謝りにいくと言っていた。
柔軟性が高いのか花入は平然としているが、炭斗の方は棗に声をかけられてびくびくしている。炭斗は今まで店に来たことがなかったので、あの時が棗とは初対面だったのだろう。最初から土地神と知っている相手だけに、まだ緊張が抜けないらしい。
「その節は、色々とお世話になりました」
他の客もいるのでぼかした話し方だったが、妖狐一族の長にはきちんと説明と謝罪をして、炭斗は許してもらえたようだ。
それはそれとして、炭斗はしでかしたことの重さを、花入は理由があったとはいえ婚礼の儀から抜け出したことへのお叱りを揃って受けた。とはいえ、長自身も花入の話をきちんと聞かなかった反省をして、それほど厳重にというわけではなかったようだ。
「それで……その……」
簡単に一通りの経緯を言い終えたふたりは、互いに視線を交わして頬を染める。
恥ずかしそうに言い淀む炭斗に痺れを切らしたのか、花入が彼に寄り添って笑った。
「うち等、結婚することになりました」
「――!?」
「それは、おめでとう」
驚いて固まる花梨とは対照的に、棗がにこやかに祝いの言葉を述べる。まるで最初から知っていたような態度に、花梨は二重で驚く羽目になった。
長に謝罪をした後すぐ、炭斗は花入に求婚したそうだ。
最初は香合の言いなりになって結婚を目論んでいた炭斗だったが、花入と接し関わる内に少しずつ好意を抱くようになったという。
花入も炭斗の事情を知った上でこれまでの彼の優しさや思い遣りを振り返って、それが本物であったことに気づき、惹かれる部分も確かにあったことを思い出したのだ。
そして改めて、今度は本当に相思相愛の夫婦になろうと誓い合った。
(まあ、ふたりが幸せなら、それで良いか)
こんな展開になるとは思ってもみなかったが、幸せそうなふたりの様子に思わず頬が弛む。なにはともあれ、平和的な解決ができたようで良かった。
「そういえば、炭斗の制服をまだ用意していなかったね。今度手伝ってもらう時に必要だから、花梨、炭斗と一緒に上に行って大きさが合うものを見繕ってきてくれないかい?」
(あ、それ本気だったんだ)
店の手伝いの話はまるでついでのように言っていたので、本当にやらせるとは思っていなかった。
花梨は頷くと、炭斗を連れてバックヤードから階段で二階に上る。
祖父が生きていた頃は住居に使っていた二階だが、今は倉庫代わりになっていた。まだそのまま残してある部屋もあるが、大半は店に必要なものを置くスペースになっている。
「あの……すみません。お仕事中に」
「いえ。棗さんに言われたことなので、これも仕事の内です」
申し訳なさそうな炭斗に軽い口調で返し、部屋の隅に積み上げた段ボール箱をふたりで下ろす。
手分けして箱の中身を確認し始めたが、自然と落ちた沈黙がなんとなく気まずい。お互いにまだよく話したことがないので、会話をするにもどう切り出したら良いのか判らない。
しかし、数分もしない内に炭斗が思い切ったように口を開いた。
「あ、あの! 先日は、すみませんでした!」
突然、土下座でもしそうな勢いで謝罪され、花梨は目を丸くする。
「脅されていたとはいえ、巻き込んでしまって……怖い思いをさせてしまった」
膝の上に置いた拳がぎゅっと握られ、僅かに身体も震えている。そんな彼の様子に切実な思いを感じ取り、花梨はふっと肩から力を抜いた。
彼が本当に優しい妖怪なのだと判る。そんな彼を利用しようとした香合は許せないし、花入が好きになったのも頷けるというものだ。
「確かに、怖かったです」
花梨の言葉に、炭斗の肩が怯えたように跳ねる。だからもう一段、花梨は声音を柔らかくした。
「でも、炭斗さんが悪いわけではないです。悪いのは全部、あの女郎蜘蛛なんですから。でも、それでも、自分が悪いと思うのなら、花入さんを目一杯幸せにしてあげてください」
「――はい!」
持ち上がった双眸は、涙で潤んでいる。しかしその表情は笑っていて、決意のような強い光も奥に見えた気がした。
きっと、ふたりは大丈夫だ。そう思わせてくれるような、良い返事だった。
炭斗に訊きたいことがあったが、尋ねて良いものかと一度逡巡する。しかし訊くなら今しかないと、花梨は僅かに身を乗り出した。
「炭斗さんは花入さんに想いを伝えた時、怖くはなかったですか?」
自分の意志ではなかったとはいえ、炭斗は妖狐一族を、花入を騙した。偽りの婚礼の儀の最中にも、彼女に逃げられているのだ。
炭斗自身、花入に嫌われていると思って当然だし、事実、真実が判明するまで彼女は彼を恨んでいるようだった。
そんな相手に気持ちを打ち明けるのは相当な勇気が要ることで、余計に嫌われるのではと不安になったのではないかと思ったのだ。
花梨の目を見た炭斗は、眉根を寄せて口を開く。
「……怖かったです。それはもう、物凄く。絶対に拒絶されるって思っていました。でも、それでも、今伝えないと後悔するとも思ったんです。もしかしたら、花入さんとはもうこのまま二度と会えなくなるのかもしれない。それなら、全部吐き出してしまった方が良いって」
炭斗の目は、真っ直ぐに視線を投げかけてくる。花入に告白する前はきっと不安定な色をしていたのだろうと容易に想像がつくのに、今は僅かな揺らぎすらない。
「勇気を出して、告白をして良かった」
晴れ晴れとした笑顔を浮かべる炭斗を、花梨は純粋に凄いと思った。
自分を良く思っていないだろう相手に、気持ちを曝け出す。それは、どう考えてもやはり凄く怖いことだと思う。下手をすれば、より関係が悪化してしまうかもしれないのだから。
花梨の脳裏に、一人の影がちらつく。
自分にも、炭斗と同じことができるだろうか。それだけの勇気を出せるだろうかと、自問する。けれど制服を探している間には、答えは出なかった。




