終章 (2)
男物の制服が入った箱を見つけ、炭斗の身体に合いそうなものを選び取る。彼自身も気に入ってくれたようで、手伝う日が楽しみだなんて零していた。
店に戻ると、コーヒーを注文したらしい花入が棗と談笑している。花入に促されて隣に腰かけた炭斗に彼女の話し相手が移行したので、花梨は棗に目を向けた。
「棗さん、段ボール箱にはちゃんと中身を書いておいた方が良いですよ。制服探すのちょっと大変で――」
棗の肩越し、視界の端に映った店の外。そこに、見覚えのあるチェック柄の傘の先が去っていくのが見えて、言葉が途切れる。
固まった花梨はどうしようかと悩んだが、今は仕事中だ。身勝手に動いて良い時間ではない。
そう諦めかけた時、手にしていた炭斗の制服の入った袋を棗が取り上げる。
「花梨、今日は出ずっぱりだろう。そろそろ休憩に入りな」
顔を上げた先の棗は、微かに笑っている。
きっと彼女には、花梨の考えていることなどお見通しなのだろう。言い訳をして逃げようとしたことも、全部。昔からそうなのだ。
花梨は唇を噛み、傘も持たずに店を飛び出した。道路を見遣るとビルの角に消えていく影が見えて、必死に走った。
角を曲がった数メートル先に、背中がある。それに向かって、花梨は口を開いた。
「枝美ちゃん!」
「!」
枝美が驚いた表情で振り返る。顔を見たら、折角湧いた勇気が萎んで恐怖に包まれてしまいそうになる。しかしそれをどうにか振り切って、喉から声を押し出した。
「ごめんなさい。怖い思いをさせてしまって、ごめんなさい。でも、これだけは知っていて欲しくて。わたしは、枝美ちゃんを怖がらせたかったんじゃない。わたし、こんなだから、色々上手くいかなくて、それで……!」
つっかえつっかえ、どうにか心にあるものを言葉にする。それが全然上手くいっていない自覚はあった。
それでも、これだけは伝えたいと思った。
「でも――でもね。わたし、枝美ちゃんと一緒にいて楽しかった。嬉しかったの。だから、」
息を吸い込む。雨に打ち落とされないように、枝美に届くように。
「ありがとう!」
思った以上に、体力も精神も注ぎ込んでいたらしい。肩が上下して、心臓も強く胸を打っている。
言いたいことは言えた。後は、文句でも恨み言でも聞くつもりだ。
傷つかないわけではない。言われたことの如何によっては、泣いてしまうかもしれない。だが、あの時枝美を怖がらせた分くらいは、詰られても仕方がない。
ぎゅっと目を閉じて、その時を待つ。しかし不意に訪れたのは、身体を打っていた雨が遮られる感覚だった。
そっと顔を上げると、こちらに傘をさしかけた枝美がすぐ目の前に立っている。
「傘もささないで。風邪引くよ」
目を丸くする花梨に、枝美は今にも泣きそうな表情を浮かべた。
「……確かに、あの時は怖かったよ。花梨ちゃんが何してるかなんて、あたしは判んなかったから。でも、花梨ちゃんがあたしを怖がらせようとしてるんじゃないって解ってた。短い間だけど、一緒にいたんだもん。そんな子じゃないって、知ってた。だけど、あの時はつい噂のことを思い出して、目の前で起こったことを結びつけちゃったの。それで、花梨ちゃんを傷つけた」
枝美の表情が歪んだかと思うと、その瞳が潤んだ。一筋頬を流れ、雨と一緒に地面に落ちる。
「ごめん――ごめんね。あの時は、何か事情があったんでしょ? あたし、何度も謝ろうって思ったんだけど、花梨ちゃんに嫌われたんじゃないかって思ったら怖くて。ずっと避けちゃって……高校も違うとこに行っちゃったから、もう会えないかもって後悔もして。そしたら、あの喫茶店でバイトしてるの知って、また会えて良かったって思ったんだ」
目元を手の甲で拭い、肩にかけた学生鞄から一冊の本を取り出す。
「それから、これ。借りっぱなしだったから。何度か喫茶店に行ったんだけど、花梨ちゃんいないみたいだったから。一回店主さんに渡しておいて欲しいってお願いしたんだけど、それは自分で渡せって言われちゃって。今まで返せなくて、ごめん」
差し出されたのは、中学時代に夏祭りに行く直前、最後に枝美に貸した文庫本だった。そんなことこっちはすっかり忘れていたのに、枝美は大事に持っていてくれたのだ。
花梨が受け取ろうと手を伸ばすと、彼女はさっと引っ込めて胸に抱えた。
「花梨ちゃん、今濡れてるから、本が駄目になっちゃう。後で渡すよ。だから……だからね」
少し言い難そうに視線を泳がせ、しかし最後にはしっかりと花梨の目を見た。
「また、話だけでもできないかな」
勇気を出して良かったと言った、炭斗の表情を思い出す。自分もきっと、同じような顔をしているのだろう。
花梨はまた泣き出してしまいそうな枝美に少しだけ微笑んで、彼女の手にしている本を指差してみせた。
「その本の感想が聴きたいな」
「――! ……うん!」
ほっとしたように、枝美が頬を赤らめる。
その瞬間、視界が晴れるように明るくなった。二人揃って上を見ると、ぱらぱらと小雨になった空に青が覗いている。
「……狐の嫁入り」
どちらからともなく、声が零れる。
これは多分、妖怪の儀式によるものではなく、単純な気象現象だ。
雨粒が陽を反射して輝き、とても綺麗だった。
花梨はエプロンで軽く手を拭ってから、枝美の手を引く。
「お店に戻ろう。今日の日替わりケーキ、わたしの好きなチョコケーキなんだ。食べながら、色々聴かせて」
「花梨ちゃんの話も聴きたい」
二人で笑顔を見合わせて、店に向かって歩を進める。
雨水を踏む音が心地良い。なんだかそれに背中を押された気がした。
「あのさ、今年の夏祭り、良かったら一緒に行かない?」
今度は自分から誘いたいと思った。けれど言ってしまってから不安になって、そっと枝美を窺う。すると彼女は顔いっぱいに笑みを零して、勢いよく頷いた。
「勿論!」
枝美には、まだこの眼のことは話せない。
でもいつか、これから共に時を重ねた後に、打ち明けられる日が来るだろうか。その時に枝美は信じて受け入れてくれるだろうか。
そうやって未来を不安に思うことも、今は嬉しい。
だからただ、今はこの時を大事にしよう。
ぱらつく雨と明るい陽射しの中、笑い合える今の瞬間が花梨の宝物になった。




