第二章 (2)
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「……こ、怖かったぁ」
紫陽花の通りに出た花梨達は暫くあの一帯を逃げ回り、どうにか追っ手を撒いてから雨夜の月に逃げ込んだ。
店の扉を閉めるなり、花梨はへなへなとその場に座り込む。今頃になって脚が震え、少しの間は立ち上がることも難しそうだ。
「花梨さん、ごめんなさい。巻き込んでしまって……」
花嫁――妖狐の花入は花梨の傍にしゃがみ込み、済まなそうに目を伏せる。
花梨は小さく首を振って、彼女の前脚を握った。雨に濡れたせいか、肉球が少し冷たい。
「大丈夫です。常連さんが困ってたら、助けたいですから」
花入は、雨夜の月の常連客だ。必然的に顔を合わせることは多いし、会話もする。親しい間柄とはあまり言えないかもしれないが、友人のいない花梨にとって近しい存在であることには変わりない。
自分の周りにいるのは、人間よりも妖怪の方が多いのかもしれない。ふとそう思って、思わず心の中で苦笑した。
それに、彼女はひったくり犯が店に来た時に助けてくれた妖怪達のひとりでもある。のっぺら坊に化けていた、あの妖狐だ。
だから、花入が困っているのなら力になりたい。ただ、自然とそう思ったのだ。
「それじゃあ、話をゆっくり聴かせてもらおうかね。事情が分からないと、どうにもできないからさ」
言いながら、棗が外を見遣る。
先ほどまでは天気雨だった空も今は暗んで、雨も本格的に降ってきた。道路に雨が叩きつけているのが、店内からよく見える。
本来ならば店を開く天候ではあるが、今日ばかりは入り口に鍵をかけて花入から話を聴くことになった。
慌てて飛び込んできた花梨達に動揺することもなかった建水は、詳しいことを訊きもせず、花梨が頼んだ通りに温かなコーヒーを三杯用意してくれた。
いつも思うが、彼はあまりにも冷静過ぎる。まるで人形のようだと何度か思ったことがあるが、時折見せる優しさや微笑みから感情はしっかりあるらしいと判る。彼もまた、棗と同じく不思議な妖怪だ。
座敷席で花梨の隣に花入、その正面に棗が腰を下ろす。
温かいカップを両脚で包んだ花入の表情が柔らかくなって、花梨自身もなんだかほっとした。
「あの嫁入りは、うちの望んだものではないんです」
花入はそう切り出して、数ヶ月前の出来事から話し始めた。
始まりは、化け狸が花入の父親を助けたことだった。
花入の父親はこの一帯の妖狐を取り纏める長で、その日は山中の見回りをしていて足を滑らせて怪我をしてしまった。動くことができずに困っていたところを、彼に救われたのだという。
長を連れ帰ってきた化け狸は炭斗と名乗った。彼は放浪の身で帰るところもないと言うので、暫くうちにいれば良いと長が提案した。炭斗は申し訳なさそうにしていたが、助けてくれた礼だと言ってそうしてもらうことにした。
それから一週間ほど、炭斗は長の家族が暮らす住処に留まることになった。その間、彼は長の怪我の治療や妖狐達の生活の手伝いを甲斐甲斐しく行っていた。
その結果、炭斗をいたく気に入った長は、彼を娘の婿にしたいと言い出した。
花入自身、彼の行動には感謝していたし、妖狐達との接し方も優しくて、恋愛感情とまではいかないものの、それなりに好意を持っていた。だから、彼と夫婦になって周りが幸せになるのなら、それも良いのかもしれないと思っていた。
婚礼の準備は着々と進んでいった。
そんなある日の晩、花入は寝床からこっそりと出ていく炭斗の姿を目撃した。気になってこっそり跡をつけていくと、彼は小さな社の前にやってきた。
そして辺りを見回してから、社の扉に手をかけて開けようとしたのだ。しかし、いくら引けども押せども、社の扉はびくともしない。
それも当然だ。その社は長が管理しており、彼の力を注がないと開かないように結界が張られているのだから。
炭斗は諦めて寝床に戻ったが、それを見てしまった花入はその日はもう眠れなかった。
あの社に収められているのは“殺生石”という石だ。妖狐達にとっての門外不出の宝である。
それを炭斗は盗もうとしたのだ。
殺生石が社から出されるのは、妖狐達が執り行う決まった儀式の際だけ。それこそ、誰かの嫁入りなどである。
炭斗は、殺生石目当てで花入と結婚しようとしているのではないか。嫁入りの儀式の中で殺生石が社から出た瞬間、彼は豹変して殺生石を奪い、妖狐達を傷つけるのではないか。もしかしたら、最初からそのつもりで長に近づいたのかもしれない。
そう思うと恐ろしくて、花入はすぐさま長にそのことを訴えた。しかし長は彼がそんなことをするはずがないと、証拠もないのにそんなことを言うなと一蹴されてしまった。
長は頑固なところがあるし、花入も一度は結婚に頷いてしまっている。準備もほとんど終わっている中で中止にはできないのは確かだった。
そして今日、逃げ出すこともできなかった花入は婚礼の儀式に出ざるを得なかった。その途中で棗の気配を感じ取った花入は、咄嗟に助けを求めたのだという。
殺生石が社から出されるのは、婚礼の最後の時。だからまだ、宝は無事のままであるはずだ。
そう話しながら、花入は今にも泣き出しそうな顔をしていた。そんな彼女のすっかり冷めてしまったコーヒーを、建水が黙ったまま新しいものと取り替える。
湯気の立つ香ばしいコーヒーを一口飲んだ花入は、少しだけ落ち着いた様子になった。
炭斗という狸の妖怪は、行列で見た印象しか判らない。それでも、花梨には彼がそんなことをするようには見えなかった。
しかし花入が嘘を言っているようには思えないし、人も妖怪も見かけによらないことは往々にしてあるものだ。穏やかなふりをしていながら、実のところの本性は凶悪な妖怪なのかもしれない。
そもそも出会ったばかりの相手と娘を結婚させようとは、どういう了見なのだろう。妖怪は総じて人間よりずっと長寿で考え方も古いので、そういうのも当たり前なのかもしれないが、現代を生きる花梨にとっては信じられない。話を聴く限り、花入があまりにも可哀想だ。
「まあ、そういうことならこのまま帰すわけにもいかないね。その炭斗って奴が殺生石を狙っているなら尚更だ。そこで、どうだろう」
棗がカップを置いて、小首を傾げる。
「暫く、この店にいたらどうだい? 私も簡単な術なら使えるから、花入を捜している妖怪は入店できないようにできる。その代わり、従業員として働いてもらうことになるけど、それでも構わないなら匿ってあげるよ」
「是非、お願いします!」
間髪入れずに、花入が承諾の返事をした。
花梨は棗は人使いが荒いから少し考えた方が良いと言おうとしたのに、そんな暇はなかった。
とはいえ、棗が頼りになることは事実だ。ここにいさえすれば、花入も安全に過ごせるだろう。
花梨はなんともいえない気持ちを抱えながら、冷たいコーヒーを啜った。




