第二章 (1)
昔から、本が沢山ある家だった。両親が共に読書家で、本ならば幾らでも買って貰えた。
幼い頃から本に触れる機会が多かった為か、花梨にとって本のある生活は当たり前のものだった。自然と読書が好きになり、今でも鞄には必ず一冊の本を忍ばせてある。
控えめな笑い声が耳に入って、花梨は本のページから顔を上げた。
乗客も疎らな電車の車内。花梨から通路を挟んだ斜向かいに当たる座席に、二人組の女子高生がいた。くすくすと笑いながら、楽しそうに何かを話しているようだ。
花梨は彼女達から視線を逸らし、正面の車窓を見遣る。雨粒を弾きながら行き過ぎていく景色は薄暗く、少し淋しげだ。
彼女達のように笑い合える友人が、花梨にもいたことがあった。けれど、それはそう長くは続かなかった。
妖怪を視る、この目のせいだ。
普通は視えないモノを視る人間は、傍から見れば気味が悪いに違いない。幼い頃の花梨は皆にも視えるものと思って自由に話した結果、同級生から嘘吐きだと嫌われて遠巻きにされた。
学校で一人きりになった花梨は、孤独な時間を埋めるように物語の世界に夢中になった。
本は花梨にとって楽しみであり、逃げ場でもあったのだ。それは今でも変わらない。
本当は一からやり直したいと思って、高校は地元から離れた学校にした。だというのに人付き合いの経験が浅いせいでどう接したら良いのか判らず、入学して一ヶ月以上が経った今も友人らしい友人はいない。
周囲から気味悪がられないのは良いことだが、それ以外は以前と変わらず進歩がなかった。
最寄り駅に着いて電車を降りると、雲の流れのせいか外が明るかった。しかし、雨は小雨ながらも降り続いている。天気雨というやつだ。
この天候だと、雨夜の月は営業しているのだろうか。一瞬考え込んだが、すぐに店の方へと足を向ける。
不定期営業だというのに、やっているのに行かないでいると棗が五月蠅いのだ。一応、顔を出してみよう。どうせ家に帰っても、本を読むくらいしかやることがないのだから。
棗が店を引き継いだ後、中学校に上がった花梨は店の手伝いを始めた。
自宅から近いこともあって祖父が生きていた頃はよく遊びに行っていた為、喫茶店の空間は花梨にとって思い出深く、大切な場所だった。そこにいたいという気持ちと、何か手伝いたいという思いが合致した結果である。祖父が大事にしていたものを守りたいという理由も、少なからずあった。
棗も花梨が手伝ってくれるなら心強いと、快く承諾してくれた。
とはいえ中学生の身分でアルバイトは難しく、知人の店の手伝いという形だ。当時は手間賃として小遣い程度の駄賃を貰っていた。
そしてこの春、晴れて高校に入学し、花梨は正式にアルバイトとして雇ってもらったのだ。
肩書は昇格したが、やることはさして変わらない。今も昔も、変わらず棗にこき使われる日々である。
喫茶店での仕事は楽しいし、やりがいも感じている。だが、偶に難しい仕事も押し付けられるので、そこが少々難点ではあった。
傘に当たる雨の音を聞きながら歩いていると、道端の緑の間に紫陽花が蕾をつけているのを見つけた。
そういえば、もう暫くすれば梅雨に入る季節だ。雨が続けば、その分アルバイトの時間も増える。定期テストの勉強もしなければならないので、この時季は忙しくなる。
少し憂鬱になりながら道の先を見遣ると、蛇の目傘が歩いてくるのが見えた。昨今蛇の目傘など使う人は稀であるし、あの菫色には見覚えがある。
「棗さん、今日はお店お休みですか?」
藍色の着物を身に纏った棗は、店の制服とはまた違った妖艶な雰囲気だ。下ろした髪と手に持った煙管がまた、彼女を不可思議な存在に思わせる。
流石に店の中では建水に叱られるので吸いはしないが、他の場面では煙管を片手に携えていることが多い。あまり見えないが、結構なヘビースモーカーなのである。
棗は傘を傾けて微笑んだ。そんな何気ない仕草でさえも美しく見えるのだから、時々ずるいと思う。
「休みだよ。この辺りは雨が降っているが、店の周辺は良い天気なんだ。紫陽花を見ていたのかい?」
「もうすぐ梅雨だなって思って」
棗が身を屈めて、紫陽花の蕾を細い指先で弾いた。小さな飛沫が飛んで、陽光を乱反射させる。
「そうだね。そうしたら、うちは稼ぎ時だね」
「……お手柔らかにお願いします」
「ふふ」
「そういえば、今日は建水さんは一緒じゃないんですね」
寡黙で存在感が薄めの建水だが、棗に付き従うように一緒にいることが多く、彼女の言動を諫めることもあった。そんな彼が棗の傍にいないのは珍しい。
すると、棗は「ああ」と言って脚を伸ばした。
「建水には、店の片づけをお願いしてあるんだ。ここのところ、店はともかくバックヤードの方はあまり手が回っていなかったからね」
「棗さんは手伝わないんですか?」
「私は、買い出し担当でね」
きっぱりと言い切るが、棗の手には傘と煙管以外に持ち物が見当たらない。彼女はスマートフォンを持っていないし、財布も多分持ってきていないのだろう。
きっと買い出しと理由をつけて、店から逃げてきたのだ。その辺りは建水も甘いところがあるから、棗も彼を扱き使うのだ。
後で手伝いにいこうかと考える花梨の耳に、突然鈴の音が聞こえてきた。雨音に紛れて、けれど確かに透き通った音色がする。
紫陽花の向こうから聞こえるようだが、そちらは林になっているはずだ。特に立入禁止にはなっていないが、危ないから入らないようにこの辺りの子ども達は言い含められている。
当然、花梨も立ち入ったことはない。そもそもがインドア派なので、そういう冒険には縁がなかった。
「おや、珍しいね」
棗が唐突に紫陽花を掻き分けて奥に入っていこうとするので、花梨は慌てて彼女の手を掴んだ。
「ち、ちょっと、棗さん! 入ってっちゃ駄目ですよ」
「良いから、良いから。花梨もおいで。面白いものが見られるよ」
掴んでいたはずの手がいつの間にか掴まれていて、花梨は引っ張られるようにして棗と共に紫陽花の中に足を踏み入れた。
紫陽花はすぐに草木に変わり、十数歩行ったところで立ち止まる。
左右を見ると、草むらから疎らに妖怪達が顔を出していた。
こんなところに集まって何があるのだろうかと不思議に思っていると、不意に視界が翳り、しかし次の瞬間には元に戻った。
「念の為、これをつけておいで」
花梨の後頭部で、棗が紐を結んでいる。顔に手を遣ると、かさりと紙の感触がした。
目元だけを隠す形の、和紙でできた面だ。これには特殊な術がかけられており、人間の気配や匂いを消してくれるのだという。
妖怪の中には、人間に好意的なモノがいれば、敵意を持っていたり、悪戯をしようとしたり、傷つけようとするモノもいる。
雨夜の月にやってくる妖怪は基本的に人が好きだし、たとえそうでない妖怪客が来たとしても棗や建水、他の客もいるので大事になることはそうそうない。しかし、一歩外に出れば、何が起こるか分からないのだ。
況して花梨は視える人間。好奇心旺盛な妖怪を思えば、普通の人より危険が大きいといえる。
だから不特定多数の妖怪がいる場所に赴く際は、こうして棗からこの面を借りることが常だった。
最初は逆に目立つのではないかと心配したが、様々な理由から正体を知られたくないという妖怪も似たような面をつけていることがあるので、案外不審に思われることはない。
花梨は癖でつい瞬きを繰り返した。目元を隠してしまうのにクリアに視界が広がるのが、未だに不思議でならない。
一定の間隔で響き続けている鈴の音が、徐々に大きくなっている。その音と周囲の妖怪達の視線を追って林の奥に視線を投げると、先ほどまでは下草で鬱蒼としていたところにいつの間にか道ができている。そしてその向こうに、何かの影が幾つもゆらゆらと提灯のように揺れていた。
だんだんと近づいてくるそれに目を凝らし、やがて行列だということが判る。
「狐の嫁入りだよ」
明るい空からぱらぱらと雨粒が落ちてくる中、棗が小声で耳打ちしてくれた言葉通りに狐達が仰々しく歩いてくる。
白、黒、黄金色と毛並みの種類は様々だが、皆一様に正装を身に纏う。一歩一歩を踏み締めるように、じれったいほどゆっくりと歩みを進めている。
先導の顔が判別できるほどに近づいてくると、その数列後ろに新郎新婦の姿が見えてくる。
白無垢が雨粒と陽光を弾いて、上品に輝いている。花嫁は俯きがちで表情は判らないが、美しい銀の毛並みをしているようだ。
「……あれ?」
思わず、小さく声が漏れる。花婿の姿が目立っていたのだ。
結婚式の主役は新郎新婦。だから目立つのは当然なのだが、彼の場合は別の意味で目を引いた。
丸い耳に茶の毛並み、口吻は短く、紋付き羽織袴では隠せないほどに腹が出ている。どこからどう見ても、狸にしか見えない姿だったのだ。
妖怪の世界では、このような異類婚のようなものは当たり前なのだろうか。人間でいう、国際結婚のようなものなのかもしれない。
棗に尋ねてみたいが、粛々とした空気の中で意図的に声を出すのは憚られた。
それにしても、幻想的な光景だ。相反する天気の中で、静かに、華やかに、そして妖しく執り行われる花嫁行列。
どこか別の時空の様子を眺めているような気さえしてくる。
そうこうしている内に、花梨達の目の前を新郎新婦が差し掛かった。
その時、はっとしたように花嫁が顔を上げた。綿帽子の下から現れた見知った顔と目が合った瞬間、弾かれたように彼女がこちらに身を投げる。
「お願いします! 助けてください!」
その身体を思わず抱き留めた花梨は状況が呑み込めずに目を白黒させ、それに気を留める余裕すらないらしい花嫁は必死に訴える。
そんなふたりの手を取った棗は、元来た方へと駆け出した。
「ひとまず逃げるよ」
引っ張られるがまま足を動かしながら背後を振り返ると、狐達が何やら叫びながら追いかけてくるのが見えた。普通の狐とは違って恐ろしい程の形相と勢いでこちらに迫ろうとしており、花梨は恐怖に喉を鳴らした。
それ以降は後ろを振り返る勇気が出ず、ただ只管、棗の背中についていくので精一杯だった。




