第一章 (2)
小型のスーパーは日頃の買い物でも使っているので、何処に何が置いてあるのかは把握している。真っ直ぐにパン売り場に向かって有名企業のロゴが入った食パンの袋を手に取り、会計を済ませて店を出る。
雨が降りしきる中、足早に道路の端を歩いた。傘は前方に傾けて、なるべく顔を俯かせる。
雨天ということもあって人通りは少ないが、一応は駅前だ。顔見知りに出会わないとも限らない。
しかしそうやって歩いていたせいで、傘の縁から急にパンプスを履いた足が現れて、ぎょっとつんのめりながら立ち止まった。
「きゃっ」
「わっ……あ、あのすみません。前ちゃんと見てなくて。大丈夫ですか?」
恐る恐る傘を退かすと、ワンピース姿の女性が驚いた顔をしていた。彼女はこちらに背を向けて立っていたらしく、花梨の接近に気がつかなかったようだ。
よく見ると、シャッターの閉まった商店の軒先だ。閉じた傘を腕にかけた彼女は、すぐに首を振る。
「こっちこそ、気がつかなくてごめんなさい。怪我はないかしら?」
「わたしは、大丈夫です」
お互いに怪我がないことを確認してから、花梨は再び雨の中に戻った。そうしてから、女性の正面に警察官が二人いたことを知る。
「すみません。ええと、何でしたっけ?」
「ひったくられた鞄の特徴を伺いたいのですが」
「ああ、はい。このくらいのハンドバッグで、色は赤の――」
(ひったくりか。最近、時々聞くな)
つい昨日も、自宅近くの掲示板に注意喚起の張り紙がしてあったのを思い出す。この辺りで何人か被害に遭っていて、未だに犯人は捕まらないそうだ。
学生の鞄をひったくったところで碌に金銭は入っていないだろうから狙われることは少ないとは思うが、念の為、気をつけておくに越したことはない。
そう心に留め置きながら妙な引っかかりを覚えた花梨だったが、すぐに店に帰り着いたので仕事に頭を切り替えた。
買ってきた食パンで作ったサンドウィッチを男性客に提供した後は、追加の注文も新しい客の訪れもなく、穏やかな時間が流れた。
母親と一緒にテーブル席でジュースを飲んでいる幼稚園児の男の子が時折上げる小さな笑い声も、カウンター席で老翁が新聞を捲る音も、その隣でオムライスを食べている少女の立てる食器の擦れる音も、全部が心地良い。
時たま訪れるこの平穏な時間が、花梨は堪らなく好きだった。
それから数十分ほどが経った頃、最奥に座っていたパーカー姿の男性客が会計に立つ。店にいる間中ずっとフードは被りっぱなしで、気配も希薄に感じるほど静かだった。
レジ台に伝票を置く男の傍に向かった花梨は、真っ直ぐに彼を見上げた。
「失礼ですが、そのトートバッグの中の――」
「――!」
言い終わらない内に、男の身体が動く。自分を突き飛ばそうと伸びてきた腕を咄嗟に掴んだ花梨は、そのまま背負い投げの要領で男を床に投げ飛ばした。
引っ繰り返った男は何が起こったのか判らないといった様子で目を瞬かせていたが、すぐに顔を蒼くして唇を戦慄かせる。
「――あ」
振り返った花梨が軽く声を漏らす。
そこには、ろくろ首、一つ目入道、のっぺら坊、河童の親子に傘お化けと、妖怪の有名どころが顔を揃えていたのだ。
男は信じられないものを見たと言わんばかりに目を見開き、上手く動かないらしい脚をばたつかせながら数ミリずつ扉に後退っていく。
ろくろ首がその自慢の首を伸ばして顔を近づかせていくと、耐え切れなくなった男は勢いよく立ち上がってそのまま悲鳴を上げながら店を飛び出していった。
「あ、お会計」
「大丈夫」
黙って見送ってしまってから男が代金を払っていないことに気づいた花梨に、棗がレジの下を指差す。そこには男が落としていったのであろう小さな革張りの財布があり、拾い上げた棗がちゃっかりとコーヒー代を抜いた。
「た、たたた助けてください!」
外から声が聞こえ、少し開いた扉から窺ってみると、道の向こうで先ほどの男が二人組の警察官に泣きついているのが見えた。肩にかけたトートバッグから赤いハンドバッグが転げ落ちたのを見て、警察官が男を取り押さえる。
ひとまずは一件落着といったところだろうか。息を吐いた花梨は店内に目を戻し、お化け屋敷さながらの光景にもう一度嘆息を漏らす。
「皆さん、やり過ぎです」
「いやあ、花梨ちゃんが危ないと思って、つい」
表情、気配共におどろおどろしい雰囲気を醸し出していた数秒前とは一変、全員が苦笑いで和やかな空気になる。
花梨が小学生の頃に柔道を習っていたのを知っている癖に、と言いたくなったが、助けようとしてくれたことは有り難く思うので、言葉を呑み込んでおく。
雨夜の月は、妖怪達がやってくる喫茶店だ。
店があるこの土地は少し特殊な場所で、雨が降る時間だけ人間の世界である“現”と妖怪の世界である“まほろば”が重なるのだ。
本来、二つの世界を繋げるには、決まった場所で決まった手順を踏まなければならないのだが、ここだけは雨が降ると自然と互いの世界からの行き来が可能になる。
「ほらほら。人間のお客が来たら、びっくりするだろう。さっさと人間に化けて、席に戻ってくださいな」
棗が手を叩くと、妖怪達はそれぞれ人間へと姿を変じる。
ろくろ首はカーディガンの女性に。一つ目入道は長身のスーツの男性に。河童の親子は優しそうな母親と元気な男の子に。傘お化けはTシャツ姿の老翁に。そしてのっぺら坊は一度妖狐に戻ってから、再び少女になって食事に戻っていく。
花梨にとっては見慣れたものだが、一般人がこれを目の当たりにしたら先ほどの男のように飛んで逃げるのだろう。もしかしたら、気を失うかもしれない。
棗もまた、雨女という妖怪だ。建水は蝦蟇だという。
雨夜の月は、元々花梨の祖父である楸が営んでいた店だった。今から五年前に楸が他界したのをきっかけに、棗が引き継いだ。
店がある古民家は花梨の祖父母が住んでいた家だったが、花梨が生まれて間もなく祖母が亡くなり、その数年後に一人で住むには広過ぎるといって祖父が一階を改装して喫茶店を始めたのだ。
当時は天候に関係なく気紛れに店を開いていたが、今は現とまほろばの関係もあって雨の日だけの営業を行っている。
雨女というのは行く先々で雨を降らせる妖怪だというが、棗が店にいるから雨の日営業に自然となっているのか、彼女が雨の日を選んでいるのかは、未だに謎である。
一度棗に直接訊いてみたことはあるが、教えてはくれなかった。彼女曰く「秘密があった方が楽しいだろう」ということである。
棗とは付き合いが長いが、彼女に関してはよく分からないことばかりだ。それもまた、妖怪らしいといえば妖怪らしいともいえる。
雨夜の月を訪れる妖怪は皆、人間に好意的だ。人間の客も来ることを承知しているモノばかりなので、店にいる時は人間に化けてくれている。
妖怪の姿は、基本的に視る力を持つ人間にしか視えない。それは生まれつき持った能力で、花梨もその内の一人だ。
祖父もまた視える人だった。彼がいた頃から妖怪の客は訪れており、人間の客と分け隔てなく接していた。棗とは旧友なのだと笑いながら言っていたのを、今でも思い出す。
ならば何故、あの男には視えたのかというと、それは妖怪達の力によるものである。
それなりに妖力を持つモノに限られるそうだが、術で視えない人間にも視えるようにできるのだという。また、人間に化けることができれば、その姿は誰の目にも映るそうだ。
ウィンドウ越しに外を見れば、営業中なので当然雨が降っている。
ひったくり犯がこの店で怖い目に遭ったと訴える可能性が高いから、後で警察官が事情を聞きに来るかもしれない。男が落としていった財布もここにあるのだ。
気を引き締めた時、カウベルの音が響く。花梨は笑顔を作って入り口に身体を向けた。
「いらっしゃいませ」




