第一章 (1)
雨の音がする。
頭の隅では店に行かなければと思うのに、まだ眠くて微睡が意識を引き留める。それに、雨音が子守唄のように心地良いのだ。幕のように辺りを包む音が自分を守ってくれているような気がして、安心感を覚える。
夢の触手に搦め捕られそうになったその時、手許にあったスマートフォンの振動に、月虹花梨ははっと顔を上げた。
ぼんやりする頭で辺りを見回し、自分がまだ学校にいたことを思い出した。放課後の教室は雨天のせいで薄暗く、誰もいない。
スマートフォンの画面を見ると、ニュースアプリの夕方のまとめ通知がきていた。
花梨は一つ息を吐いて、手早く帰り支度をする。何の面白味もない黒色の傘をさして駅へ向かい、丁度ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。
高校は地元から離れたところにしたので、暫く揺られなければならない。
座ったまま中途半端に眠ってしまったせいで、身体が怠い。電車に乗っている間に雨がやんでしまえば良いのにと思っていたが、車窓から見える景色は一度も晴れ間を見せずに最寄り駅に着いてしまった。
駅から徒歩十五分。寂れた商店街を抜けて住宅地に入り、細い道を曲がったところにそれはあった。
二階建ての古民家は古いながらにしっかりとした立ち姿で、雨の中がよく似合う。玄関の前を素通りして数歩進むと、別の入り口が見えてくる。
『喫茶 雨夜の月』と書かれた分厚い木製の看板を通り過ぎた花梨は、大きなウィンドウを横目に扉を開く。カランコロンとカウベルが鳴り、振り返った女性が片眉を上げた。
「遅い」
「……仕方ないじゃないですか。学校遠いんだから」
「その点を考慮しても、遅いだろう。学校で何をやっていたんだい?」
まさか教室で寝ていましたとは言えず、日直の仕事があったと嘘を吐いて誤魔化す。
しかし多分、誤魔化し切れてはいないのだろう。彼女――棗は昔から察しの良いところがあり、あまり隠し事ができないのだ。
整った顔立ちに縹色の瞳。腰まである濡れ羽色の髪は艶やかで、首の後ろで一つに結っている。肩に流れた髪が少々艶めかしい。
所謂美人という表現がぴったりで、一つ一つの所作が絵になるほどだ。しかし飄々とした性格は捉えどころがなく、不思議な雰囲気を纏ったヒトである。
ここは、彼女が店主を務める喫茶店だ。入り口正面から奥に向かってカウンター席が伸び、その背中側に衝立を挟んでテーブル席が並ぶ。更に通路を挟んだ一番奥には、座敷も設けてある。
壁、床共に木目が美しい落ち着いた茶色で、天井から吊るされた笠を被った洋灯が店内を穏やかに照らす。テーブルやカウンターにはステンドグラスをあしらったテーブルランプが置かれ、店正面のウィンドウの他にある小さな飾り窓にも控え目にステンドグラスが彩っている。
全体的に大正浪漫な雰囲気の店内に合わせて、メニューもレトロなものを揃えている。中でも人気なのはケチャップを使ったオムライスで、花梨も気に入りの味だ。
従業員の制服も着物に白エプロンで、女性用のエプロンの縁にはフリルがついていた。棗の紅色の着物姿は見慣れているが、その容姿と相俟って、いつ見ても端麗だと感じてしまう。
「……着替えてきます」
胡乱な視線から避けるようにして、カウンター内に入る。奥の扉に向かう途中、作業場でコーヒーを淹れていた木賊色の着物の男性が振り返ったので、花梨はいつものように頭を下げて通り過ぎた。
肩にかかるほどの深緑の髪をきっちり一つに纏めた様子は、いかにも真面目といった雰囲気だ。建水という名の彼の細い茶の双眸は一見すると冷たいようにも感じられるが、よく見ればその奥に優しさが感じ取れる。
彼もまたこの店の従業員である。基本寡黙で、大概は容姿が目立ちがちな棗と共にいるので存在感が薄いことがままあった。
しかし建水が淹れるコーヒーは香り高く、店で出すコーヒーは全て彼が担っていた。コーヒーが目当てで通う常連客も多い。
扉の先は、生活感の漂うバックヤードに続いている。散らかってはいないが、それなりに雑多な印象だ。
壁際に置かれたロッカーの一つを開け、黄檗色の着物に袖を通す。洗濯したばかりの真っ白なエプロンを身につけ、肩口で切り揃えた髪を軽く撫でつけて邪魔にならないように前髪をヘアピンで留めた。
制服を着るとどんな時でも気が引き締まる気がするから、不思議なものだ。
決して広くはない店だが、その分寛ぎ易い空間を提供している。
微かな話し声と雨音が響く、いつもの静かな店内。数名いる客は皆、馴染みの顔だ。
花梨はカーディガンを羽織った女性にコーヒーのおかわりを運び、カトラリーを片づける建水の手伝いに回った。
大半を棚に仕舞った頃、カウベルが鳴って初めて見る男性が一人、入店してきた。
傘を忘れたのか、紺のパーカーのフードを被った姿は濡れている。大きめの黒いトートバッグを抱えて、頻りに外の様子を気にしているような素振りをしていた。
「お好きな席へどうぞ」
棗が声をかけると、男は俯いたまま一番奥に当たる座敷に歩いていく。
花梨はメニューとタオルを手にして、追いかけるように彼の許へ向かった。
「あの、良かったらこれ使ってください。それから、こちらがメニューになります」
「……コーヒーを一杯」
男はタオルだけを受け取って、メニューを押し返すようにか細い声で注文を口にする。
踵を返す間際、トートバッグの中の赤色が目についた。女性ものの鞄のように見えたが、すぐに視線を逸らす。他人の趣味をどうこう言うつもりはないし、あまりじろじろ見ては失礼だと思ったのだ。
「すみません。サンドウィッチを一つお願いします」
「サンドウィッチですね。畏まりました」
カウンターに戻る途中でスーツ姿の男性客に声をかけられ、注文を建水と棗に伝える。しかし棗は僅かに眉を顰めて、棚の中を覗き込んだ。
「しまった。食パンを切らしていたんだ。花梨、そこのスーパーで買ってきてくれないかい?」
「あ、ないなら、別のメニューでも……」
「ああ、いや。すぐそこだから、少し待っていてもらえれば作れますので」
「そういうことなら……花梨ちゃん、お願いできますか?」
店主にそう言われ、済まなそうにしながらも客に頼まれてしまっては、断ることもできない。
「少々お時間いただきますが」
「急いでいないので、ゆっくりで大丈夫ですよ」
一度バックヤードに戻った花梨はエプロンを外し、ロッカーに置いてある薄手の丈長のコートを制服の上から羽織る。店の制服のまま出歩くと目立つが着替えるのは面倒なので、アルバイト中に所用で出かける時はいつもこうしていた。
足許の草履もローファーに履き替えて、スーパーへと急ぐ。




