第四節 ― 武家の恥
イロハの診立ては、稽古場に奇妙な沈黙を落とした。
《アカツキノハ》は壊れていない。
ハルマサも壊れていない。
ただ、面が彼を武士として呼び出す入口を、月に噛まれている。
その言葉は、ハルマサにとっては救いに近かった。
だが、アカツキ家の者たちにとっては違った。
救いより先に、面目があった。
年長の武士が、低い声で言った。
「診立ては承った」
その声には、礼の形だけがあった。
「だが、事はアカツキ家だけでは済まぬ。番衆任官の試しで刀を抜けなかった。この事実は残る」
別の家臣が続ける。
「番衆札は返上すべきだ」
ハルマサの肩が、わずかに動いた。
イロハは、そちらを見た。
ハルマサの腰には、小さな札が下がっている。
東暁番衆見習いの札。
正式な番衆になる前の者が持つ、仮の役札だ。
それはまだ薄い木札だった。だが暁紋と帝都東郭の警護印が刻まれている。ハルマサが何としてこの屋敷に立ち、何として帝都へ出ていくのかを示す札だった。
その札へ、周囲の視線が集まっている。
「戦面が白化した者を警護には出せない」
「当然だ。もし本番で刀を抜けなければ、誰が責を負う」
「暁家の名に傷がつく」
「刀を抜けぬ武士など、武士ではない」
最後の言葉で、ハルマサの顔からさらに血の気が引いた。
イロハの胸に、冷たい怒りが灯る。
言っていることは、理屈としては間違っていないのかもしれない。
警護の役にある者が、刀を抜けない。
その不安はわかる。
帝都の守りに関わる以上、軽く扱えないのもわかる。
だが、彼らの言葉は、ハルマサを見ていなかった。
戦面の月痕も。
喰われた入口も。
今なお自分を責めている若い武士の顔も。
彼らが見ているのは、アカツキ家の名と、番衆の記録と、外聞だった。
白影宮で見た仮面籍庁の使いを、イロハは思い出した。
役を失った神楽師を救うより先に、不正な修復かどうかを問う者。
白化面を抱えた者の痛みより、登録上どう扱うかを気にする者。
ここでも同じだ。
役を喰われた者の痛みより、役が帳の上でどう扱われるかが先に来る。
家臣のひとりが言った。
「役が不安定なら、仮面籍庁へ届けるしかない」
稽古場の空気が、さらに硬くなった。
仮面籍庁。
その名が出た瞬間、ハルマサの目が伏せられた。
白化面。
不安定な役。
抜けない刀。
届け出れば、調査は入る。
戦面は預かりになるかもしれない。
番衆札は保留か、返上か、停止か。
あるいは、封役。
まだその言葉は誰も口にしなかった。
けれど、稽古場にいる者たちは皆、その可能性を知っている顔をしていた。
役が危うい面は、封じられる。
それは安全のためであり、制度のためであり、家のためだ。
だが、封じられた面を持つ者は、どこへ立てばよいのか。
イロハは知らないわけではなかった。
面師小路にも、封じられた面を抱えて来る者はいる。箱の中で役を失い、本人だけがまだその役にしがみついているような面。そういう面は、修復より先に、役所の許可を求められる。
そして多くは、戻らない。
ハルマサが、ゆっくり立ち上がった。
彼は腰の番衆札に手をかける。
「ハルマサ殿」
アヤメが呼んだ。
その声は制止ではなかった。
だが、見逃しもしない声だった。
ハルマサは、苦い笑みを浮かべた。
「刀を抜けぬ者が、番衆を名乗るわけにはいきません」
そう言って、札の紐を解こうとする。
イロハは反射的に動いた。
「まだ、返さないでください」
稽古場に、視線が集まる。
ハルマサの手が止まった。
「なぜです」
「返したら、月に喰われた役を、あなた自身が手放すことになります」
ハルマサは、息を呑んだ。
イロハは一歩近づく。
「今、あなたの役は噛まれています。弱っています。不安定です。でも、完全に消えてはいません」
「だが」
「自分から札を返したら、月が喰い残した部分まで差し出すことになります」
ハルマサの指が、番衆札の紐を握ったまま震えた。
年長の武士が低く言う。
「面師殿。軽々に言わないでいただきたい。番衆とは、帝都を守る役。役が不安定な者を立たせるわけにはいかぬ」
「わかっています」
「わかっているなら」
「でも、返すのは今ではありません」
イロハは、相手を見返した。
怖くないわけではない。
ここは武家屋敷だ。
相手は年長の武士。
自分は路地裏の面師で、しかも白影宮から来たばかりの部外者だ。
それでも、言わなければならなかった。
「役が喰われた時、いちばん危ないのは、本人が『もう自分には役がない』と思ってしまうことです」
カンナを思い出す。
香炉の前で、自分がなぜ香を焚くのかわからなくなった女房。
サヨに役を呼ばれて、ようやく手順の意味を取り戻した。
御簾守を思い出す。
どの御簾を閉じるのかわからなくなった女房。
サヨが結び目の役を言い当てたことで、戻ってきた。
アヤメを思い出す。
刀の柄に手を置いたまま、自分が誰を守る役なのかわからなくなった近習。
彼女もまた、サヨに呼び戻された。
だからイロハは知っている。
喰われた役は、本人が手放せば、もっと深く消える。
「ハルマサさんは、まだ刀を抜こうとしました」
イロハは言った。
「鯉口も切れました。型も残っています。役名も言えました。なら、まだ終わっていません」
ハルマサは、番衆札から手を離さなかった。
だが、紐を解く動きは止まっている。
アヤメは、黙って彼を見ていた。
その視線は厳しい。
白影宮での彼女とは違い、今のアヤメは、刀を持つ者としてハルマサを見ている。
守るべき時に動けなかった者。
抜くべき時に抜けなかった者。
その事実は、彼女にとって軽いものではないのだろう。
もしサヨの前で同じことが起きたら。
もし本当に敵が来た時、自分が刀を抜けなかったら。
アヤメは、きっと自分を許せない。
だからこそ、ハルマサにも甘くはない。
「ハルマサ=アカツキ」
アヤメが言った。
ハルマサは顔を上げる。
「刀を抜けなかったことは、軽くありません」
イロハは一瞬、アヤメを見る。
ハルマサの顔が固まる。
「警護の役にある者が、抜くべき時に抜けない。それは、人を死なせることがあります」
アヤメの声は冷たかった。
だが、その奥に、別の痛みがあることをイロハは知っている。
彼女自身も、昨夜、同じ入口を噛まれた。
だから責めるだけではない。
しかし許すだけでもない。
「私は、それを忘れろとは言えません」
ハルマサは、静かに頭を下げた。
「承知しています」
「ですが」
アヤメは続けた。
「あなたが臆したとは、まだ決めません」
ハルマサの目が揺れた。
アヤメは白布の上の《アカツキノハ》へ視線を向ける。
「昨夜、私も一瞬、自分が何を守る役なのかわからなくなりました」
稽古場に、小さなどよめきが広がった。
白影宮の近習が。
皇女の側に立つアヤメ=シラハが。
役を失いかけた。
それは、武家の者たちにも衝撃だった。
アヤメは、そのざわめきを無視した。
「だから、月が役の入口を喰うという診立てを、私は否定できません」
ハルマサは、アヤメを見つめている。
「けれど、戻るためには、あなた自身が答える必要があります」
「何を」
「何のために刀を抜くのか」
その問いに、ハルマサはすぐに答えられなかった。
イロハは、彼の手元を見た。
番衆札の紐から、ようやく指が離れる。
返上は、ひとまず止まった。
だが、問題が解けたわけではない。
周囲の者たちも、納得した顔ではなかった。
「仮面籍庁へ届け出ぬわけにはいかぬ」
年長の武士が言う。
「役の不安定は、屋敷だけで抱え込むには重い」
「届け出は必要でしょう」
アヤメは答えた。
「ただし、封役の判断を急ぐべきではありません」
「白影宮は、この件に口を出されるおつもりか」
「月の異常が関わるなら、白影宮も無関係ではありません」
アヤメの声には、揺るぎがなかった。
イロハは、ふとサヨのことを思った。
面を持たない皇女。
まだない役を探し始めた少女。
彼女は今ここにいない。
けれど、彼女の言葉はここに届いている。
役を喰われた者は、自分が何を失ったのかも言えませんから。
その言葉がなければ、イロハはここまで強く言えなかったかもしれない。
ハルマサは、番衆札を握り直した。
今度は、外すためではない。
落とさないために。
「わたしは」
彼は静かに言った。
「まだ、返さずにいてよいのでしょうか」
その問いは、イロハに向けられていた。
周囲の家臣でもなく、年長者でもなく、アヤメでもなく。
自分を臆病者ではなく、役を喰われた者として見た面師へ。
イロハは頷いた。
「今は、まだ持っていてください」
「しかし」
「それが、あなたの役がまだここにある印です」
ハルマサは目を伏せた。
番衆札を、静かに胸元へ戻す。
その動きは小さかった。
だが、白く喰われかけた役を、自分の側へ一度引き戻す動きでもあった。
稽古場の外で、木刀の音が止んでいる。
屋敷中が、この場の成り行きを聞いているようだった。
イロハは《アカツキノハ》を見た。
月痕は消えていない。
右目元の迷いも、そのままだ。
けれど、ほんのわずかに、深朱の色が戻ったように見えた。
気のせいかもしれない。
だが、完全に役を手放さなかったことで、面とハルマサの間にある細い糸が、まだ切れずに残った。
そう感じた。
アヤメは、ハルマサを見据えたまま言った。
「次に必要なのは、あなた自身の答えです」
ハルマサは顔を上げる。
「家のためでも、番衆のためでも、面目のためでもなく」
アヤメの声は低い。
「あなたは、何を守るために刀を抜くのか」
その問いに、ハルマサは答えなかった。
答えられなかった。
だが今度は、逃げるための沈黙ではなかった。
刀を抜く入口を探すための沈黙だった。




