表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/108

第三節 ― 白化した暁刃戦面《アカツキノハ》

 白布の上に置かれた戦面は、ひどく静かだった。


 静かすぎる、とイロハは思った。


 戦面というものは、たとえ面箱に眠っていても、どこかに熱を持つ。怒りではない。血気でもない。けれど、刀を抜く者の呼吸を待つ、張りつめた気配がある。


 だが《アカツキノハ》からは、その熱が薄れていた。


 深朱の面。


 黒漆で縁取られ、頬から顎へかけて鈍い金の細線が走っている。額には暁紋。朝が夜を裂く、その一瞬を刻んだような文様だった。


 表情は、猛々しくない。


 怒りに任せて敵へ斬りかかる面ではない。

 歯を剥く鬼面でもない。

 人を威圧するための顔でもない。


 目元は鋭いが、冷静だった。口元は強く結ばれ、頬の線には、退かない者の覚悟がある。


 これは、斬るための面ではない。


 抜くべき時に抜き、退かぬべき場所で退かないための面だ。


 それなのに、右目元から頬へかけて、白い月痕が走っていた。


 噛み跡に見えた。


 細い歯が、面の顔を横からかじったような痕。白化は完全ではない。だが、その白は深朱を薄め、右目だけに迷いを浮かばせている。


 覚悟の面に、迷いが混じっている。


 それが何より痛ましかった。


 イロハは白布越しに、面の縁へ指を添えた。


 冷たい。


 けれど、ただ冷たいのではない。白影宮の面箱で感じた、あの月の冷たさに似ていた。夜の水でも、鉄でもない。役の奥から温度だけを抜き取られたような冷たさ。


「壊れているのか」


 年長の武士が低く問うた。


 その声には、不安よりも苛立ちがあった。


 壊れているのなら修理できる。

 傷ならば直せる。

 塗り直せば済む。


 そう思いたい声だった。


 イロハは首を振った。


「この面は壊れていません」


 ハルマサが、ゆっくり顔を上げた。


 膝をついたまま、白布の上の面を見つめる。


「では、なぜ」


 彼の声はかすれていた。


「なぜ、わたしは刀を抜けないのですか」


 イロハは、白い月痕を見た。


「噛まれています」


 稽古場が静まった。


 誰かが、小さく息を呑む。


 ハルマサは、その言葉をすぐには理解できなかったようだった。


「噛まれた……?」


「はい」


 イロハは、面の右目元を示した。


「白く欠けているように見えますが、これはただの白化ではありません。何かに喰われた痕です」


「何か、とは」


 アヤメが問う。


 答えはもう、白影宮で見ている。


 けれど、この武家屋敷でその名を出すことには重みがあった。


 イロハは短く息を吸った。


「月です」


 武士たちがざわめいた。


「月だと」


「戦面を、月が」


「馬鹿な」


 声が重なる。


 だがハルマサだけは、黙ってイロハを見ていた。


 その目が、先ほどまでと少し違っていた。


 誰も、彼をそう見なかったのだろう。


 臆した。

 番衆には向かぬ。

 戦面に拒まれた。

 暁家の恥。


 そう言われてきた。


 だがイロハは、彼を臆病者とは言わなかった。


 逃げた者とも、戦面に見捨てられた者とも言わなかった。


 役を喰われた者として見た。


 それだけで、ハルマサの瞳の奥に、ほんのわずかな光が戻った。


「月に……喰われたと」


「まだ完全ではありません」


 イロハは言った。


「でも、このまま放っておけば、深くなります」


 ハルマサの指が、膝の上で強く握られた。


「なら、戻せるのですか」


「診ます」


 イロハは答えた。


 安易に、戻せるとは言えなかった。


 ユラの神楽面も、一節だけ仮置きしただけだった。

 カンナの香役面も、サヨの言葉で縫い止めただけ。

 アヤメの宮中札も、完全には治っていない。


 月痕は、ただ磨けば消える傷ではない。


 役のどこを喰われたのかを見なければ、何もできない。


 イロハは戦面を両手で持ち上げた。


 面の重さが、手に乗る。


 神楽面より重い。

 香役面より硬い。

 顔につけるためのものだが、同時に鎧の一部でもある。戦う者の呼吸を守り、視界を絞り、役を定めるための重さ。


 彼女は面を裏返した。


 内側を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 白い月痕は、外側だけではなかった。


 むしろ内側のほうが深い。


 右目元の裏から、頬の裏へかけて、細く白い裂け目が伸びている。外側の傷は、その表面にすぎない。内側では、もっと深く、役の通り道が噛まれている。


 面の内側には、本来、帯びる者の呼吸が触れる。


 息。

 汗。

 震え。

 覚悟。

 恐怖。

 名乗り。


 それらを面が受け取り、役へ変える。


 その場所に、月が歯を立てていた。


 イロハは、目を閉じかけた。


 見すぎてはいけない。


 だが、見なければならない。


 白布を指に巻き、月痕のそばへそっと触れる。


 視界が、白く切り替わった。


 稽古場の音が遠ざかる。


 木刀の乾いた音も、武士たちの息も、アヤメの気配も、薄くなる。


 代わりに、抜刀の一瞬が見えた。


 黒い鞘。

 親指が鯉口を切る。

 刀身が、鞘の内側で光を待つ。

 身体は前へ出ようとしている。

 敵は見えている。

 間合いも読めている。


 だが、その瞬間だけが白く切り取られていた。


 刀を抜く直前。


 人が武士へ移る、その境目。


 そこに、月の歯が入っている。


 抜けないのではない。


 抜く者になる瞬間を、喰われている。


 イロハは息を詰めた。


 面の右目の裏にある白い裂け目から、さらに細い痕が伸びている。面紐へ向かっている。朱の面紐にも、淡い白化が移っていた。


 面紐は、面を顔へ結ぶものだ。


 顔と役を繋ぐ紐。


 そこまで月が触れているということは、《アカツキノハ》はハルマサの顔へ届く力を失いかけている。


 呼べないのだ。


 今、武士として立て。

 今、刀を抜け。

 今、その場所を守れ。


 本来なら戦面がハルマサへ投げかけるはずの呼び声が、白い月痕の前で途切れている。


 イロハは目を開けた。


 稽古場の空気が戻る。


 手の中の戦面は重い。

 だが、その重さの奥に、抜け落ちた声がある。


 アヤメが問う。


「何が見えました」


「抜刀の瞬間だけが、白く切り取られています」


 イロハは答えた。


 ハルマサの表情が強張る。


「抜刀の、瞬間」


「はい。剣術ではありません。刀の扱いでもありません。あなたが戦う役へ入る、その境目だけが喰われています」


 年長の武士が眉をひそめた。


「そのようなことがあるのか」


 イロハは彼を見ずに、面紐を持ち上げた。


「見てください」


 朱の面紐の一部が、薄く白くなっている。


 完全な白化ではない。だが、本来なら深い朱を保っているはずの繊維が、月光に晒されたように色を失っていた。


「面紐まで喰われかけています。これは、面と顔を繋ぐ部分です」


 アヤメが低く言う。


「つまり」


「この戦面は、ハルマサさんへ『今、武士として立て』と呼びかける力を失いかけています」


 沈黙。


 ハルマサは、まっすぐイロハを見た。


 その目は、もうただの絶望ではなかった。


「面が……わたしを呼べない」


「はい」


「わたしが、面に拒まれたのではなく」


「違います」


 イロハははっきり言った。


「この面は、あなたを拒んでいません」


 ハルマサの喉が動いた。


「では」


「呼びたいのに、呼ぶ声を噛まれています」


 その言葉に、ハルマサの顔が歪んだ。


 泣く寸前の顔ではなかった。


 長く張りつめていたものが、ようやく別の形を与えられた顔だった。


 自分が見捨てられたのではない。

 面に拒まれたのではない。

 ただ、面と自分の間にある呼び声を、月に喰われた。


 それは救いではない。

 状況は何もよくなっていない。


 だが、恥ではない。


 そのことだけが、ハルマサの背を少しだけ起こした。


 イロハは、《アカツキノハ》を白布の上に戻した。


「この面は、まだあなたを覚えています」


 ハルマサは息を呑む。


「覚えているのですか」


「はい。ただ、呼ぶ入口が欠けている」


 アヤメが静かに目を伏せた。


 彼女にもわかるのだろう。


 昨夜、自分もそうだった。


 刀を抜けなかったわけではない。

 サヨを守りたくなかったわけでもない。


 何を守る役だったのか、その入口だけが白く揺らいだ。


 サヨが呼び戻したから、戻れた。


 だが、ここにサヨはいない。


 ハルマサの役を呼ぶ者は、誰なのか。


 イロハは戦面を見つめた。


 この面の声を、もう一度通すには、ただ傷を塞ぐだけでは足りない。


 ハルマサ自身が、何のために刀を抜くのかを取り戻さなければならない。


 だが今は、まだその手前。


 彼が臆病ではないと、面が死んでいないと、まず言葉にしなければならない。


「ハルマサさん」


 イロハは彼を呼んだ。


「はい」


「この面は、壊れていません」


 もう一度、はっきり告げる。


「あなたも、壊れていません」


 ハルマサの目が大きく揺れた。


 周囲の武士たちは、誰も口を挟まなかった。


 稽古場の中央で、抜けなかった刀がまだ鞘に収まっている。


 白布の上では、暁刃戦面アカツキノハが、月に噛まれた右目をこちらへ向けていた。


 その目元に残る迷いは深い。


 けれど、迷いの奥に、まだ消えていない朱がある。


 それを見て、イロハは思った。


 まだ呼べる。


 ただし、誰かが代わりに命じるのではなく。


 ハルマサ自身が、その呼び声の意味を取り戻さなければ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ