第9話「濃霧の死線と天を裂く雷鳴」
白い霧が分厚い壁となって立ち塞がる視界の奥から、三つの赤い眼光がぬらりと揺れ動いた。
腐肉と強い硫黄が混じり合った鼻を突く悪臭が、冷え切った大気をどろりと濁らせていく。
エドガー・オルコットは両手で握りしめた短い刃を身体の前に構え、じりじりと後ずさった。
分厚い革底の靴が、水分を含んで柔らかくなった腐葉土を踏みしめる。
靴底が滑る不快な感触が足裏から伝わってくるが、視線を前に固定したまま体勢を低く保ち続けた。
霧を押し退けて姿を現した魔獣は、四足歩行の巨大な獣の輪郭を持っていた。
黒灰色の体毛は硬い針金のように逆立ち、ところどころから緑色の粘液を滴らせている。
その巨体はゆうに三メートルを超えており、吐き出される熱い呼気が霧を渦巻かせてエドガーの頬を直接なでた。
強大な魔力の塊が、明確な殺意を持って眼前の小さな獲物をねめ回している。
エドガーの心臓が、肋骨を打ち破りそうなほどの暴力的な速度で脈打ち始めた。
肺に吸い込む空気が氷のように冷たく、喉の奥がひび割れたように痛む。
導き手としての波長しか持たないエドガーにとって、単独での戦闘は死と直結する無謀な行為である。
しかし、背後には空間を隔絶する不可視の結界が張り巡らされており、逃げ道はすでにどこにも存在しなかった。
魔獣の喉の奥で、岩石が砕けるような低い唸り声が響く。
次の瞬間、強靭な後ろ脚が泥濘を深くえぐり、三メートルの巨体が弾丸のような速度で宙を舞った。
『来る……!』
エドガーは思考するよりも早く、本能に従って右方向へと身体を大きく投げ出した。
空気を切り裂く鋭い風切り音が耳元を掠め、直前まで彼が立っていた場所を巨大な前足が粉砕する。
地面が大きく陥没し、跳ね上げられた泥と石の塊が散弾のように周囲へと降り注いだ。
エドガーは泥まみれになりながらも地面を転がり、すぐそばにあった巨大な古木の根の裏側へと身を隠す。
左腕の袖が鋭い爪の余波で引き裂かれ、皮膚から赤い血がうっすらとにじみ出していた。
傷口から焼け付くような痛みが走るが、それを気にする余裕すら今の彼には与えられていない。
魔獣は獲物を取り逃がしたことに苛立ち、周囲の古木を次々と薙ぎ払い始めた。
太い幹が次々とへし折られ、重い地響きを立てて崩れ落ちていく。
振動が足元から伝わり、エドガーは膝を抱え込むようにして必死に呼吸を殺した。
魔獣は視覚だけでなく、鋭敏な嗅覚と魔力感知でエドガーの居場所を探り当てようとしている。
滴り落ちる酸性の唾液が地面の苔をジュワリと溶かす音が、少しずつこちらへ近づいてきていた。
死の恐怖が、黒い泥水のようにエドガーの足元から這い上がってくる。
もしここで自分が見つかれば、一瞬にして骨まで噛み砕かれて終わるだろう。
震えが全身に広がり、握りしめた短剣の柄が手汗で滑りそうになる。
そのとき、エドガーの首筋の奥底で、小さな熱がじんわりと脈打つのを感じた。
「絶対に無理はするな。お前の身に何かあれば、俺は理性を保てる自信がない」
昨日、薄暗い特別教官室で交わされた、レオン・ヴァレンタインの低くかすれた声。
首筋に触れた彼の熱い指先の記憶と、そこに刻み込まれた重い魔力の残滓が、凍りつきそうだったエドガーの心臓に微かな温もりを与えてくれた。
自分がここで命を落とせば、あの人は再び終わりのない苦痛の暗闇へと引きずり戻されてしまう。
誰の干渉も許さず、孤独に牙を剥き出しにしていたあの赤い瞳が、絶望に染まることだけは絶対に避けなければならなかった。
エドガーは奥歯を強く噛み締め、両足に力を込めてゆっくりと立ち上がる。
身を隠していた古木の根が、魔獣の巨大な爪によって紙切れのように引き裂かれたのは、彼がそこから跳び退いたのと同時だった。
木片が鋭い矢となって降り注ぐ中、エドガーは深い霧の中を無我夢中で駆け抜ける。
しかし、魔獣の速度は人間の足で逃げ切れるものではない。
背後から迫る巨岩のような質量の気配が、エドガーの背中を重く圧迫した。
足元の太い木の根に足を取られ、エドガーの身体が前方の泥濘へと大きく投げ出された。
激しく地面に打ち付けられ、肺から空気が強制的に絞り出される。
視界が激しく点滅し、口の中に鉄の味が広がった。
起き上がろうともがくが、全身の筋肉が悲鳴を上げて言うことを聞かない。
背後で、魔獣が勝利を確信したような重い足音を響かせて立ち止まった。
三つの赤い眼光が、泥にまみれたエドガーを見下ろしている。
大きく開かれた顎の奥から、腐臭を帯びた熱風が吹き付けた。
魔獣が止めを刺すために、その巨大な顎を振り下ろそうとした、まさにその瞬間だった。
エドガーの首筋に刻まれていたレオンの魔力が、目に見えないほど薄い光の盾となって一瞬だけ展開する。
それは魔獣の牙を防ぐほどの強度を持っていなかったが、ほんの数ミリ秒だけ、その動きを空中で鈍らせた。
そして、その数ミリ秒の遅れが、運命の境界線を大きく分かつことになる。
灰枯れの森の上空を覆っていた分厚い鉛色の雲が、不自然なほどの静寂とともに内側から大きく湾曲した。
次の瞬間、空気を劈くような恐ろしい破砕音が森全体に響き渡る。
上級生たちが展開していた強固な空間歪曲の結界が、外側からの規格外の力によって、まるで薄いガラスのように粉々に砕け散ったのだ。
結界の破片が青白い火花となって虚空に舞い散る。
大気の圧力が急激に変化し、エドガーの鼓膜が強く圧迫されて微かな痛みを覚えた。
周囲を立ち込めていた濃密な霧が、真上から叩きつけられた凄まじい風圧によって一瞬にして吹き飛ばされる。
腐肉の臭いを完全に上書きするように、焦げたオゾンの匂いが森中に充満した。
空から降り注いだのは、研ぎ澄まされた殺意の塊だった。
魔獣の頭上、はるか高い虚空から、一筋の黒い雷光のような影が一直線に墜落してくる。
それは魔獣が反応する隙すら与えず、その巨大な背中の中心に真っ直ぐに突き刺さった。
大地が激しく隆起し、周囲の古木が根こそぎ吹き飛ばされるほどの強烈な衝撃波が巻き起こる。
エドガーは両腕で顔を覆い、地面に這いつくばってその暴風を必死にやり過ごした。
砂埃と枯れ葉が嵐のように舞い散る中、エドガーはゆっくりと顔を上げる。
そこには、先ほどまで彼を追い詰めていた三メートルの魔獣の姿はすでになかった。
硬い外皮も、強靭な筋肉も、すべてがすり鉢で挽かれたように粉砕され、地面には巨大なクレーターだけが残されている。
その底なしに暗いクレーターの中心に、漆黒のロングコートを翻した一人の男が立っていた。
周囲の空気が、男の身体から立ち上る桁外れの魔力によって陽炎のように激しく歪んでいる。
「教官……」
かすれた声でエドガーが紡いだその名前に、男がゆっくりと振り返る。
レオン・ヴァレンタインの端正な顔は、一切の感情を失った氷の彫像のように冷え切っていた。
しかし、その双眸だけは血の涙を流しているかのように、恐ろしく鮮烈な赤に染まり切っている。
結界を力任せに破壊し、限界をはるかに超える魔力を引き出した彼の神経は、すでに致命的な過負荷の臨界点に達していた。




