第10話「暴虐の嵐とただ一つの標」
魔獣を粉砕した衝撃の余波が過ぎ去っても、灰枯れの森に静寂が戻ることはなかった。
むしろ、大気を震わせる異様な圧力は秒を追うごとに指数関数的に増大していく。
レオン・ヴァレンタインの足元から、青黒い魔力の奔流が間欠泉のように噴き上がり始めていた。
それは明確な意思を持たない、純粋な破壊のエネルギーだった。
周囲の地面が亀裂を生じ、無数の石くれが重力を失ったように宙へと浮き上がる。
エドガー・オルコットの頬を、見えない魔力の刃が浅く切り裂いた。
鋭い痛みに顔をしかめながらも、エドガーはクレーターの中心に立つレオンから視線を外すことができなかった。
レオンの様子は、明らかに異常だった。
漆黒のコートの袖は引き裂かれ、露出した腕の血管は青黒く膨れ上がり、皮膚を突き破らんばかりに脈打っている。
彼の喉の奥から、空気を擦り合わせるような不気味な喘鳴が漏れ聞こえていた。
周囲の微細な音、舞い散る枯れ葉の軌跡、森の湿気、そして自身の内側からあふれ出す底なしの魔力。
そのすべてが千の刃となって、レオンの拡張しきった五感を容赦なく切り刻んでいるのだ。
エドガーが罠にかけられ、結界に閉じ込められたことを察知した瞬間、レオンの理性の枷は完全に吹き飛んだのだろう。
学園の規定も、自身の身体の限界もすべてを投げ捨て、ただエドガーを救い出すためだけに、彼は自身を破滅させるほどの魔力を解放して結界を破壊した。
その代償として、レオンは今、終わりのない過負荷の嵐の中心で自我を失いかけている。
『このままでは、教官の精神が完全に焼き尽くされてしまう』
エドガーは泥にまみれた身体に鞭を打ち、ゆっくりと両膝を立てて立ち上がった。
足の筋肉が限界を訴えて震えているが、それをごまかすように強く奥歯を噛み締める。
手の中に握りしめていた短剣を、未練なく足元の泥濘へと投げ捨てた。
今のレオンを救うために必要なのは、他者を傷つける刃ではない。
暴れ狂う彼の暗闇に寄り添い、その熱を全て飲み込むことができる、自分自身の深く静かな波長だけだ。
エドガーは一歩、また一歩と、荒れ狂う魔力の嵐が吹き荒れるクレーターの中心へと歩みを進める。
近づくにつれ、魔力の抵抗は物理的な壁となってエドガーの行く手を阻んだ。
呼吸をするたびに肺が圧迫され、目を開けていることすら困難なほどの烈風が吹き付ける。
舞い上がった鋭利な木片がエドガーの制服を切り裂き、白い頬や首筋に幾筋もの赤い線を引いていく。
血の匂いが鼻腔をかすめるが、エドガーは決して立ち止まらなかった。
彼自身の身体の奥底から、澄み切った波長が静かな泉のように湧き上がり、全身を包み込み始めている。
それは暴力的なレオンの魔力を相殺するものではなく、荒波の中に浮かぶ小さな灯台のように、ただそこに存在し続けるだけの穏やかな光だった。
エドガーはその波長を周囲に広げ、自分とレオンの間にだけ繋がる一本の透明な道を作り出していく。
「レオン教官」
風の音に掻き消されそうな声で、エドガーは彼に向かって呼びかけた。
レオンの身体がびくりと大きく跳ねる。
焦点の定まらない赤い瞳が、声のした方向へとゆっくりと向けられた。
その瞳の奥には、耐え難い苦痛に対する獣のような拒絶と、見覚えのある温もりを探し求めるような切実な渇望が入り交じっている。
レオンの骨ばった手が、虚空を掴むように不規則に動いた。
触れるものすべてを破壊してしまう自分の力を恐れるように、その指先はわずかに震えている。
エドガーは魔力の抵抗に抗いながら、ついにレオンの目の前まで辿り着いた。
見上げる形になったレオンの顔は、ひどく青ざめ、額からは大量の冷や汗が流れ落ちている。
至近距離で浴びる過負荷の圧力は、エドガーの神経をも直接削り取るような恐ろしいものだった。
しかし、エドガーはためらうことなく、両手を真っ直ぐに前方へと伸ばす。
「もう大丈夫です。僕が、ここにいますから」
震える小さな手のひらが、レオンの熱く強張った両頬をそっと包み込んだ。
肌と肌が重なり合ったその刹那、時間が止まったかのような錯覚が森を包み込む。
エドガーの深く広大な波長が、レオンの渇ききった皮膚の表面から一気に内部へと雪崩れ込んでいく。
それは荒れ狂う業火に降り注ぐ、静かで冷たい雨のようだった。
レオンの喉の奥から、絞り出すような低い呻き声が漏れた。
自身の身体を引き裂こうとしていた膨大な魔力の嵐が、エドガーの手を起点として急速に収束し始める。
宙に浮いていた岩や木々が次々と地面に落下し、重い音を立てて転がった。
周囲を歪めていた空間の圧迫感が、嘘のように霧散していく。
レオンの赤い瞳から濁った光が消え去り、代わりに深い安堵と疲労の色が色濃く浮かび上がってきた。
過負荷の激痛から解放された反動で、レオンの巨大な身体から一気に力が抜け落ちる。
彼は膝から崩れ落ちるようにして、前方に立つエドガーの肩に重く倒れ込んだ。
エドガーは背中に回された太い腕の重みを受け止めながら、泥まみれになったレオンの漆黒のコートをしっかりと抱きしめ返す。
首筋に沈み込んだレオンの顔から、熱く震える吐息が直接肌に吹き付けられた。
彼はエドガーの制服の背中を骨が軋むほどの力で握りしめ、二度と離さないと誓うようにその身を密着させている。
静寂を取り戻した森の中で、二人の重なり合う心音だけが、確かな命の証として静かに響き続けていた。




