第11話「深淵への同調と命の天秤」
泥まみれになった漆黒のコートの重みが、エドガー・オルコットの細い肩にのしかかっていた。
首筋に顔を埋めるレオン・ヴァレンタインの吐息は、まだ異常なほどの熱を帯びている。
周囲の空間を支配していた暴力的な魔力の嵐は、すでに嘘のように消え去っていた。
粉砕された魔獣の肉片と、根こそぎへし折られた古木が散乱するクレーターの中心で、二人は身を寄せ合ったまま動けずにいる。
エドガーは背中に回した手に力を込め、熱く強張ったレオンの筋肉をそっとなで下ろした。
表面的には、狂気を孕んでいた過負荷の暴走は鎮まったかのように見える。
しかし、密着した胸と胸の間から伝わってくるレオンの心音は、明らかに正常なリズムを刻んでいなかった。
早鐘のように打ったかと思えば、不自然に長く止まり、再び痙攣するように脈打ち始める。
それは限界をはるかに超えた魔力を強引に引き出した代償として、レオンの肉体と精神の繋がりが内側から崩壊しかけている証拠だった。
エドガーの深い波長は、レオンの皮膚の表面で荒れ狂っていた熱を飲み込むことには成功した。
だが、傷ついた魔力回路の深奥にまでは、ただ触れているだけの接触では届いていない。
レオンの身体は今、行き場を失った強大なエネルギーの残滓によって、内側から少しずつ焼き焦がされているのだ。
『このままでは、教官の命が危ない』
エドガーは焦燥に駆られ、首筋に沈み込んでいるレオンの顔を両手でそっと包み込んで持ち上げた。
至近距離で交差したレオンの赤い瞳は、すでに焦点が定まっておらず、虚空を彷徨うように微かに揺れている。
苦痛に歪む唇の間からは、空気を擦り合わせるような浅く乾いた呼吸だけが漏れ聞こえていた。
その瞳の奥にある、助けを求めるようなひどく脆い光を見て、エドガーの胸の奥が刃物でえぐられたように痛む。
学園の規定も、自身の命すらも投げ打って、自分を救うためだけに結界を破壊してくれた人。
その彼を、終わりのない苦痛の暗闇に置き去りにすることなど絶対にできない。
エドガーは奥歯を強く噛み締め、ある決断を下した。
それは、導き手としての訓練を十分に積んでいない新入生が手を出すべきではない、深く危険な領域への踏み込みである。
対象者の精神の奥底、魔力の根源にまで自身の意識を沈め、内側から直接波長を同期させる精神同調。
もし波長の適合がわずかでもずれれば、引きずり込まれたエドガー自身の精神すらも修復不可能なほどに破壊されてしまう。
しかし、今のエドガーの心に迷いは一切なかった。
レオンの冷や汗に濡れた額に、自身の額をぴたりと重ね合わせる。
「教官、どうか僕を受け入れてください」
静かな祈りのような言葉とともに、エドガーはゆっくりと両目を閉じた。
呼吸を極限まで深くし、自身の身体の奥底に眠る澄み切った波長を一点に集中させる。
重なり合った額の接点から、目に見えない光の糸を紡ぎ出すようにして、レオンの乱れた魔力回路の中へと自身の意識を滑り込ませていく。
最初は、分厚い鉄の壁に阻まれるような強烈な拒絶の圧力を感じた。
他者の干渉を本能的に退けようとする、最強の特異覚醒者としての強靭な防壁である。
エドガーは無理に壁をこじ開けようとはせず、ただ自身の波長が持つ温もりと、彼を救いたいという切実な願いだけをその壁に浸透させていった。
やがて、分厚い壁が春の雪解けのように微かに緩む瞬間が訪れた。
レオンの魂の奥底が、エドガーの存在を認識し、その波長を求めて自ら扉を開き始めたのだ。
そのわずかな隙間を通って、エドガーの意識は一気に深い深淵へと引きずり込まれていく。
現実世界の冷たい風の感触も、泥の匂いも、遠ざかるようにして完全に消え去った。
エドガーが目を開けると、そこは果てしなく広がる暗黒の空間だった。
上下の感覚すら喪失するような虚無の海に、エドガーの意識体だけがぽつりと浮かんでいる。
しかし、ここは決して静寂な場所ではなかった。
空間の至る所で、赤や黒の不吉な閃光が稲妻のように走り、視界を暴力的に焼き尽くしていく。
同時に、ガラスの破片を耳の奥に直接ねじ込まれるような、甲高く不快なノイズが全方位から押し寄せてきた。
熱と冷気が秒単位で入れ替わり、肌を裂くような痛みがエドガーの意識を容赦なく打ち据える。
『これが、教官がずっと一人で耐えてきた世界……』
エドガーは両腕で顔を覆い、その苛烈な感覚の暴風に耐えながら絶句した。
特異覚醒者の過負荷というものが、これほどまでに残酷な地獄だとは想像もしていなかった。
すべての感覚情報が凶器となって襲いかかってくる、終わりのない拷問の密室。
レオンはこんな狂気の世界に何年も一人で閉じ込められながら、それでも理性を保ち、誰かを傷つけることを避けて生きてきたのだ。
強風に煽られる木の葉のように、エドガーの意識体が激しく揺さぶられる。
自分の波長を維持することすら困難なほどの痛みが、精神の形を少しずつ削り取っていくのを感じた。
しかし、エドガーは決して足を止めるわけにはいかなかった。
この嵐のどこかに、レオンの本当の魂が取り残されて震えているはずなのだ。
エドガーは自身の命を削るようにして波長を強く輝かせ、漆黒の空間に小さな光の道を作り出す。
一歩を踏み出すたびに、見えない刃がエドガーの意識を切り裂き、仮想の血が空間に散っていく。
それでも彼は前を見据え、荒れ狂うノイズの海を泳ぐようにして深く、さらに深くへと沈んでいった。
レオンの名前を心の中で叫びながら、その姿を探し求める。
どれほどの時間をこの暗闇の中で過ごしたのか、時間の概念すらも溶け落ちていくようだった。
やがて、最もノイズが激しく渦巻く空間の中心に、ひとつの黒い影がうずくまっているのをエドガーの視界が捉えた。
空間を引き裂くような閃光が走るたび、その影の輪郭が痛々しく浮かび上がる。
間違いなく、彼だった。
エドガーは激痛に顔を歪めながらも、残されたすべての力を振り絞って、その孤独な影へと向かって最後の歩みを進め始めた。




