第7話「視線の包囲網と予兆の森」
雨の記憶が完全に乾ききった王立特異魔法学園の敷地内には、冬の気配を孕んだ冷たい風が吹き抜けていた。
高く澄み渡った空は淡い群青色に染まり、陽光はただ白く冷ややかに石畳を照らしている。
エドガー・オルコットは、本校舎の長い回廊を一人で歩いていた。
革靴の踵が硬い床を打つ音が、高い天井に規則的に反響していく。
すれ違う生徒たちの様子が、ここ数日で明確に変化し始めていた。
以前はエドガーという存在そのものを視界から排除するような、完全な無関心と微かな侮蔑が混じったものだった。
しかし今の彼らが向けてくるのは、探るような粘着質な視線と、隠しきれない疑念の色である。
扇の陰から、あるいは分厚い魔術書の陰から、エドガーの背中を突き刺すような無数の囁き声が漏れ聞こえてくる。
あの最強と謳われ、誰一人として近づくことを許さなかった冷徹な戦闘魔術教官。
彼がなぜ、波長すら測定できない落ちこぼれの新入生を毎日特別教官室へ招き入れているのか。
二人の間にどのような密約があるのかという憶測が、毒を帯びた噂となって学園中に蔓延し始めていた。
特異覚醒者の過負荷という致命的な弱点を握ることは、学園内の権力闘争において巨大な切り札となる。
レオン・ヴァレンタインの失脚を望む対立派閥にとって、突如として現れたエドガーという特異点は、格好の標的として映っているはずだった。
エドガーは周囲のざわめきに一切の反応を示さず、ただ前だけを見据えて歩き続ける。
彼らの抱く政治的な思惑や悪意など、エドガーにとっては取るに足らない幻影にすぎなかった。
胸の奥底にあるのは、ただ一つだけの確かな熱である。
冷たい雨の日に触れた、あの孤独で強大な魂の震え。
自分の波長がレオンの深い傷跡に染み込み、二人だけの静寂な世界を築き上げた瞬間の記憶が、エドガーの歩みを支える強靭な芯となっていた。
西塔へと続く渡り廊下に足を踏み入れると、ざわめきは嘘のように途絶え、分厚い静寂が鼓膜を覆う。
重厚なオーク材の扉の前に立ち、エドガーは乱れた呼吸を整えるために小さく息を吐き出した。
真鍮のノブに手をかけ、押し開けた先にあるのは、いつもと変わらない薄暗い空間である。
分厚いベルベットのカーテンに閉ざされた部屋には、古いインクと煙草の匂いが染み付いていた。
デスクの向こう側に座るレオンは、エドガーの足音を聞きつけると、手元の書類からゆっくりと視線を上げる。
血のように赤い瞳が、薄明かりの中で静かな熱を帯びて光った。
「遅いな」
低く響く声には、咎めるような響きよりも、待ちわびていた焦燥が微かににじんでいた。
「申し訳ありません。回廊が少し混み合っていまして」
エドガーは鞄をソファに置き、いつものようにデスクのそばへと歩み寄る。
レオンはすでに右手にはめていた黒い革手袋を外し、デスクの上に放り出していた。
骨ばった大きな手が、無防備に宙へと差し出される。
エドガーはためらうことなくその手を取り、自身の両手で包み込むようにして自身の波長を流し込んだ。
肌が触れ合った瞬間、レオンの喉の奥から安堵の吐息が漏れる。
強張っていた広い肩から力が抜け、部屋の空気を重くしていた魔力の圧迫感が急速に霧散していった。
エドガーの澄み切った波長が、レオンの体内で暴れ回る過負荷の熱を静かに飲み込んでいく。
二人の呼吸が重なり合い、密室の空気はあっという間に甘く濃密なものへと変貌した。
レオンは目を伏せたまま、エドガーの手のひらを探るように指先を絡ませてくる。
冷たかった彼の肌が、エドガーの体温を吸い上げて徐々に熱を帯びていく。
その熱の変化を肌で感じるたび、エドガーの胸の奥が甘く締め付けられた。
「……来週から、秋季の野外特別実習が始まる」
静寂を破るように、レオンが不意に口を開いた。
絡み合わせた指先はそのままで、赤い瞳だけがゆっくりと持ち上がり、エドガーの顔を真っ直ぐに射抜く。
「はい。掲示板で日程を確認しました」
「実習の舞台は、学園領の北端にある『灰枯れの森』だ」
レオンの声は平坦だったが、その奥には硬く冷たい金属のような響きが潜んでいた。
灰枯れの森は、古くから強大な魔獣が生息し、空間そのものが魔力によって歪んでいるとされる危険地帯である。
生徒たちはそこで数日間の野営を行い、実践的な戦闘と探索の技術を試されることになっていた。
「俺は高学年の戦闘部隊を率いて、森の最深部を巡回する任務に就く」
「では、新入生の班とは別の区域になるのですね」
「ああ。お前たち新入生は、比較的安全な浅層の調査を割り当てられている」
レオンはそう言い捨てると、繋いでいた手を引き寄せ、エドガーの体を無理やり引き寄せた。
デスクの角に腰がぶつかり、エドガーは思わず小さく息を呑む。
至近距離まで近づいたレオンの顔には、隠しきれない苛立ちと、昏い独占欲が渦巻いていた。
「それが、気に入らない」
吐息が混じるほどの距離で放たれた言葉は、熱を帯びた刃のようにエドガーの鼓膜を震わせた。
レオンの空いた左手が伸びてきて、エドガーの首筋を太い指でそっとなで上げる。
脈打つ血管の上に親指が押し当てられ、その力強い拍動を確かめるようにゆっくりとなで回された。
「お前を俺の目の届かない場所に数日間も放置しなければならないことが、ひどく不快だ」
それは教師が生徒に向けるべき心配の域を、完全に逸脱している執着の吐露だった。
エドガーは首筋に触れる熱い指先の感触に身を震わせながらも、レオンの赤い瞳から視線を逸らさなかった。
彼の内側で渦巻いているのは、自身の過負荷が抑えられなくなることへの恐怖ではない。
ただ純粋に、エドガーという存在を手放すことへの本能的な拒絶だった。
「浅層とはいえ、森の中は何が起こるかわからない。ましてや、今の学園内はお前に対するくだらない噂で満ちている」
レオンの指先が、首筋からうなじへと滑り込み、細い髪の毛を梳くようになでる。
対立派閥の動きを、レオンが察知していないはずがなかった。
彼らはレオンに直接手を下すことができない分、その唯一の弱点であるエドガーを狙う可能性が高い。
「必ず、指示された区域から出るな。怪しい動きをする上級生がいれば、すぐに通信用の魔石で救難信号を出せ」
「はい、教官。気をつけます」
「……いいか、絶対に無理はするな。お前の身に何かあれば、俺は理性を保てる自信がない」
レオンの言葉は、恐ろしいほどの真実味を帯びていた。
うなじをなでていたレオンの手が、エドガーの後頭部を引き寄せ、二人の額が軽くぶつかる。
密着した肌から、レオンの膨大な魔力の一部が、見えない刻印のようにエドガーの奥底へと流れ込んできた。
それは保護のための呪縛であり、誰にも彼を奪わせないという強烈なマーキングでもあった。
エドガーは目を閉じ、その熱く重い束縛を全身で受け入れる。
迫り来る実習の森には、得体の知れない危険が潜んでいるかもしれない。
しかし、この深く甘い熱の記憶がある限り、自分は決して迷わないだろうと、エドガーは静かに確信していた。




