第6話「雨音に沈む体温」
分厚い灰色の雲が、王立特異魔法学園の尖塔を重く覆い隠していた。
朝から降り続く冷たい秋の雨は、午後になっても一向に勢いを弱める気配がない。
無数の雨粒がステンドグラスを激しく打ち据え、不規則で暴力的なノイズを学園中に響き渡らせている。
エドガー・オルコットは、窓枠を伝って落ちる水滴を所在なげに見つめていた。
教室の中は、雨のせいで普段よりも薄暗い。
魔石のランプが灯されているものの、生徒たちの顔には一様に陰鬱な疲労の色が浮かんでいた。
特異覚醒者にとって、気圧の急激な変化と絶え間ない雨音は、五感に対する強烈な負担となる。
あちこちの席で、頭痛や不快感を訴える生徒たちのくぐもった声が聞こえてきた。
彼らの苦痛を和らげるため、導き手の生徒たちが忙しなく立ち回り、波長を送る作業に追われている。
しかし、エドガーのもとには誰一人として助けを求めてはこなかった。
測定不能の落ちこぼれというレッテルは、彼をこの教室の風景から完全に切り離している。
エドガーは自分の両手を膝の上で固く握りしめた。
耳を劈くようなこの激しい雨音が、あの薄暗い特別教官室でどれほどの猛威を振るっているのか。
想像するだけで、心臓が不安で冷たく締め付けられる。
レオン・ヴァレンタインの過負荷は、並の特異覚醒者の比ではない。
この最悪の天候の中、彼が一人でその激痛に耐えている姿が脳裏に浮かび、エドガーの足は今すぐにでも教室を飛び出そうと疼いていた。
永遠にも似た長い時間の後、ようやく放課後を告げる鐘の音が鳴り響く。
鐘の余韻が消え去るよりも早く、エドガーは鞄を掴んで席を立ち上がった。
誰の視線も気にすることなく、教室を駆け抜けて渡り廊下へと飛び出す。
横殴りの雨が吹き込み、濃紺の制服の肩を冷たく濡らした。
しかし、エドガーは歩みを緩めることなく、ただひたすらに西塔を目指して石畳を蹴り続ける。
息を切らして西塔の廊下に辿り着くと、そこは普段よりもさらに深い闇に沈んでいた。
壁に掛けられた魔石のランプはほとんどが消えかかり、頼りない光を明滅させている。
空間全体が、目に見えない巨大な力によって重く圧迫されていた。
空気がゼリーのように粘り気を持ち、一歩を踏み出すたびに肺が押しつぶされそうになる。
特異覚醒者の魔力が、制御を失って暴走し始めている確かな兆候だった。
エドガーは恐怖をねじ伏せ、レオンの部屋の前まで駆け寄った。
重厚なオーク材の扉は、わずかに隙間を開けたまま半開きになっている。
そこから漏れ出す青白い魔力の残滓が、床の絨毯の上を蛇のように這い回っていた。
ノックをする余裕もなく、エドガーは力任せに扉を押し開けた。
「教官……!」
部屋の中は、凄惨な有様だった。
高く積み上げられていた魔術書や書類が床に散乱し、魔石のランプが床に転がって不気味な光を放っている。
窓の分厚いカーテンが引きちぎられ、鉛色の空から降り注ぐ雨の光景が剥き出しになっていた。
ガラスを打つ雨音が、この部屋の中では千の刃となって反響している。
その部屋の片隅、黒い革張りのソファの横に、レオンは崩れ落ちるようにしてうずくまっていた。
漆黒のコートは床に投げ捨てられ、シャツの胸元は無惨に引き裂かれている。
レオンは両手で自らの頭を抱え込み、獣のような低い呻き声を上げていた。
彼の全身から立ち上る青白い魔力が、周囲の空間を陽炎のように激しく歪めている。
エドガーは鞄を床に放り出し、散乱した書類を踏み越えてレオンのもとへ駆け寄った。
「レオン教官、僕です。エドガーです」
声は雨音と魔力のノイズにかき消されそうだった。
エドガーは床に膝をつき、震える手をレオンの肩へと伸ばす。
手が触れた瞬間、レオンの体が激しく跳ねた。
弾かれたように顔を上げたレオンの瞳は、血のように赤く染まり、理性の光が完全に失われていた。
暴走状態の特異覚醒者は、近づく者すべてを敵と見なす本能に支配される。
レオンの骨ばった大きな手が、恐ろしい速度でエドガーの手首を捕らえた。
骨が軋むほどの強い力で握り込まれ、エドガーの口から短い悲鳴が漏れる。
「教官……痛い、です……」
エドガーの声に反応するように、レオンの喉の奥から唸り声が響いた。
次の瞬間、強い力で腕を引かれ、エドガーの体は宙に浮いた。
バランスを崩したまま前へと倒れ込み、レオンの分厚い胸板に激しく打ち付けられる。
床に座り込んだレオンの膝の間に、すっぽりと収まるような形で抱き込まれてしまった。
逃げようとする暇すら与えられず、レオンの太い腕がエドガーの背中に回り、鉄の鎖のように強く拘束する。
二人の体が、隙間なく密着した。
雨の冷たさを含んだエドガーの制服越しに、レオンの異常なほどの高熱が伝わってくる。
レオンはエドガーの首筋に深く顔を埋め、荒々しい呼吸を繰り返した。
熱い吐息がうなじの皮膚を直接焼き、エドガーの全身に強い悪寒と痺れが走る。
痛いほどの抱擁の中で、エドガーは必死に自身の奥底にある波長を引き上げようとした。
恐れてはいけない。
この人は今、暗闇の中で溺れかけているのだ。
エドガーは痛む手首を動かし、レオンの広い背中へとおずおずと腕を回した。
雨に濡れた手で、熱く強張った筋肉の起伏をそっとなでる。
背骨のラインに沿って指を滑らせながら、持てる限りの波長を深く、静かに流し込んでいく。
荒れ狂っていた魔力の嵐の中に、澄み切った一滴の雫が落ちた。
そこを起点として、暴力的だった空間の歪みが急速に調律されていく。
エドガーの深い波長が、レオンの傷だらけの神経を包み込み、耳を劈く雨音を遠い背景のノイズへと変えていく。
密着した胸と胸の間で、狂ったように早鐘を打っていたレオンの心音が、次第にエドガーの落ち着いた鼓動と同期し始めた。
『大丈夫です。僕がここにいます』
言葉に出す代わりに、エドガーはレオンの背中を抱く手に力を込めた。
自身の内側から魔力が大量に引き出されていく感覚に、微かなめまいを覚える。
それでも、エドガーは波長を送ることをやめなかった。
やがて、レオンの腕から少しずつ拘束の力が抜け、荒かった呼吸が静かな吐息へと変わっていく。
部屋を吹き荒れていた魔力の嵐が完全に消滅し、冷たい雨音だけが本来の音量で響き始めた。
レオンが、エドガーの首筋からゆっくりと顔を上げる。
至近距離で視線が絡み合った。
焦点を取り戻したレオンの赤い瞳に、自分の膝の上にエドガーを抱え込んでいるという現在の状況が映り込む。
レオンの表情に一瞬の戸惑いが浮かび、次いで深い自責の念がその瞳を暗く沈ませた。
彼はゆっくりと、エドガーの背中から腕を離そうとする。
しかし、エドガーはその腕から逃れる代わりに、レオンのシャツの胸元を小さな手でぎゅっと握りしめた。
離れたくないという無言の訴えに、レオンの動きがピタリと止まる。
「……すまない。怪我は」
「ありません。波長が、足りてよかった」
エドガーが見上げて微笑むと、レオンの喉仏が大きく上下に動いた。
理性と渇望が、その瞳の奥で激しく衝突しているのがわかる。
レオンは諦めたように長いため息を吐き出すと、離しかけた腕を再びエドガーの背中へと回した。
先ほどのような暴力的な力ではない。
壊れ物を扱うような、ひどく慎重で優しい手つきだった。
冷え切った部屋の中で、二人は互いの体温だけを頼りにするように静かに身を寄せ合う。
窓の外では、残酷な秋の雨がまだ降り続いていた。
しかし、レオンの腕の中に広がる微熱の檻の中で、エドガーは生まれて初めて、心が満たされるような安堵感に包まれていた。




