第5話「微熱の鎖と指先の所在」
密室での特異な契約が交わされてから、およそ二週間の時間が静かに流れ去っていた。
王立特異魔法学園の西塔にある特別教官室に通うことは、すでにエドガー・オルコットの新しい日常として定着しつつある。
放課後を告げる澄んだ鐘の音が、茜色に染まり始めた秋の空に重く響き渡った。
エドガーは机の上の羊皮紙と羽ペンを手早く鞄に滑り込ませる。
クラスメイトたちが連れ立って寮や訓練場へと向かう中、彼は誰の目にも留まらないように教室を抜け出した。
渡り廊下を吹き抜ける風は日を追うごとに冷たさを増し、冬の足音を確実に運んできている。
濃紺の制服の襟を少しだけ立て、エドガーは足早に西塔へと向かう石畳を踏みしめた。
落ちこぼれとして扱われ、誰にも期待されなかった学園生活。
その透明な日々に、今はひとつの明確な輪郭が与えられている。
自分を必要としている人がいるという事実が、エドガーの足取りを微かに軽くしていた。
分厚い静寂に守られた西塔の廊下を進み、重厚なオーク材の扉の前に立つ。
小さく深呼吸をして乱れた呼吸を整えてから、エドガーは真鍮のノブを静かに回した。
扉の向こう側は、外の眩しい夕暮れとは無縁の薄暗い空間である。
分厚いベルベットのカーテンが引かれた部屋の中には、魔石のランプが放つ青白い光だけが淡く揺らいでいた。
部屋全体に漂う古い紙とインクの匂いに、微かな煙草の香りが混じっている。
部屋の中央にあるマホガニーのデスクには、今日もレオン・ヴァレンタインが深く腰掛けていた。
手元の分厚い魔術書に視線を落としていたレオンが、衣擦れの音を聞きつけてゆっくりと顔を上げる。
暗がりの中でもはっきりとわかる血のように赤い瞳が、エドガーの姿を真っ直ぐに捉えた。
その視線が絡みついた瞬間、エドガーの背筋に甘い痺れのようなものが走る。
レオンは何も言わず、読んでいた本を静かに閉じてデスクの端に追いやった。
それが、日課となった儀式の始まりの合図だった。
「遅れなかったようだな」
低く、ひび割れたような声が静寂の部屋に響く。
「はい。今日の講義は少し早く終わりましたので」
エドガーは鞄をソファの隅に置き、絨毯の上を滑るようにしてデスクのそばへと歩み寄った。
二人の間の距離が縮まるにつれ、レオンの体から漏れ出ている不穏な魔力の圧力が肌をピリピリとなでる。
今日のレオンは、いつも以上に過負荷の状態が悪化しているようだった。
周囲の空気が陽炎のようにわずかに歪み、エドガーの呼吸を浅くさせるほどの重圧を放っている。
レオンは椅子に深く背中を預けたまま、右手にはめていた黒い革手袋の指先を無造作に歯で咥えた。
ゆっくりと引き抜かれた手袋がデスクの上に投げ出され、青白いランプの光の下に骨ばった大きな手が露わになる。
戦闘魔術の過酷な訓練を物語るように、その指先や手のひらには無数の剣だこが刻まれていた。
レオンは目を閉じ、首をわずかに後ろへ反らしてエドガーの接近を待つ。
無防備に晒された喉仏の動きが、エドガーの目に鮮明に焼き付いた。
エドガーは小さく息を吸い込み、わずかに震える両手をゆっくりと持ち上げた。
空中でためらうように一瞬だけ動きを止めた指先が、やがて引力に逆らえなくなったように前へと進む。
冷え切った部屋の空気の中を通り抜け、小さな手のひらが教官の熱を持ったこめかみにそっと触れた。
肌と肌が重なり合った瞬間、目に見えない波長が静かな波紋となって空間に広がっていく。
指先から伝わるレオンの体温は、高熱に浮かされているように熱く乾いていた。
エドガーの奥底から湧き上がる澄んだ波長が、渇ききったその肌に染み込むようにゆっくりと流れ込んでいく。
レオンの喉の奥から、苦痛と快楽が入り交じったような深い吐息が漏れた。
強張っていた広い肩から力が抜け、威圧的な魔力の嵐が急速に凪いでいく。
『僕の力が、この人の痛みを溶かしていく』
手のひらを通して伝わってくる確かな変化に、エドガーの胸の奥が熱く疼いた。
レオンは目を閉じたまま、こめかみに添えられたエドガーの手に自身の大きな手を重ねる。
氷のように冷たかったレオンの指先が、エドガーの体温を奪うように強く絡みついてきた。
逃がさないと告げるようなその強い力に、エドガーは微かな恐怖と、それ以上の抗いがたい引力を感じる。
エドガーはこめかみから頬へ、そして首筋へとゆっくりと指先を滑らせた。
脈打つ太い血管の上に指の腹を押し当てると、荒々しかったレオンの心音が少しずつ穏やかなリズムを取り戻していくのがわかる。
静まり返った密室の中で、二人の呼吸の音だけが不規則に重なり合っていた。
どれほどの時間が過ぎたのか、エドガーには正確に測ることができなかった。
ただ、指先から流れ出る自分の波長が、レオンの深い暗闇を満たしていく感覚だけが鮮烈に存在している。
やがて、レオンがゆっくりとまぶたを持ち上げた。
至近距離で交差した赤い瞳からは、先ほどまでの狂気を孕んだ濁りが消え去っている。
代わりにそこにあるのは、エドガーという存在を奥底まで見透かそうとするような、ひどく静かで熱を帯びた光だった。
レオンの手がエドガーの手首を掴んだまま、わずかに自分の方へと引き寄せる。
エドガーの体が前に傾き、二人の距離がさらに縮まった。
レオンの吐息がエドガーの鼻先を掠め、煙草と古い魔術書の匂いが肺の奥深くまで入り込んでくる。
「……お前の波長は、毒だ」
かすれた声が、エドガーの耳膜を甘く震わせた。
「毒、ですか」
「ああ。一度知れば、二度と手放せなくなる。ひどく悪性の甘い毒だ」
レオンの言葉には、自嘲めいた響きが混じっていた。
学園最強と謳われ、誰の干渉も許さなかった孤高の特異覚醒者。
その彼が今、名もなき新入生の微弱な波長に溺れ、依存し始めているという事実。
レオン自身がその致命的な変化に気づきながらも、もはや引き返すことができない境界線に立っていることを示していた。
エドガーは掴まれた手首に微かな痛みを感じながらも、目を逸らすことができなかった。
見つめ返すエドガーの緑色の瞳に、レオンの赤い瞳が暗い影を落とす。
教師と生徒。
その立場の違いを忘れるほどに、二人の間に流れる空気は濃密で、危険な熱を孕んでいた。
不意に、窓の外から寮の門限を知らせる二度目の鐘の音が響いてきた。
その冷たい金属音が、密室に充満していた魔法のような時間を無惨に打ち破る。
レオンの瞳に一瞬だけ苛立ちの色が走り、やがてゆっくりとエドガーの手首を解放した。
解放された肌が、急激に温度を失って冷たい空気に晒される。
エドガーは名残惜しさを隠すように、そっと一歩だけ後ろへ下がった。
「……時間ですね」
「ああ。今日はもう戻れ」
声のトーンは、すでに冷徹な教官のものへと切り替わっていた。
レオンは乱れた襟元を正し、デスクの上の書類へと再び視線を落とす。
その横顔には、先ほどまでの熱情の欠片も残されていなかった。
エドガーは小さく一礼すると、ソファから鞄を手に取って部屋の出口へと向かう。
重い扉に手をかけたとき、背中越しに低い声が追いかけてきた。
「明日も、同じ時間に来い」
それは確認ではなく、逆らうことの許されない命令だった。
エドガーは振り返ることなく、ただ静かにうなずいた。
扉を閉めて廊下に出ると、ひんやりとした夜気が火照った頬を冷やしていく。
自分の右手を見つめると、そこにはまだレオンの強い力で掴まれた赤い痕が微かに残っていた。
その痛みが消える前に、またあの暗い部屋へ戻らなければならない。
いや、戻りたいと願っている自分がいることに、エドガーはもう気づいていた。




