第2話「触れた熱は静寂を連れて」
男の姿を確認した瞬間、エドガーの呼吸が止まった。
レオン・ヴァレンタイン。
学園で最も恐れられ、最も強大な力を持つとされる戦闘魔術の教師だった。
常に氷のように冷徹な眼差しを向け、他者を一切寄せ付けない孤高の存在。
その男が今、息も絶え絶えに壁に寄りかかり、苦悶の表情を浮かべている。
レオンの首筋には、魔力の暴走を示す青黒い血管が網の目のように浮き出ていた。
彼の手の甲は白く骨張り、床の石畳を砕くほどの力で握りしめられている。
特異覚醒者の過負荷。
周囲の微細な音、光、空気の流れ、さらには他者の感情の揺らぎすらもが、刃となってレオンの神経を切り刻んでいるのだ。
強大すぎる力に適合する導き手が存在しないという噂は、事実だった。
レオンの周囲に渦巻く魔力は、近づく者すべてを拒絶する嵐のように吹き荒れている。
エドガーの肌を、見えない刃が浅く切り裂いた。
頬に微かな痛みが走り、一筋の赤い血がにじむ。
それでも、エドガーの足は止まらなかった。
嵐の暴虐よりも、レオンの奥底から伝わってくる孤独な叫びが、エドガーの心を強く揺さぶっていた。
一歩、また一歩と、靴底が石畳を擦る。
その微かな摩擦音すらも、今のレオンにとっては耳を劈く爆音に違いない。
レオンの肩が大きく跳ね、喉の奥から獣のような低い呻き声が漏れた。
彼は目を固く閉じたまま、震える手で自身の耳を塞ごうとしている。
エドガーはついに、レオンの目の前まで辿り着いた。
見下ろすレオンの体躯は大きく、空気を重く押し潰すような威圧感を放っている。
しかし、その内側にある魂は、過酷な激痛の中でひび割れそうに悲鳴を上げていた。
エドガーはゆっくりと膝をついた。
冷たい床の感触が、制服のズボン越しに膝へと伝わる。
震える右手を持ち上げ、レオンの顔へとそっと近づけた。
拒絶されるかもしれない。
最悪の場合、この強大な魔力に当てられて命を落とすかもしれない。
恐怖はあった。
だが、それを上回る切実な願いがエドガーの指先を突き動かしていた。
エドガーの手が、レオンの熱を持った頬に触れた。
その瞬間だった。
レオンの体を覆っていた凶暴な魔力の嵐が、エドガーの指先を起点として急速に収束し始めた。
熱く乾いた肌から、エドガーの微弱だが果てしなく深い波長が流れ込んでいく。
まるで、荒れ狂う業火に一滴の清らかな水が落ちたかのように。
周囲を歪めていた空間の圧力が、嘘のように霧散していく。
弾け飛んでいた青白い火花が消え、オゾンの匂いも薄れていった。
鼓膜を破るほどだった不快なノイズが、静かに引いていく波のように消滅する。
耳鳴りがするほどの静寂が、旧校舎の廊下に舞い戻ってきた。
エドガーは息を詰め、ただレオンの頬に手を添え続けていた。
レオンの強張っていた筋肉が、少しずつ弛緩していくのが手のひらを通して伝わってくる。
荒々しかった呼吸が、次第に一定のリズムを取り戻していく。
浮き出ていた青黒い血管が皮膚の下へと沈み、本来の端正な輪郭が露わになった。
レオンが、ゆっくりと目を開いた。
血に染まったような赤い瞳が、焦点の定まらないまま宙を彷徨い、やがてエドガーの顔を捉える。
二人の視線が、静かな空間で真っ直ぐに交差した。
レオンの瞳の奥に、深い戸惑いと、信じられないものを見るような驚愕の色が浮かぶ。
彼はまばたきを繰り返し、自らの体に起きている変化を確かめようとしていた。
痛みが、ない。
ノイズが、聞こえない。
光が、網膜を焼かない。
レオンは無意識のうちに、自身の頬に添えられたエドガーの手に自らの大きな手を重ねた。
冷え切ったレオンの指先が、エドガーの手の甲を包み込む。
その手は、決して離すまいとするかのように微かに震えていた。
エドガーの体温が、レオンにとって唯一の命綱であるかのように。
交わされる吐息が、互いの肌を掠めるほどの近さだった。
レオンの唇がわずかに開き、かすれた低い声が静寂の底に落ちる。
「……お前は」
その短い言葉の裏には、長年抱え続けてきた絶望からの解放と、目の前の存在に対する強烈な渇望がにじんでいた。
エドガーは逃げ出すことなく、その重い視線を正面から受け止める。
重なった手から伝わる互いの鼓動が、静かな廊下に新たな波紋を広げようとしていた。




