第33話 「名前を知る」
図書室で栞を拾ってから数日。
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直人は自分でも不思議だった。
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あの出来事を覚えている。
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たった数秒。
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たった一言。
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「ありがとう」
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それだけだった。
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それなのに。
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時々思い出してしまう。
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別に何かを期待しているわけではない。
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話したいわけでもない。
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友達になりたいわけでもない。
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……たぶん。
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そう自分に言い聞かせていた。
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昼休み。
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また図書室へ行く。
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理由は読書。
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そういうことにしていた。
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本当の理由を考えないように。
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図書室へ入る。
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静かな空間。
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そして。
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窓際の席。
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彼女がいた。
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同じ場所。
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同じように本を読んでいる。
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直人は少しだけ胸が高鳴る。
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なぜだろう。
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自分でも分からない。
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離れた席に座る。
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本を開く。
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だが。
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また内容が頭に入らない。
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視線を向ける。
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本を読む姿。
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時々髪を耳にかける仕草。
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ページをめくる指先。
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ただそれだけ。
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それだけなのに。
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目で追ってしまう。
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昼休みが終わる。
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女子生徒が本を閉じる。
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その時。
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図書委員らしい女子が声をかけた。
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「美月、もう戻る?」
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直人の耳が反応する。
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美月。
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名前。
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初めて知った。
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女子生徒――美月は頷く。
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「うん」
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そして立ち上がる。
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去っていく。
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直人は何もできない。
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ただ見送るだけ。
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それでも。
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名前を知った。
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たったそれだけで、 少し世界が変わった気がした。
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放課後。
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帰り道。
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翔が言う。
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「何か最近機嫌いいな」
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直人は驚く。
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「そう?」
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「うん」
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翔は笑う。
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「何かあった?」
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直人は首を振る。
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説明できない。
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自分でも分からない。
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名前を知っただけ。
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本当にそれだけだから。
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夜。
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部屋。
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机に向かう。
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勉強をする。
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だが。
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ふと頭に浮かぶ。
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美月。
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名前を心の中で繰り返す。
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そして慌てる。
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何を考えているんだ。
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そう思う。
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でも。
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嫌ではなかった。
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まだこの頃の直人は知らない。
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恋愛感情は、
ある日突然始まるものではなく。
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名前を覚え。
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存在を気にし。
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その人がいる景色を探すようになった時、
少しずつ始まっていることを。
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そして。
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その感情が、
これまで以上に自分自身を悩ませることになることを。
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窓の外では冬の風が吹いていた。
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直人はまだ、
自分の心に芽生え始めた感情の名前を知らなかった。




