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『普通になれなかった僕は、社会の中で静かに壊れていった』  作者: こうた
第三章「静かに消えていく日常」

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第二十一話 覚えていない人

美月のノートに、まだ誰にも見せていないページがある。


そう聞かされてから、僕は何度も考えた。


そこには何が書かれているのだろう。


三年前、僕が図書室で泣いていた日のこと。


美月が僕に話しかけようと思った、本当の理由。


あるいは、僕が知らない誰かとの約束。


考えれば考えるほど、答えのない想像ばかりが膨らんでいった。


けれど、ひとつだけ分かっていることがあった。


僕はもう、美月の言葉を知るだけでは満足できなくなっていた。


彼女が何を思っていたのか。


それを知ることは、きっと大切だ。


でも、それだけでは駄目なのだと思う。


美月がいなくなった今、僕は僕自身の人生を生きなければならない。


そんなことを考えながら、僕は学校へ向かった。


*


「直人、今日の放課後って暇?」


朝の教室で、翔が聞いてきた。


「え?」


「いや、だから放課後。ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど」


僕は返事をしようとした。


けれど、すぐには言葉が出てこなかった。


付き合ってほしいところ。


どこだろう。


何をするんだろう。


何時までだろう。


聞きたいことがいくつも浮かんだのに、どれから聞けばいいのか分からなかった。


沈黙が生まれる。


翔は僕の顔を見て、少し首を傾げた。


「……嫌だった?」


「いや、そうじゃなくて」


慌てて否定した。


「どこに行くのかなって」


「ああ、そういうことか。昔のクラスメートに会いに行くんだよ」


昔のクラスメート。


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。


「三年前の?」


「うん」


翔は、僕の表情が変わったことに気づいたらしい。


「無理ならいいぞ。俺も、絶対に行かなきゃいけないってわけじゃないし」


僕はすぐに断ろうとした。


三年前のことなんて、思い出したくなかった。


できることなら、あの日の自分を、あのときの教室を、全部なかったことにしたかった。


けれど。


美月は、僕が泣いていた理由を知りたがっていた。


そして僕自身も、ようやく思い出し始めていた。


「……行くよ」


自分の声が、思ったより小さかった。


翔は何も言わず、うなずいた。


「分かった。じゃあ、放課後な」


それだけだった。


大げさに褒められることも、勇気を出したねと言われることもなかった。


なのに僕は、その何でもない返事に少しだけ救われた。


*


放課後。


僕たちは駅前の小さな喫茶店にいた。


窓際の席に座っていたのは、ひとりの男子だった。


名前は、佐伯。


三年前、僕と同じクラスだった人だ。


顔を見た瞬間、記憶が戻ってきた。


昼休み。


教室の隅。


何人かの笑い声。


僕が話しかけようとして、言葉を間違えた日。


佐伯は立ち上がり、軽く手を上げた。


「久しぶり」


僕は頭を下げた。


「……久しぶり」


何を話せばいいのか分からなかった。


佐伯は以前より少し大人びて見えた。


髪型も違うし、声も変わっている。


それなのに、僕の中では三年前のままだった。


僕を見て笑った人。


僕の言葉を聞いて、周囲と顔を見合わせた人。


僕が教室から逃げるように出ていったとき、追いかけてこなかった人。


もちろん、彼だけが悪かったわけではない。


そう考えようとしたこともある。


けれど、記憶は理屈どおりには整理されなかった。


「急に呼び出して悪かったな」


佐伯が言った。


「翔から聞いたよ。藤崎さんのこと」


美月の名前が出て、僕は顔を上げた。


「……うん」


「俺、あの子とはほとんど話したことないけど。お前とは仲良かったんだろ?」


仲が良かった。


その言葉を聞いて、胸が痛んだ。


僕たちは、どこまで仲が良かったのだろう。


もっと話したかった。


もっと一緒にいたかった。


伝えたいこともあった。


けれど、その全部を伝える前に、美月はいなくなってしまった。


「……うん。大切な人だった」


ようやく、それだけ言えた。


佐伯は一瞬、何かを言いかけて、口を閉じた。


そして、テーブルの上のコーヒーに視線を落とした。


「そうか」


短い返事だった。


僕は、なぜか腹が立った。


そうか、で終わるのか。


美月がどんな人だったのか。


僕にとってどんな存在だったのか。


何も知らないのに。


いや、違う。


僕は自分が何に腹を立てているのか、分かっていた。


佐伯が、美月のことを知らないからではない。


僕がどれだけ苦しかったかを、彼が知らないからだ。


そして、その苦しさを説明する言葉を、僕はまだ持っていなかった。


*


「なあ、直人」


佐伯が口を開いた。


「三年前のこと、覚えてる?」


指先が冷たくなった。


「……覚えてるよ」


「そっか」


彼は少し困ったように笑った。


「俺、あのときのこと、最近までほとんど忘れてたんだ」


頭の中が、真っ白になった。


忘れていた。


僕が何度も思い出して。


夜になっても眠れなくなって。


自分の言葉を何度も振り返って。


自分は普通ではないのだと、何度も考えた、あの日のことを。


彼は忘れていた。


「……どうして?」


気づいたときには、口にしていた。


佐伯は戸惑った顔をした。


「どうしてって……いや、別に深い意味はないんだ。昔のことだし」


昔のこと。


その言葉が、胸の中に落ちた。


彼にとっては、昔のこと。


僕にとっては、今も続いていること。


同じ時間を過ごしていたはずなのに。


同じ教室にいたはずなのに。


僕たちは、まるで違う場所にいたのだろうか。


「俺さ、あのとき、お前を笑ったつもりはなかったんだ」


佐伯は続けた。


「お前が何か言って、俺、意味が分からなくて。隣のやつに聞いたんだよ。そしたら、そいつが笑ってさ。俺もつられて笑ったんだと思う」


僕は何も言えなかった。


覚えている。


確かに、そんな場面だった。


僕は、みんなが話していたことを理解できなかった。


それでも会話に入ろうとして、思っていたのとは違う言葉を口にした。


誰かが笑った。


別の誰かも笑った。


佐伯も笑った。


僕は、その瞬間、何かが自分の中で折れたような気がした。


「……でも、俺は傷ついた」


言えた。


たったそれだけの言葉だった。


けれど、口にした瞬間、心臓が大きく鳴った。


佐伯が僕を見る。


僕は、目をそらしたくなった。


いつものように。


自分が余計なことを言ったのではないかと考え、なかったことにしたくなった。


それでも、今日は続けた。


「何を言えばいいのか分からなくなった。話さないほうがいいと思った。でも、話さなかったら友達ができないと思った」


声が震えた。


「それから、ずっと……自分が悪いんだと思ってた」


言葉にするたびに、三年前の自分が戻ってくる。


教室の隅で、何も言えなくなった自分。


誰にも気づかれたくないのに、本当は気づいてほしかった自分。


僕は、ずっとその自分を責めていた。


佐伯は黙っていた。


その沈黙が怖かった。


何か言わなければ。


冗談だよ、と笑えばいいのだろうか。


気にしていないふりをすれば、彼も困らずに済むのだろうか。


いつもの癖が、僕を引き戻そうとした。


けれど、僕は黙ったまま、彼の返事を待った。


「……ごめん」


やがて、佐伯が言った。


「俺、そんなに傷つけてたなんて、考えたことなかった」


僕は、すぐには答えられなかった。


謝ってほしかったのだろうか。


ずっと、そう思っていた気もする。


けれど、実際に謝られてみると、何もかもが解決するわけではなかった。


三年前の時間は戻らない。


僕が泣いた日も。


誰にも話せなかった夜も。


自分を嫌いになっていった時間も。


なかったことにはならない。


「……うん」


僕は、それだけ答えた。


許したわけではなかった。


許せないと決めたわけでもなかった。


ただ、自分が傷ついたことを、初めて相手の前で認めた。


それだけだった。


それだけなのに、喉の奥が痛かった。


*


喫茶店を出ると、空は夕焼けに染まっていた。


翔が、隣を歩いていた。


しばらく、僕たちは何も話さなかった。


駅へ向かう途中、翔が尋ねた。


「……どうだった?」


僕は考えた。


どうだったのだろう。


すっきりしたわけではない。


佐伯を許せたわけでもない。


三年前の記憶が消えたわけでもない。


でも、ひとつだけ違っていた。


「俺、ずっと……あいつが悪いんだと思ってた」


翔は黙って聞いていた。


「でも、あいつは忘れてた。俺があんなに苦しかったことも、たぶん、本当に知らなかったんだと思う」


「うん」


「だからって、俺が傷ついたことが間違いだったわけじゃないよな」


言ってから、怖くなった。


こんなことを聞いたら、面倒なやつだと思われるかもしれない。


正しい答えを求めているだけだと思われるかもしれない。


けれど、翔はすぐに答えた。


「当たり前だろ」


その声は、いつもどおりだった。


「相手が覚えてないからって、お前が傷ついたことまでなくなるわけじゃないじゃん」


僕は立ち止まった。


夕日が、駅前の建物の隙間に沈みかけていた。


涙が出そうになった。


でも、今度は少し違った。


悲しいからだけではなかった。


僕が三年間、誰にも認めてもらえなかったと思っていたことを、翔は当たり前のように認めてくれた。


それが、どうしようもなく嬉しかった。


「……ありがとう」


僕は言った。


翔は照れくさそうに頭をかいた。


「何だよ、急に」


「いや……言いたかったから」


翔は笑った。


「そっか」


その返事に、僕も少しだけ笑った。


*


家に帰ってから、僕は机に向かった。


美月から借りた本が、まだそこにある。


約束した感想文。


何度も書こうとして、何度も途中でやめていた。


僕はノートを開いた。


最初の一行を書こうとした。


けれど、何も浮かばなかった。


本の感想を書きたいはずなのに、頭の中には今日の出来事ばかりが浮かんでいた。


佐伯の「忘れていた」という言葉。


自分が傷ついたと伝えたときの、あの沈黙。


翔の「お前が傷ついたことまでなくなるわけじゃない」という言葉。


僕は、ペンを握り直した。


そして、最初の一行を書いた。


『美月へ。


僕は今日、昔の自分が傷ついていたことを、初めて誰かに伝えました』


そこまで書いて、手が止まった。


美月に、何を伝えればいいのだろう。


会いたかった。


好きだった。


もっと話したかった。


今でも、君がいないことが寂しい。


伝えたいことはいくらでもあった。


でも、僕はその中から、ひとつの言葉を選んだ。


『僕は、自分が悪いと思っていれば、誰にも嫌われずに済むと思っていたのかもしれません』


書いた瞬間、胸が痛くなった。


自分を責めていれば、相手を責めなくて済む。


自分が間違っていたことにすれば、これ以上、誰かと争わずに済む。


そうやって、僕は何度も自分の気持ちを押し込めてきた。


けれど。


自分を責めることと、反省することは同じではないのかもしれない。


誰かを傷つけないことと、自分が傷ついても黙っていることも、同じではないのかもしれない。


僕は、そのことを今日、ほんの少しだけ知った。


ノートの続きを書こうとしたとき、机の端に置いていた美月の写真が目に入った。


図書室の窓際。


三年前の僕が座っていた場所。


美月は、あの日の僕を見ていた。


僕はずっと、彼女が僕の何を見ていたのか知りたかった。


けれど今は、少しだけ違うことを思う。


あの日の僕は、誰かに見つけてもらうことを待っていた。


でも、これからの僕は。


自分から誰かに、何かを伝えることもできるのだろうか。


答えは、まだ分からない。


明日になれば、また失敗するかもしれない。


言いたいことを言えず、帰り道に後悔するかもしれない。


それでも、今日の僕は、三年前の僕とはほんの少しだけ違っていた。


ノートの最後に、僕は書き足した。


『美月。


僕はまだ、自分のことが好きではありません。


でも、今日だけは、自分が傷ついたことを認められた自分を、少しだけ嫌いにならずにいられました』


ペンを置いた。


窓の外は、もう暗くなっていた。


僕は、借りた本を開いた。


約束した感想文は、まだ始まったばかりだ。


そして僕の人生も、まだ終わってはいなかった。

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