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『普通になれなかった僕は、社会の中で静かに壊れていった』  作者: こうた
第三章「静かに消えていく日常」

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第二十二話 正しいことを言えない僕

翌朝、僕は書きかけの感想文を鞄に入れた。


美月に宛てた手紙でもあり、借りた本の感想でもある。


どちらか一方に決めることができなかった。


だから、両方を書こうと思った。


本の話をしていたはずなのに、いつの間にか自分の話になってしまう。


美月なら、笑うだろうか。


それとも、いつものように、僕の話を最後まで聞いてくれるだろうか。


そんなことを考えて、僕は少しだけ笑った。


もう、答えは返ってこない。


それでも、彼女に話したいと思う気持ちは、消えていなかった。


*


「直人、ちょっといい?」


昼休み、翔に声をかけられた。


僕は弁当の箸を止めた。


「何?」


「今日の放課後、先生に頼まれたプリントを職員室に持っていくんだけどさ。一緒に来てくれない?」


「別にいいけど」


そう答えてから、僕は少し驚いた。


以前の僕なら、すぐには返事ができなかったと思う。


何か理由があるのだろうか。


自分が行く必要はあるのだろうか。


断ったら、翔はどう思うだろう。


そんなことを考えているうちに、話が終わってしまうことが何度もあった。


今日は、返事ができた。


それだけのことだった。


けれど、その小さな変化を、僕は少しだけ嬉しく思った。


「おう、助かる」


翔はそれ以上、何も言わなかった。


僕も、それ以上は考えなかった。


そうして昼休みは終わった。


*


放課後、僕たちは教室に残っていた。


翔がプリントをまとめている間、僕は机の上を片づけていた。


そのとき、後ろの席から声がした。


「それ、俺のじゃない?」


振り返ると、クラスメートの男子が僕の手元を指さしていた。


僕が持っていたのは、机の上に置かれていた一枚のプリントだった。


「え?」


「だから、それ俺のプリント。さっきそこに置いてたんだけど」


「あ、ごめん。机の上にあったから、誰のか分からなくて」


僕はプリントを差し出した。


彼は受け取ったものの、少し不満そうな顔をした。


「普通、勝手に持っていかないだろ」


その言葉を聞いた瞬間、頭の中が止まった。


勝手に。


普通。


僕が悪かったのだろうか。


確かに、持ち主を確認しなかったのはよくなかった。


謝るべきだ。


でも、僕は持ち去ろうとしたわけではない。


片づけるために持ち上げただけだった。


その説明をすればいい。


そう思ったのに、口が動かなかった。


「……ごめん」


結局、出てきたのはその言葉だけだった。


彼は「別にいいけど」と言って、プリントを持って教室を出ていった。


何事もなかったかのように。


僕だけが、その場に取り残された。


*


「直人?」


翔の声が聞こえた。


「大丈夫か?」


「うん。大丈夫」


そう答えた。


いつものように。


本当は、大丈夫ではなかった。


たった一言だった。


たった一枚のプリントだった。


それなのに、頭の中では何度も同じ言葉が繰り返されていた。


普通、勝手に持っていかないだろ。


僕は普通ではないのだろうか。


なぜ、いつもこうなるのだろう。


何かをしようとすると、相手の意図が分からなくなる。


相手の意図が分からないから、間違えないように考える。


考えすぎて、返事が遅れる。


返事が遅れると、相手を苛立たせてしまう。


そして、また自分を責める。


この繰り返しだった。


「……俺、余計なことしたのかな」


気づけば、口にしていた。


翔は少し考えてから答えた。


「プリントのこと?」


僕はうなずいた。


「まあ、持ち主が分からないなら、聞いてから片づけたほうがよかったかもな」


その言葉に、胸が沈んだ。


やっぱり、僕が悪かった。


そう思いかけたとき、翔が続けた。


「でも、盗ろうとしたわけじゃないんだろ?」


「うん」


「じゃあ、次から気をつければいいじゃん」


僕は翔を見た。


「……それだけ?」


「それだけって?」


「いや、もっと……怒られると思ってた」


翔は不思議そうな顔をした。


「俺が?」


「違う。なんか、こう……」


言葉が見つからなかった。


自分が失敗したとき、僕はいつも、その失敗が自分の全部を表しているような気持ちになる。


一度間違えたら、もう信用されない。


一度変なことを言ったら、ずっと変な人だと思われる。


一度嫌な顔をされたら、次から話しかけてもらえなくなる。


そんなふうに考えてしまう。


でも、翔は違った。


僕の失敗を、僕自身のすべてだとは考えていない。


ただ、次に気をつければいいと言った。


「……そうだよな」


僕は小さく答えた。


それでも、胸のざわつきはすぐには消えなかった。


頭で分かることと、心で納得できることは、同じではなかった。


*


職員室にプリントを届けた帰り、僕たちは廊下を歩いていた。


「なあ、翔」


「ん?」


「翔ってさ、誰かに嫌な顔されたら、どうする?」


翔は歩きながら、少しだけ考えた。


「どうするって?」


「例えば、何か話したときに、相手が嫌そうな顔をしたら」


「うーん。内容にもよるけどな」


「……うん」


「何か悪いこと言ったかな、とは思うかも。でも、相手が疲れてるだけかもしれないし、別のこと考えてるだけかもしれないし」


僕は黙って聞いていた。


「だから、分からないときは、あんまり決めつけないようにしてる」


分からないときは、決めつけない。


その言葉が、心に残った。


僕はいつも、分からないことが怖かった。


相手が何を考えているのか。


自分の言葉がどう受け取られたのか。


どうして、あんな顔をされたのか。


答えが分からないと、不安になった。


そして、その不安を終わらせるために、いつも自分が悪かったのだと結論づけていた。


そのほうが、まだ納得できたからだ。


自分が悪いなら、直せばいい。


自分が変われば、次はうまくいくかもしれない。


でも、本当にそうだったのだろうか。


相手の気持ちが分からないのに、自分だけを責めていたのではないだろうか。


「……俺、いつも自分が悪いって決めつけてたのかもしれない」


翔は、すぐには答えなかった。


そして、静かに言った。


「そういうときもあるんじゃない?」


僕は少し拍子抜けした。


もっと大きな答えを期待していたのかもしれない。


でも、翔は僕の人生を一言で説明しようとはしなかった。


「ただ、全部が全部、お前のせいってことはないだろ」


その言葉を聞いて、僕はうなずいた。


今すぐ、そう思えるようになったわけではない。


明日になれば、また同じことで悩むかもしれない。


それでも。


全部が全部、自分のせいとは限らない。


その考えを、心の片隅に置いておこうと思った。


*


家に帰ると、机の上には書きかけの感想文が残っていた。


僕は鞄からノートを取り出し、続きを書いた。


『美月へ。


今日、僕はまた失敗しました。


相手が何を考えているのか分からなくて、自分が悪いのだと思いました。


でも、友達に言われました。


分からないときは、決めつけないようにしている、と。


僕には、それがとても難しいです。


相手が怒っているのか、困っているのか、ただ疲れているだけなのか。


考えても分からないことがあります。


それなのに僕は、分からないことをそのままにしておけませんでした。


だから、いつも自分が悪かったのだと考えていました。


そのほうが、何も考えずに済む気がしたからです。


でも、これからは少しだけ、考え方を変えてみたいです。


自分が悪かったことは、ちゃんと反省する。


けれど、分からないことまで、全部自分のせいにしない。


それができるようになるまで、きっと時間がかかると思います。


それでも、やってみます』


書き終えて、僕はペンを置いた。


たった一日の出来事だった。


何かが劇的に変わったわけではない。


僕は相変わらず、人の顔色を気にする。


会話のあとには、何度も自分の言葉を思い返す。


自分が普通ではないのだと、思ってしまう日もあるだろう。


でも、今日の僕は、自分の失敗を認めながら、自分自身の全部を否定せずにいようとした。


それだけでも、以前の僕とは違うのかもしれない。


*


ノートを閉じようとしたとき、スマートフォンが震えた。


翔からのメッセージだった。


『そういえば、今日の佐伯の話なんだけどさ』


僕は画面を見つめた。


続けて、もう一通届いた。


『あいつ、お前に謝りたいって言ってたぞ。今日だけじゃなくて、もう少しちゃんと話したいらしい』


指が止まった。


佐伯。


三年前、僕が傷ついたことを、彼は忘れていた。


けれど、今日、僕がそれを伝えたあと、彼は謝った。


そして、もう少し話したいと言っている。


どうしてだろう。


今さら何を話すのだろう。


僕は、すぐには返事ができなかった。


会いたくないわけではない。


でも、会うのは怖かった。


また傷つくかもしれない。


相手の言葉をうまく理解できず、何も言えなくなるかもしれない。


それでも、今日の僕は、逃げると決める前に、少しだけ考えることができた。


僕は翔に返信した。


『分かった。もう一度、話してみる』


送信したあと、胸が苦しくなった。


けれど、後悔だけではなかった。


僕はスマートフォンを机に置き、美月の写真を見た。


君が生きていたら、僕はきっと、今日のことを話していたと思う。


うまく説明できなくて、途中で黙ってしまうかもしれない。


それでも君は、僕が話し終わるまで待ってくれたかもしれない。


そう考えると、少しだけ寂しかった。


でも、もうひとつ、考えた。


君がいなくなったからといって、僕が誰とも話せなくなるわけではない。


君と過ごした時間は、君だけのものではない。


僕の中にも、残っている。


だから僕は、君に教えてもらったことを、これからの誰かとの関係の中で試してみたい。


失敗しても。


怖くなっても。


うまく言葉にできなくても。


自分の気持ちを、なかったことにしないために。


僕はノートを開き、最後に一行だけ書き足した。


『美月。


僕はまだ、普通になりたいと思っています。


でも、普通になれない自分を、毎日責め続けることだけは、少しずつやめていきたいです』


その文字を、僕はしばらく見つめていた。


明日、僕は佐伯ともう一度話す。


今度は、何を伝えられるだろう。


まだ分からない。


けれど、分からないままでも、僕は明日を迎えていいのかもしれなかった。

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