第二十二話 正しいことを言えない僕
翌朝、僕は書きかけの感想文を鞄に入れた。
美月に宛てた手紙でもあり、借りた本の感想でもある。
どちらか一方に決めることができなかった。
だから、両方を書こうと思った。
本の話をしていたはずなのに、いつの間にか自分の話になってしまう。
美月なら、笑うだろうか。
それとも、いつものように、僕の話を最後まで聞いてくれるだろうか。
そんなことを考えて、僕は少しだけ笑った。
もう、答えは返ってこない。
それでも、彼女に話したいと思う気持ちは、消えていなかった。
*
「直人、ちょっといい?」
昼休み、翔に声をかけられた。
僕は弁当の箸を止めた。
「何?」
「今日の放課後、先生に頼まれたプリントを職員室に持っていくんだけどさ。一緒に来てくれない?」
「別にいいけど」
そう答えてから、僕は少し驚いた。
以前の僕なら、すぐには返事ができなかったと思う。
何か理由があるのだろうか。
自分が行く必要はあるのだろうか。
断ったら、翔はどう思うだろう。
そんなことを考えているうちに、話が終わってしまうことが何度もあった。
今日は、返事ができた。
それだけのことだった。
けれど、その小さな変化を、僕は少しだけ嬉しく思った。
「おう、助かる」
翔はそれ以上、何も言わなかった。
僕も、それ以上は考えなかった。
そうして昼休みは終わった。
*
放課後、僕たちは教室に残っていた。
翔がプリントをまとめている間、僕は机の上を片づけていた。
そのとき、後ろの席から声がした。
「それ、俺のじゃない?」
振り返ると、クラスメートの男子が僕の手元を指さしていた。
僕が持っていたのは、机の上に置かれていた一枚のプリントだった。
「え?」
「だから、それ俺のプリント。さっきそこに置いてたんだけど」
「あ、ごめん。机の上にあったから、誰のか分からなくて」
僕はプリントを差し出した。
彼は受け取ったものの、少し不満そうな顔をした。
「普通、勝手に持っていかないだろ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が止まった。
勝手に。
普通。
僕が悪かったのだろうか。
確かに、持ち主を確認しなかったのはよくなかった。
謝るべきだ。
でも、僕は持ち去ろうとしたわけではない。
片づけるために持ち上げただけだった。
その説明をすればいい。
そう思ったのに、口が動かなかった。
「……ごめん」
結局、出てきたのはその言葉だけだった。
彼は「別にいいけど」と言って、プリントを持って教室を出ていった。
何事もなかったかのように。
僕だけが、その場に取り残された。
*
「直人?」
翔の声が聞こえた。
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
そう答えた。
いつものように。
本当は、大丈夫ではなかった。
たった一言だった。
たった一枚のプリントだった。
それなのに、頭の中では何度も同じ言葉が繰り返されていた。
普通、勝手に持っていかないだろ。
僕は普通ではないのだろうか。
なぜ、いつもこうなるのだろう。
何かをしようとすると、相手の意図が分からなくなる。
相手の意図が分からないから、間違えないように考える。
考えすぎて、返事が遅れる。
返事が遅れると、相手を苛立たせてしまう。
そして、また自分を責める。
この繰り返しだった。
「……俺、余計なことしたのかな」
気づけば、口にしていた。
翔は少し考えてから答えた。
「プリントのこと?」
僕はうなずいた。
「まあ、持ち主が分からないなら、聞いてから片づけたほうがよかったかもな」
その言葉に、胸が沈んだ。
やっぱり、僕が悪かった。
そう思いかけたとき、翔が続けた。
「でも、盗ろうとしたわけじゃないんだろ?」
「うん」
「じゃあ、次から気をつければいいじゃん」
僕は翔を見た。
「……それだけ?」
「それだけって?」
「いや、もっと……怒られると思ってた」
翔は不思議そうな顔をした。
「俺が?」
「違う。なんか、こう……」
言葉が見つからなかった。
自分が失敗したとき、僕はいつも、その失敗が自分の全部を表しているような気持ちになる。
一度間違えたら、もう信用されない。
一度変なことを言ったら、ずっと変な人だと思われる。
一度嫌な顔をされたら、次から話しかけてもらえなくなる。
そんなふうに考えてしまう。
でも、翔は違った。
僕の失敗を、僕自身のすべてだとは考えていない。
ただ、次に気をつければいいと言った。
「……そうだよな」
僕は小さく答えた。
それでも、胸のざわつきはすぐには消えなかった。
頭で分かることと、心で納得できることは、同じではなかった。
*
職員室にプリントを届けた帰り、僕たちは廊下を歩いていた。
「なあ、翔」
「ん?」
「翔ってさ、誰かに嫌な顔されたら、どうする?」
翔は歩きながら、少しだけ考えた。
「どうするって?」
「例えば、何か話したときに、相手が嫌そうな顔をしたら」
「うーん。内容にもよるけどな」
「……うん」
「何か悪いこと言ったかな、とは思うかも。でも、相手が疲れてるだけかもしれないし、別のこと考えてるだけかもしれないし」
僕は黙って聞いていた。
「だから、分からないときは、あんまり決めつけないようにしてる」
分からないときは、決めつけない。
その言葉が、心に残った。
僕はいつも、分からないことが怖かった。
相手が何を考えているのか。
自分の言葉がどう受け取られたのか。
どうして、あんな顔をされたのか。
答えが分からないと、不安になった。
そして、その不安を終わらせるために、いつも自分が悪かったのだと結論づけていた。
そのほうが、まだ納得できたからだ。
自分が悪いなら、直せばいい。
自分が変われば、次はうまくいくかもしれない。
でも、本当にそうだったのだろうか。
相手の気持ちが分からないのに、自分だけを責めていたのではないだろうか。
「……俺、いつも自分が悪いって決めつけてたのかもしれない」
翔は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
「そういうときもあるんじゃない?」
僕は少し拍子抜けした。
もっと大きな答えを期待していたのかもしれない。
でも、翔は僕の人生を一言で説明しようとはしなかった。
「ただ、全部が全部、お前のせいってことはないだろ」
その言葉を聞いて、僕はうなずいた。
今すぐ、そう思えるようになったわけではない。
明日になれば、また同じことで悩むかもしれない。
それでも。
全部が全部、自分のせいとは限らない。
その考えを、心の片隅に置いておこうと思った。
*
家に帰ると、机の上には書きかけの感想文が残っていた。
僕は鞄からノートを取り出し、続きを書いた。
『美月へ。
今日、僕はまた失敗しました。
相手が何を考えているのか分からなくて、自分が悪いのだと思いました。
でも、友達に言われました。
分からないときは、決めつけないようにしている、と。
僕には、それがとても難しいです。
相手が怒っているのか、困っているのか、ただ疲れているだけなのか。
考えても分からないことがあります。
それなのに僕は、分からないことをそのままにしておけませんでした。
だから、いつも自分が悪かったのだと考えていました。
そのほうが、何も考えずに済む気がしたからです。
でも、これからは少しだけ、考え方を変えてみたいです。
自分が悪かったことは、ちゃんと反省する。
けれど、分からないことまで、全部自分のせいにしない。
それができるようになるまで、きっと時間がかかると思います。
それでも、やってみます』
書き終えて、僕はペンを置いた。
たった一日の出来事だった。
何かが劇的に変わったわけではない。
僕は相変わらず、人の顔色を気にする。
会話のあとには、何度も自分の言葉を思い返す。
自分が普通ではないのだと、思ってしまう日もあるだろう。
でも、今日の僕は、自分の失敗を認めながら、自分自身の全部を否定せずにいようとした。
それだけでも、以前の僕とは違うのかもしれない。
*
ノートを閉じようとしたとき、スマートフォンが震えた。
翔からのメッセージだった。
『そういえば、今日の佐伯の話なんだけどさ』
僕は画面を見つめた。
続けて、もう一通届いた。
『あいつ、お前に謝りたいって言ってたぞ。今日だけじゃなくて、もう少しちゃんと話したいらしい』
指が止まった。
佐伯。
三年前、僕が傷ついたことを、彼は忘れていた。
けれど、今日、僕がそれを伝えたあと、彼は謝った。
そして、もう少し話したいと言っている。
どうしてだろう。
今さら何を話すのだろう。
僕は、すぐには返事ができなかった。
会いたくないわけではない。
でも、会うのは怖かった。
また傷つくかもしれない。
相手の言葉をうまく理解できず、何も言えなくなるかもしれない。
それでも、今日の僕は、逃げると決める前に、少しだけ考えることができた。
僕は翔に返信した。
『分かった。もう一度、話してみる』
送信したあと、胸が苦しくなった。
けれど、後悔だけではなかった。
僕はスマートフォンを机に置き、美月の写真を見た。
君が生きていたら、僕はきっと、今日のことを話していたと思う。
うまく説明できなくて、途中で黙ってしまうかもしれない。
それでも君は、僕が話し終わるまで待ってくれたかもしれない。
そう考えると、少しだけ寂しかった。
でも、もうひとつ、考えた。
君がいなくなったからといって、僕が誰とも話せなくなるわけではない。
君と過ごした時間は、君だけのものではない。
僕の中にも、残っている。
だから僕は、君に教えてもらったことを、これからの誰かとの関係の中で試してみたい。
失敗しても。
怖くなっても。
うまく言葉にできなくても。
自分の気持ちを、なかったことにしないために。
僕はノートを開き、最後に一行だけ書き足した。
『美月。
僕はまだ、普通になりたいと思っています。
でも、普通になれない自分を、毎日責め続けることだけは、少しずつやめていきたいです』
その文字を、僕はしばらく見つめていた。
明日、僕は佐伯ともう一度話す。
今度は、何を伝えられるだろう。
まだ分からない。
けれど、分からないままでも、僕は明日を迎えていいのかもしれなかった。




