第二十話「泣いていた理由」
『直人くんは、あの日、どうして泣いていたの?』
その一文が、頭から離れなかった。
美月のお母さんと別れたあとも、僕は何度も紙を取り出しては、そこに書かれた文字を見つめていた。
どうして泣いていたのか。
そんなこと、もう忘れたと思っていた。
いや。
忘れたかったのかもしれない。
三年前。
僕は、今よりも人と話すことが苦手だった。
相手の表情を見ても、何を考えているのか分からない。
冗談なのか、本気なのか。
怒っているのか、ただ疲れているだけなのか。
考えれば考えるほど、何も分からなくなった。
だから、僕は人の顔を見るのが怖かった。
相手の目を見ると、何か間違ったことをしているような気がした。
話しかけるタイミングも分からない。
会話に入ろうとしても、何を言えばいいのか分からない。
考えているうちに話題が変わり、結局何も言えずに終わる。
それでも、周囲の人たちは普通に会話をしていた。
誰かが何かを言えば、別の誰かが笑う。
その笑いに合わせて、また誰かが話す。
僕には、その流れが速すぎた。
一度遅れると、もう追いつけない。
それなのに、僕は追いつこうとしていた。
みんなと同じように話せるようになりたかった。
みんなと同じように笑いたかった。
みんなと同じように、何も考えずに友達と過ごしたかった。
でも、できなかった。
そして、できない自分を、何度も責めた。
*
翌日の昼休み。
僕は、三年前のことを覚えていそうな人を探していた。
当時の担任の先生は、もう別の学校へ異動している。
今の先生から聞けることにも限界がある。
自分の記憶をたどるしかない。
けれど、一人で考えていると、同じところを何度も回ってしまう。
何があったのか。
誰が何を言ったのか。
僕は、どうしてあんなに悲しかったのか。
思い出そうとするほど、記憶がぼやけていく。
「直人」
声をかけてきたのは翔だった。
「昨日のこと、考えてた?」
「……うん」
「三年前の話?」
僕は頷いた。
翔は向かいの椅子に座った。
「俺、全部覚えてるわけじゃないけどさ。三年前のお前、よく図書室にいたよな」
「そうだったっけ」
「いたよ。昼休みとか、放課後とか」
僕は考えた。
確かに、そうだった気がする。
教室にいると、何をしていいのか分からなかった。
誰かと話すのも疲れる。
でも、一人でいると、周囲からどう見られているのかが気になった。
だから、図書室へ行った。
本を読んでいれば、一人でいても不自然ではない気がした。
誰かに話しかけられなくても、本を読んでいるからだと言い訳ができた。
「……あの日も、そうだったのかな」
僕がつぶやくと、翔は少し考えた。
「何かあったんじゃないか。あの日は、いつもと違った気がする」
「覚えてるの?」
「はっきりとは覚えてない。でも、お前が次の日も、その次の日も、ずっと静かだったのは覚えてる」
僕は、机の上で手を握った。
何かがあった。
それは、確かな気がした。
けれど、何があったのかが思い出せない。
翔は、無理に思い出させようとはしなかった。
「焦らなくていいんじゃないか」
「でも……」
「思い出したくないことだってあるだろ」
僕は顔を上げた。
翔は窓の外を見ていた。
「無理やり思い出して、またつらくなる必要はないと思う」
その言葉に、少しだけ救われた。
僕は、答えを見つけなければいけないと思っていた。
美月が知りたがっていたから。
自分の過去を知らなければ、美月の気持ちも分からないと思ったから。
でも、僕自身が傷つくことまで、急ぐ必要はないのかもしれない。
「……ありがとう」
「だから、礼はいらないって」
翔は笑った。
その笑顔を見て、僕も少しだけ笑った。
*
その日の夜。
僕は、昔のノートを探した。
机の引き出し。
本棚の奥。
押し入れの中にしまっていた段ボール。
三年前のものは、ほとんど残っていなかった。
それでも、古い学校のプリントや、使いかけのノートがいくつか見つかった。
僕は一つずつ、中身を確認した。
授業の記録。
提出物のメモ。
覚えようとして書いた言葉。
そして、最後のほうに、一冊の小さなノートがあった。
表紙には何も書かれていない。
開いてみると、最初のページには、日付と短い文章があった。
『今日は、みんなの話についていけなかった』
次のページ。
『何か言おうとしたけど、やめた』
その次。
『変なことを言ったかもしれない』
ページをめくるたびに、胸が苦しくなった。
そこには、誰にも見せなかった僕の気持ちが残っていた。
『どうして、みんなは普通にできるんだろう』
『僕は、何を間違えているんだろう』
『明日は、ちゃんと話そう』
そして、その次の日には。
『今日もできなかった』
何度も同じことを書いていた。
頑張ろうとして。
失敗して。
自分を責めて。
また頑張ろうとして。
僕は、ずっとその繰り返しだった。
ノートの真ん中あたりに、三年前の夏の日付があった。
あの日だ。
僕は、ページをめくる手を止めた。
そこには、ほかの日よりも長い文章が書かれていた。
『今日は、もう嫌だった。
何を言っても、うまくいかない気がする。
みんなが何を考えているのか分からない。
僕が話すと、変な空気になる気がする。
何も言わなければ、何も起きない。
でも、何も言わなかったら、誰とも仲良くなれない。
どうしたらいいのか分からない。
普通にしたい。
普通に話したい。
普通に友達がほしい。
それなのに、どうして僕にはできないんだろう』
その下には、何度も書き直した跡があった。
そして、一番最後に、こう書かれていた。
『僕は、誰かに嫌われるのが怖い。
でも、本当は、誰にも気づいてもらえないことのほうが、もっと怖い』
僕は、ノートを閉じた。
涙が出ていた。
あの日、僕は何か一つの出来事だけで泣いていたわけではなかったのかもしれない。
小さな失敗。
伝わらなかった言葉。
うまく笑えなかった時間。
誰かにとっては、すぐに忘れてしまうようなこと。
それらが少しずつ積み重なっていた。
そして、誰にも言えないまま、限界になった。
僕は図書室へ逃げた。
本を読んでいるふりをして、一人で泣いた。
誰かに気づいてほしかった。
でも、誰にも見られたくなかった。
矛盾していた。
自分でも、どうしたいのか分からなかった。
それが、あの日の僕だった。
*
翌朝、僕は美月の手紙を読み返した。
『あなたがうまくできなかったことだけを数えないでください。
できたことも、ちゃんと覚えていてください』
美月は、あの日の僕を見ていた。
何を考えていたのか、正確には分からなかったはずだ。
それでも、僕が一人でいる姿を見て、何かを感じた。
僕は、ずっと自分が誰かに理解されることはないと思っていた。
自分の気持ちを説明することすら難しいのに、どうして他人に分かってもらえるだろう。
だから、説明することを諦めていた。
でも、美月は違った。
僕が何を考えていたのかを決めつけず、知りたいと思ってくれた。
僕がどんな人間なのか、話してみたいと思ってくれた。
それは、僕が思っていたよりも、ずっと大きなことだった。
僕はノートを開き、最後のページに新しい文章を書いた。
『三年前、僕は誰にも気づいてもらえないことが怖かった。
でも、今は少しだけ分かる。
気づいてほしいなら、少しずつでも、自分の言葉で伝えていかなければいけない。
うまく話せなくてもいい。
途中で言葉が止まってもいい。
それでも、自分の気持ちまで、なかったことにしなくていい』
書き終えてから、僕はペンを置いた。
すぐに変われるとは思わない。
明日から急に、人と上手に話せるようになるわけでもない。
また失敗するだろう。
言いたいことを言えず、後悔する日もあるだろう。
それでも、これからは、少しだけ違う向き合い方ができるかもしれない。
僕は、鞄の中に美月のノートを入れた。
そして、学校へ向かった。
*
昼休み。
僕は、いつもの図書室へ行った。
窓際の席に座り、本を開いた。
美月から借りた本だった。
読み終えたはずなのに、何度も同じページを読み返していた。
ふと、入口のほうから声がした。
「直人くん」
振り返ると、見覚えのない女性が立っていた。
学校の先生ではない。
美月のお母さんでもない。
女性は、少し緊張した様子で僕を見ていた。
「突然ごめんなさい」
そう言って、女性は小さく頭を下げた。
「私は、三年前に美月さんと一緒にこの学校を見学した者です」
僕は、息を止めた。
「……美月と?」
「はい。あの頃、私は美月さんが通っていた学校で、相談に関わる仕事をしていました。今日は、先生から連絡をいただいて来ました」
女性は、僕の向かいの椅子を見た。
「少し、お話ししてもいいですか?」
僕は、すぐには返事ができなかった。
三年前。
美月がこの学校を訪れた日。
僕が図書室で泣いていた日。
そのときのことを知る人が、また一人現れた。
そして、女性は静かに言った。
「美月さんは、あなたを見て、自分と同じだと思ったわけではないんです」
僕は顔を上げた。
「……どういう意味ですか?」
女性は、少し考えてから答えた。
「美月さんは、あなたのことを見て、こう言っていました」
その言葉を聞いた瞬間、僕は動けなくなった。
「この人は、私とは違う方法で、ずっと頑張っているんだと思う、と」
女性は、僕を見つめた。
「そして、美月さんは、あなたに話しかける前に、あることを決めていたんです」
「……何を?」
女性は、静かに答えた。
「自分のことを、誰かに分かってもらおうとするのを、もう諦めないことです」
僕は、何も言えなかった。
美月は、僕に近づくことで、自分自身にも向き合おうとしていたのだ。
僕と話すことは、美月にとって、ただ誰かと仲良くなることではなかった。
自分の気持ちを伝えること。
相手の気持ちを知ろうとすること。
そして、うまくいかなくても、もう一度誰かに近づいてみること。
美月は、僕と同じように悩んでいた。
でも、僕とは違う方法で、一歩を踏み出そうとしていた。
女性は、鞄から一枚の紙を取り出した。
「これも、美月さんが残したものです」
紙には、短い文章が書かれていた。
『いつか、直人くんが自分のことを嫌いになりそうになったら、伝えてほしい。
あなたが思っているほど、あなたは誰にも伝わらない人ではないよ、と』
僕は、紙を受け取った。
文字が滲んだ。
今度は、涙を止めようとは思わなかった。
僕は、誰かに分かってほしかった。
でも、分かってもらえないことが怖くて、自分から話すことを諦めていた。
美月も、同じように怖がっていた。
それでも、彼女は僕に話しかけた。
そして、僕もまた、彼女と話すことができた。
完璧ではなかった。
言えなかったことも、たくさんあった。
それでも、確かにつながっていた時間があった。
僕は、紙を大切に折り畳んだ。
「……ありがとうございます」
女性は、静かに頷いた。
「美月さんが伝えたかったことは、まだほかにもあるかもしれません。でも、それを全部、私たちが説明することはできません」
「……はい」
「これから、あなた自身が見つけていくこともあると思います」
女性は、少しだけ微笑んだ。
「焦らなくていいんですよ」
その言葉は、美月の声に似ている気がした。
もちろん、同じ声ではない。
同じ言葉でもない。
それでも僕は、少しだけ安心した。
僕は、まだ美月のことを知らない。
自分のことだって、分からないことばかりだ。
それでも、分からないまま、少しずつ知っていけばいい。
すぐに答えが出なくてもいい。
うまく説明できなくてもいい。
僕は本を閉じた。
そして、女性に尋ねた。
「……美月さんは、ほかに何か言っていませんでしたか?」
女性は、少しだけ考えた。
「一つだけ、覚えていることがあります」
「何ですか?」
女性は、静かに答えた。
「直人くんと話すようになってから、私は初めて、自分の未来について考えるようになった、と」
僕は息を止めた。
美月は、未来を考えていた。
僕と話すことを楽しみにしていた。
本の感想を聞くことを楽しみにしていた。
そして、これからも誰かと話していくことを、考えていたのかもしれない。
僕は、涙を拭いた。
美月が亡くなったことは、変わらない。
これから先、どれだけ言葉を集めても、あの日々をやり直すことはできない。
それでも、美月が生きていた時間には、苦しみだけではなく、楽しみもあった。
僕と過ごした時間も、その一つだった。
僕は、初めてそう信じてみようと思った。
そして、その日の帰り。
僕は、三年前のノートをもう一度開いた。
『僕は、誰かに嫌われるのが怖い。
でも、本当は、誰にも気づいてもらえないことのほうが、もっと怖い』
その下に、新しい言葉を書き加えた。
『僕は、まだ怖い。
でも、誰かに気づいてもらうことを、もう諦めたくない』
書き終えたとき、窓の外は夕暮れになっていた。
僕はノートを閉じた。
そして、明日も学校へ行こうと思った。
何かが急に変わったわけではない。
僕は、まだ僕のままだ。
うまく話せないこともある。
人の気持ちが分からないこともある。
失敗して、自分を責める日もあるだろう。
それでも――。
美月と出会う前の僕と、今の僕は、ほんの少しだけ違う。
そのことだけは、確かだった。
ただ、僕はまだ知らなかった。
美月が最後に残したノートには、もう一つ、誰にも見せていないページがあったことを。
そして、そのページに書かれていたのは、美月自身の未来ではなく――。
僕が、これから向き合わなければならない、ある出来事についてだった。




