第十九話「校門の向こう側」
放課後まで、あと数時間。
僕は、何度も鞄の中のメモを確認していた。
『藤崎美月さんのことで、あなたに話したいことがあります。
三年前のことを、覚えていますか。
放課後、校門の外で待っています。』
誰が書いたのだろう。
どうして、美月のことを知っているのだろう。
そして、なぜ三年前なのだろう。
考え始めると、頭の中がいっぱいになった。
授業中も、先生の話がうまく入ってこなかった。
黒板に書かれた文字をノートに写す。
一行目を書いて、二行目に進む。
それなのに、気づけばさっき書いた内容を何度も見直していた。
僕は昔から、こういうことが苦手だった。
一つのことを気にし始めると、ほかのことが手につかなくなる。
気にしないようにしようと思うほど、気になってしまう。
「……直人」
隣から小さな声がした。
翔だった。
「さっきから、同じところばっかり見てるぞ」
「え?」
「授業、聞いてた?」
僕は黒板を見た。
先生は、もう次の問題を説明していた。
「……聞いてなかった」
「だろうな」
翔は苦笑した。
「何かあった?」
僕は少し迷った。
メモを見せるべきだろうか。
でも、まだ何も分かっていない。
勝手に話して、余計な心配をかけるのも違う気がした。
「放課後、ちょっと用事があるんだ」
「美月のこと?」
僕は驚いて翔を見た。
「どうして分かったんだ?」
「昨日から、ずっとそんな顔してるから」
そんな顔。
自分では、いつもと変わらないつもりだった。
けれど、翔には分かるらしい。
「……美月のことを知ってる人から、メモが届いた」
「誰から?」
「分からない。校門の外で待ってるって」
翔の表情が変わった。
「一人で行くつもりか?」
「分からない」
「なら、俺も行く」
「でも……」
「でも、じゃない。知らない人なんだろ?」
翔は、少しだけ声を強めた。
「美月のことを知ってるからって、何でも信用していいわけじゃない」
僕は黙って頷いた。
翔の言う通りだった。
美月のことを知りたい。
その気持ちは強かった。
でも、知りたいからといって、何も考えずに相手を信じていいわけではない。
「ありがとう」
僕が言うと、翔は照れくさそうに顔をそらした。
「別に。俺も気になるだけだよ」
*
放課後。
校門の前には、何人かの生徒が残っていた。
部活動へ向かう生徒。
友達と話しながら帰る生徒。
迎えを待っている生徒。
いつもの風景だった。
僕と翔は、少し離れた場所で立ち止まった。
「誰もいないな」
翔が言った。
「まだ時間じゃないのかも」
メモには、具体的な時間が書かれていなかった。
僕は、時計を確認した。
約束の時間も分からない。
どれくらい待てばいいのだろう。
十分か。
三十分か。
それとも、今日はもう来ないのだろうか。
考えているうちに、僕は落ち着かなくなった。
待つことは苦手だった。
相手が何を考えているのか分からないからだ。
まだ来ないだけなのか。
忘れているのか。
それとも、僕に会いたくなくなったのか。
答えがないまま時間が過ぎると、悪い想像ばかりが増えていく。
「直人」
翔が僕を呼んだ。
「深呼吸しろ」
「……してるよ」
「いや、全然できてない」
僕は、自分が息を詰めていたことに気づいた。
ゆっくり息を吸う。
そして、吐く。
それだけのことなのに、少しだけ落ち着いた。
そのときだった。
「……直人くん?」
背後から、女性の声がした。
振り返る。
そこに立っていたのは、四十代くらいの女性だった。
落ち着いた服装で、手には小さな鞄を持っている。
僕は、その顔に見覚えがなかった。
「そうですけど……」
女性は、僕の顔を確かめるように見つめた。
そして、ゆっくり頭を下げた。
「突然ごめんなさい。私は、藤崎美月さんのお母さんです」
一瞬、周囲の音が遠のいた。
「……え?」
美月のお母さん。
僕は、手に持っていた鞄を握り直した。
美月のお母さんが、どうして僕に。
「初めまして。美月から、あなたのことを聞いていました」
女性の声は、穏やかだった。
けれど、その目には疲れが見えた。
大切な人を失った人の目。
僕は、何と言えばいいのか分からなかった。
「……あの」
「ごめんなさいね。驚かせてしまって」
女性は、小さく笑った。
「学校の先生から、あなたが美月の残したものを読んでくれたと聞いたの」
僕は頷いた。
「はい。手紙と、ノートを……」
「そう」
女性は、少しだけ目を伏せた。
「読んでくれて、ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、胸が詰まった。
僕は、何か特別なことをしたわけではない。
ただ、残された手紙を読んだだけだ。
それなのに、美月のお母さんは、僕にお礼を言った。
「……僕のほうこそ、美月さんには、たくさん……」
言葉が止まった。
何を言えばいいのか分からなかった。
美月が亡くなったことへのお悔やみ。
美月と話せたことへの感謝。
もっと話したかったという後悔。
その全部を、一度に伝えようとしたからだ。
女性は、急かさなかった。
僕が言葉を探している間、静かに待ってくれた。
やがて、僕は一つだけ言った。
「美月さんと出会えて、よかったです」
女性は目を閉じた。
そして、小さく頷いた。
「……そう言ってもらえて、うれしいわ」
しばらく、誰も話さなかった。
やがて女性は、鞄から一枚の写真を取り出した。
「これを見てほしいの」
僕は写真を受け取った。
そこに写っていたのは、三年前の学校だった。
見覚えのある校門。
そして、その前に立つ美月。
まだ幼さの残る顔。
少し緊張したような表情。
写真の裏には、日付が書かれていた。
三年前。
あの図書室で、僕が一人で本を読んでいた日と同じ日だった。
「……どうして、この写真が?」
女性は答えた。
「美月が、家に帰ってから撮った写真を見せてくれたの」
「美月が?」
「ええ。学校の中で撮影したものではないわ。見学に来たとき、校門の外から撮ったの」
僕は写真を見つめた。
美月は、この学校へ来た日を覚えていた。
そして、その日のことを、ずっとノートに書き残していた。
「美月はね、家に帰ってから、私に話してくれたの」
女性は続けた。
「図書室に、一人で本を読んでいる男の子がいたって」
僕は、顔を上げた。
「その子は、誰とも話していなかった。でも、本を読んでいるときだけ、少し楽しそうに見えたって」
それは、僕が知らなかった自分の姿だった。
僕は、あの日の自分を思い出そうとした。
誰とも話したくなかった。
でも、本を読んでいる時間だけは、誰かにどう思われるかを気にしなくてよかった。
本の中では、会話に遅れることもない。
言葉を選び間違えて、相手の表情が変わることもない。
何度でも読み返せる。
分からなければ、戻ればいい。
そこには、自分のペースでいられる時間があった。
「美月は、こう言っていたわ」
女性は、少しだけ微笑んだ。
「私も、あんなふうに安心して過ごせる場所を見つけたいって」
僕は、何も言えなかった。
美月は、僕を見て何かを決めたのだと思っていた。
けれど、違ったのかもしれない。
美月は、僕を見て、自分が求めているものに気づいたのだ。
誰かに救ってもらうことではなく。
誰かと同じ人間になることでもなく。
自分が安心していられる場所を見つけること。
そして、そこから少しずつ、誰かとつながっていくこと。
「……それで、美月さんはこの学校に?」
僕が尋ねると、女性は頷いた。
「この学校に決めた理由は、それだけではないわ。でも、あの日のことは、美月にとって大きかったと思う」
女性は、写真を見つめた。
「美月は、あなたに感謝していたの」
「……僕に?」
「ええ。でも、あなたが何かをしてあげたからではないのよ」
女性は、僕の目を見た。
「あなたが、あなたのままで本を読んでいた。その姿を見て、美月は少しだけ勇気をもらったのだと思う」
胸の奥が、熱くなった。
僕は、ずっと自分が誰かの役に立てない人間だと思っていた。
何かをしてあげなければ。
誰かを助けなければ。
うまく話せなければ。
誰かを笑顔にできなければ。
自分には価値がない。
そんなふうに考えていた。
でも、あの日の僕は、ただ本を読んでいただけだった。
誰かを助けようとしたわけでもない。
誰かに勇気を与えようとしたわけでもない。
それでも、美月は何かを感じてくれた。
「……僕、何もしていないんです」
気づけば、そう口にしていた。
「美月さんが苦しんでいたことも、知らなかった。僕自身のことで精いっぱいで……」
女性は、静かに首を横に振った。
「直人くん」
その呼び方に、僕は顔を上げた。
「人はね、誰かのために何かをしなければ、価値がないわけではないのよ」
僕は、息を止めた。
「美月も、そうだったと思う。誰かの役に立てた日だけが、いい日だったわけじゃない。何もできなかった日にも、ちゃんと生きていたの」
女性は、ゆっくり言葉を選んでいた。
「だから、あなたもそうであってほしいの」
涙が出そうになった。
でも、僕はまだ泣かなかった。
泣いてしまったら、何かが崩れてしまいそうだったから。
「……ありがとうございます」
僕は、深く頭を下げた。
女性は、もう一枚、写真を取り出した。
今度の写真には、図書室の窓際の席が写っていた。
そこには誰もいなかった。
写真の裏には、美月の文字があった。
『いつか、あの人と話せたら』
その下に、もう一行。
『そのときは、私も自分の話をしよう』
僕は、その言葉を何度も読み返した。
美月は、僕のことを知りたかった。
同時に、自分のことも知ってほしかった。
僕たちは、お互いに、相手のことを知りたかったのだ。
なのに、僕は最後まで、自分の気持ちを伝えられなかった。
それが悔しかった。
でも、もう一つの気持ちもあった。
美月が、僕と話すことを楽しみにしてくれていた。
その事実が、確かに残っていた。
「……お母さん」
僕は、初めてそう呼んだ。
女性は、少し驚いたように僕を見た。
「はい」
「美月さんのこと、もっと教えてもらえませんか」
声は震えていた。
「僕、まだ知らないことがたくさんあるんです。美月さんがどんなことを考えていたのか、何が好きだったのか。僕と話していないとき、どんなふうに過ごしていたのか」
僕は一度、言葉を切った。
「もちろん、全部を知ることはできないと思います。でも……知らないまま、終わりにしたくないんです」
女性は、しばらく僕を見つめていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「ええ。私に話せることなら、何でも話すわ」
その返事を聞いて、僕は少しだけ安心した。
美月のことを知る時間は、もう増えない。
新しい思い出を一緒につくることもできない。
それでも、残された言葉や写真を通して、知らなかった美月に出会うことはできるのかもしれない。
帰り際、女性は僕に小さな封筒を渡した。
「これは、美月が使っていた机から見つかったものなの」
封筒には、何も書かれていなかった。
「私にも、何のために残したのか分からないの。学校に預けたものとは別に、これだけがあったのよ」
僕は封筒を受け取った。
「開けてもいいですか?」
「もちろん。ただ……」
女性は、少し迷ってから言った。
「もし、読んでつらくなったら、無理をしないでね」
僕は頷いた。
翔と一緒に校門を離れ、少し歩いたところで、封筒を開けた。
中には、小さく折り畳まれた紙が一枚入っていた。
そこには、たった一文だけ書かれていた。
『直人くんは、あの日、どうして泣いていたの?』
僕は、足を止めた。
三年前。
図書室で一人で泣いていた日。
先生から、そう聞いた。
けれど、僕は、その日のことをはっきりと思い出せていなかった。
どうして泣いていたのか。
何があったのか。
誰に何を言われたのか。
記憶は、ところどころ欠けていた。
僕は、紙を握り締めた。
美月は、僕が泣いていた理由を知りたかったのだ。
そして、僕は――。
その理由を、まだ自分自身にも説明できない。
翔が隣から尋ねた。
「……何て書いてあった?」
僕は、紙を見つめたまま答えた。
「僕が、どうして泣いていたのかって」
翔は、黙った。
僕も黙った。
夕方の道路を、車が通り過ぎていく。
いつもと変わらない街。
いつもと変わらない帰り道。
それなのに、僕の中では、何かが動き始めていた。
美月の秘密を知るためには、彼女の過去をたどるだけでは足りない。
僕自身の過去にも、向き合わなければならないのだ。
僕は、ずっと忘れたふりをしていた。
うまく説明できないから。
思い出すと苦しくなるから。
自分が悪かったのかどうか、分からないから。
だから、考えないようにしてきた。
でも、美月は、あの日の僕を見ていた。
そして、そのことを覚えていた。
僕は、初めて自分に問いかけた。
あの日、僕はどうして泣いていたのだろう。
本当は、何が悲しかったのだろう。
そして――。
誰にも言えなかったあの気持ちを、今なら言葉にできるのだろうか。




