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『普通になれなかった僕は、社会の中で静かに壊れていった』  作者: こうた
第三章「静かに消えていく日常」

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第十八話「先生が知っていたこと」

「美月のことで、君に伝えておかなければならないことがあるんだ」


朝の廊下で、先生はそう言った。


僕は、鞄の中に入れたノートを思い出していた。


『あの日、私が本当に伝えたかったことを、先生に聞いてください』


美月は、先生に何を伝えようとしていたのだろう。


「……美月のことですか?」


「そうだ」


先生は周囲を見渡した。


登校してきた生徒たちが、僕たちの横を通り過ぎていく。


笑い声。


友達を呼ぶ声。


昨日のテレビの話。


週末の予定。


僕には、どれも当たり前の光景に見えた。


そして、そんな当たり前の光景の中に、自分がうまく入れないことも、いつものことだった。


「放課後、時間をもらえるか」


「はい」


「できれば、翔君にも同席してもらおう」


どうして翔も必要なのだろう。


疑問はあったが、僕はそれ以上聞かなかった。


先生は、僕の顔を見てから言った。


「直人。今日一日、無理に元気に振る舞わなくてもいいからな」


その言葉に、僕は少し戸惑った。


元気に振る舞っているつもりはなかった。


けれど、先生にはそう見えていたのかもしれない。


「……はい」


返事をして、教室へ向かった。


いつもと同じ朝だった。


でも、僕の頭の中には、ずっと美月のことがあった。


     *


放課後。


僕と翔は、進路指導室に呼ばれた。


先生は机の上に、古い書類を何枚か並べていた。


その中には、三年前の日付が書かれたものもあった。


「まず、誤解しないでほしい」


先生は、僕たちを交互に見た。


「これから話すのは、美月が君たちに何を考えていたか、すべてを説明するものではない。本人にしか分からない気持ちもある」


僕は頷いた。


「それでも、話しておきたいことがあるんだ」


先生は一枚の書類を手に取った。


「三年前、美月は学校生活に強い不安を抱えていた。体調の問題もあったが、人間関係で悩んでいたことも、ご家族から聞いていた」


僕は、ノートに書かれていた言葉を思い出した。


普通に挨拶するだけなのに。


話しかけるだけなのに。


それが怖い。


美月も、自分の中で何度も言い聞かせていたのだろう。


「その頃、美月は転校先を探していた。見学に来たのが、この学校だった」


「……それで、図書室に?」


「そうだ」


先生は頷いた。


「君が図書室にいたことは、偶然だった。美月は、君を探して来たわけではない」


胸の奥で、何かが静かに動いた。


僕は、どこかで考えていた。


美月は三年前から僕を知っていた。


だから、僕に会うためにこの学校へ来たのではないか。


でも、そうではなかった。


美月は、自分の人生を何とかしようとして、この学校を訪れた。


その日に、たまたま僕を見た。


それだけだった。


「……じゃあ、どうして僕に話しかけたんですか?」


先生は、すぐには答えなかった。


「それは、美月が自分で決めたことだよ」


「でも、三年後にわざわざ……」


「直人」


先生は、穏やかな声で僕を止めた。


「人が誰かに近づく理由は、一つとは限らないんだ」


僕は黙った。


「美月は、君に自分と似たものを感じたのかもしれない。君と話してみたいと思ったのかもしれない。あるいは、三年前にできなかったことを、今度こそやってみたいと思ったのかもしれない」


先生は書類を机に戻した。


「でも、それをすべて『君のため』だったと考える必要はない」


その言葉は、思っていた以上に胸に響いた。


僕はいつも、誰かの行動に理由を探していた。


自分が何か悪いことをしたから、怒られたのではないか。


自分が変なことを言ったから、距離を置かれたのではないか。


誰かが優しくしてくれたら、何か返さなければいけないのではないか。


そんなふうに考えてしまう。


美月が僕に話しかけてくれたことにも、何か特別な理由があるはずだと思っていた。


そうでなければ、僕のような人間に、わざわざ近づいてくれるはずがない。


でも――。


美月が僕と話したかった。


その気持ちが、理由のすべてではなくても。


それ自体が、本当だったのかもしれない。


「先生」


僕は、机の上の書類を見つめた。


「美月は、僕に何を伝えようとしていたんですか?」


先生は、少しだけ表情を曇らせた。


「美月は、君に自分のことを誤解してほしくなかったんだと思う」


「誤解?」


「君は、何かうまくいかないことがあると、自分が悪かったのではないかと考えることが多いだろう」


僕は答えられなかった。


先生は続けた。


「美月が病気になったことも、学校へ戻れなかったことも、君が何かできなかったこととは関係がない」


胸が苦しくなった。


分かっていた。


頭では分かっていた。


僕が「好き」と言えなかったから、美月が亡くなったわけではない。


僕がもっと早く何かをしていたら、すべてが変わったと断言できるわけでもない。


それでも、僕は考えてしまう。


あの電話で、あと一言、何かを言えていたら。


もっと早く、気持ちを伝えていたら。


美月は、最後に少しでも幸せな気持ちになれたのではないか。


そんな考えを、どうしても捨てられなかった。


「……それでも、後悔しています」


僕は言った。


「好きだって、言いたかったんです」


先生は、黙って聞いていた。


「言えなかったことが、ずっと残ってるんです。美月がどう思っていたか分からないけど、僕は……」


言葉が途切れた。


翔が隣で、小さく息を吐いた。


「俺も、そういうことあるよ」


翔が言った。


「言おうと思ってたのに、結局言えなかったこと。後から、言えばよかったって思うこと」


僕は翔を見た。


「だから、後悔するなとは言わない。でも、全部自分のせいだって決めつけるのは違うと思う」


翔は、少し気まずそうに笑った。


「俺だって、もっと美月と話せばよかったと思ってる」


その言葉に、僕は初めて気づいた。


美月を失ったのは、僕だけではない。


翔も。


先生も。


美月を知っていた人たちも。


それぞれに、言えなかったことや、できなかったことがあるのだ。


でも、僕たちの後悔は、美月が過ごした時間そのものを否定するものではない。


そう考えられたのは、初めてだった。


先生は、机の引き出しから一通の封筒を取り出した。


「これは、美月のご家族から預かっていたものだ」


封筒には、僕の名前が書かれていた。


「美月が亡くなる少し前、ご家族から学校に託された。渡す時期については、本人の希望があったそうだ」


僕は封筒を受け取った。


「……今、開けてもいいですか?」


「もちろん」


封筒の中には、一枚の便箋が入っていた。


『直人くんへ。


先生に、私のことを聞きましたか。


もし、聞いてくれたなら、少し安心しました。


私は、自分の気持ちをうまく説明するのが苦手でした。


だから、直人くんにも、私の気持ちを全部分かってほしいとは思っていません。


ただ、一つだけ。


私が学校に来たこと。


あなたに話しかけたこと。


あなたと本の話をしたこと。


それらは、病気のせいで仕方なく起きたことではありません。


私が自分で選んだことです。


私は、病気だけでできている人間ではありません。


怖いこともあったし、苦しいこともありました。


でも、楽しいこともありました。


あなたと話せた時間は、その一つです。


だから、私のことを思い出すとき、悲しいことだけを思い出さないでください。


あなたが本を読んでいたときの顔。


私の話を一生懸命聞いてくれたこと。


約束を覚えていてくれたこと。


そんなことも、覚えていてくれたらうれしいです。


それから――』


そこで文章が終わっていた。


僕は便箋を裏返した。


何も書かれていない。


「……また、途中で終わってる」


思わず、声が漏れた。


先生は、静かに答えた。


「その手紙は、書きかけだったそうだ。ご家族が机の中で見つけて、学校に届けてくれた」


「じゃあ、美月は……」


「続きを書こうとしていたのかもしれないね」


僕は、便箋を見つめた。


まただ。


美月の言葉は、いつも途中で途切れている。


伝えたいことがあった。


でも、伝えきれなかった。


その事実が、たまらなく悲しかった。


けれど、僕は便箋を丁寧に封筒へ戻した。


書かれていない続きを、勝手に想像して埋めることはしたくなかった。


美月が何を言いたかったのか。


本当のところは、もう本人にしか分からない。


だからこそ、書かれている言葉を大切にしたかった。


先生は、僕の様子を見ながら言った。


「直人。美月のことを、無理にきれいな思い出にしなくてもいい」


僕は顔を上げた。


「悲しくてもいい。悔しくてもいい。まだ納得できなくてもいいんだ」


その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ緩んだ。


僕は、前を向かなければいけないと思っていた。


美月がそう願っていたから。


いつまでも泣いていてはいけない。


いつまでも後悔していてはいけない。


そう思っていた。


でも、前を向くというのは、悲しみを消すことではないのかもしれない。


悲しいままでも、明日を迎えることはできる。


後悔を抱えたままでも、少しずつ歩くことはできる。


僕は、まだうまくできない。


それでも――。


「……ありがとうございます」


僕は、先生に頭を下げた。


進路指導室を出ると、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。


翔が、隣を歩いている。


「これから、どうする?」


僕は少し考えた。


「……本の感想、書いてみようと思う」


「美月に?」


「うん。もう読んでもらえないけど」


翔は、何も言わなかった。


僕は続けた。


「約束したから。ちゃんと読んだってことと、どんなことを思ったのか。自分の言葉で残しておきたい」


翔は小さく頷いた。


「いいんじゃないか」


僕は鞄の中の本を思い出した。


美月から借りた本。


返せなかった本。


僕はまだ、それを手放せずにいる。


でも、いつか返す日が来るのかもしれない。


本を読むことも。


美月のことを思い出すことも。


これから生きていくことも。


全部、少しずつでいい。


その夜、僕は机に向かい、ノートを開いた。


そして、一行目に書いた。


『藤崎美月さんへ。


約束した本の感想を、今から書きます。』


何度も書き直しながら、僕は自分の気持ちを言葉にしていった。


うまくまとまらなかった。


同じことを何度も書いた。


それでも、最後まで書こうと思った。


美月に伝えられなかった言葉が、まだたくさん残っている。


そのすべてを、今から取り戻すことはできない。


それでも。


言えなかったことを、なかったことにはしたくなかった。


僕は、二行目を書いた。


『この本を読んで、僕は――』


そこで、手が止まった。


本当に書きたかったことは、感想だけではなかったからだ。


僕は、しばらく考えたあと、もう一度ペンを動かした。


『僕は、美月と出会えてよかったです。』


書き終えた瞬間、涙が落ちた。


でも、僕はノートを閉じなかった。


その下に、もう一行を書いた。


『今度は、自分のことも、少しずつ話せるようになりたいです。』


窓の外では、夜が深くなっていた。


美月はもういない。


それでも、僕の中に残された言葉は、少しずつ形になり始めていた。


ただ――。


翌日、僕が図書室へ行くと、机の上に見覚えのない封筒が置かれていた。


表には、僕の名前。


裏には、差出人の名前がなかった。


封筒の中に入っていたのは、短いメモだった。


『藤崎美月さんのことで、あなたに話したいことがあります。


三年前のことを、覚えていますか。


放課後、校門の外で待っています。』


僕は、何度もその文章を読み返した。


三年前。


あの図書室。


美月が僕を見ていた日。


僕は、その日に何があったのか、まだすべてを思い出せていない。


けれど、誰かがそのことを知っている。


そして、その人は――。


僕が知らない美月の一面を、知っているのかもしれなかった。

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