第十七話「誰にも言えなかったこと」
「これ……美月の?」
僕は、翔が差し出したノートを見つめていた。
表紙は淡い水色だった。
角が少し擦れている。
何度も開かれたのだろう。
「いつから持ってたんだ?」
「美月が入院する少し前」
翔は答えた。
「俺に預けていったんだ。何かあったら、直人に渡してほしいって」
「何かあったらって……」
言葉にした途端、胸が痛んだ。
美月は、自分が戻ってこられない可能性を考えていたのだ。
僕が「また明日」と言ったときも。
「また感想を聞かせて」と言われたときも。
彼女は、もう二度と会えなくなるかもしれないと知っていた。
「どうして、すぐに渡してくれなかったんだ?」
責めるつもりはなかった。
でも、声が少し強くなった。
翔は目を伏せた。
「美月に言われたんだ。直人が自分で手紙を読んで、それでも知りたいと思ったら渡してほしいって」
「……どういうこと?」
「俺にも全部は分からない」
翔はノートを机に置いた。
「ただ、美月は言ってた。これを読んだら、直人はきっと自分を責めるからって」
僕は何も言えなかった。
美月は、僕のことをよく見ていた。
僕が失敗したとき、何日もそのことを考えてしまうこと。
誰かの何気ない言葉を、自分への否定だと思ってしまうこと。
自分の気持ちを伝えられず、後になって何度も後悔すること。
どうして、そこまで分かったのだろう。
「……読むよ」
僕はノートを開いた。
最初のページには、日付が書かれていた。
三年前の、ある夏の日。
その下に、僕の名前があった。
『直人くん』
そして、文章が続いていた。
『今日、学校の図書室で男の子を見た。
窓際の席に座って、本を読んでいた。
誰も話しかけていなかった。
でも、その子は寂しそうに見えた。
本当は、誰かと話したいんじゃないかな。
私と同じように』
僕はページをめくった。
『私は、あの子に話しかけたかった。
でも、できなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。
もし変なことを言って、嫌な顔をされたらどうしよう。
もし、私のせいで迷惑をかけたらどうしよう。
そんなことを考えていたら、帰る時間になってしまった。
また、何もできなかった』
その一文を読んで、僕は指を止めた。
また、何もできなかった。
僕も、何度そう思っただろう。
話しかけようとして、やめた。
謝ろうとして、言葉が出なかった。
本当は嫌だったのに、笑ってごまかした。
そして家に帰ってから、自分を責めた。
美月も同じように、自分を責めていたのだ。
僕は次のページをめくった。
そこには、数日後の日付が書かれていた。
『今日、お母さんに話した。
学校で見た男の子のこと。
お母さんは、会ったこともない人のことを、そんなに気にしてどうするの、と笑った。
私も笑った。
でも、本当は少し悲しかった。
私は、あの子がどんな人なのか知りたい。
どうして一人でいたのか。
何を考えていたのか。
どうして、あんなふうに本を読んでいたのか。
ただ、それだけなのに』
僕はノートを閉じた。
胸の奥が、じんわりと痛かった。
美月は、僕を特別な人間だと思っていたわけではないのかもしれない。
かわいそうだと思ったわけでもない。
ただ、知りたかったのだ。
僕がどんな人間なのか。
僕もまた、美月がどんな人間なのか、知りたかった。
それなのに、僕たちは互いに、自分のことを話すのが怖かった。
「……翔」
「ん?」
「美月って、いつから病気のことを知ってたんだ?」
翔は少し考えてから答えた。
「詳しい時期までは知らない。でも、三年前には、もう自分の体のことを気にしていたらしい」
「そうか……」
「ただな」
翔は、ノートを見た。
「美月がつらかったのは、病気のことだけじゃなかったと思う」
僕は顔を上げた。
「どういう意味?」
「美月、よく言ってたんだ。自分がいなくなったら、みんなすぐに忘れるんじゃないかって」
息が詰まった。
「そんなこと……」
言いかけて、止まった。
僕は美月を忘れられない。
でも、それを美月が生きているうちに伝えることはできなかった。
「美月は、自分が誰かの負担になることを怖がってたんだと思う」
翔は続けた。
「だから、何かを頼むのも苦手だった。助けてほしくても、なかなか言えなかった」
僕は、あの手紙を思い出した。
『待たないで』
美月は、僕の人生を止めたくなかった。
でも、本当は――。
あの言葉の裏に、別の気持ちもあったのだろうか。
忘れてほしくない。
覚えていてほしい。
自分がここにいたことを。
そんな気持ちが、少しもなかったと言い切れるだろうか。
僕は、ノートをもう一度開いた。
最後のページまで、まだ半分以上残っていた。
ページをめくる。
そこには、三年前から少しずつ書き続けられた、美月の日常があった。
体調のこと。
学校での出来事。
うまく話せなかった日のこと。
誰かの言葉に傷ついたこと。
それでも、次の日には学校へ行こうと思ったこと。
そして、ときどき、僕のことが書かれていた。
『今日、あの子のことを思い出した。
あの日、話しかけていれば、何か変わったのかな』
『私は、どうしてこんなに人と話すのが怖いんだろう。
普通に挨拶するだけなのに』
『いつか、もう一度会えたらいいな』
僕は、何度もページをめくった。
ある日付で、文章の雰囲気が変わっていた。
三年後。
美月が、この学校へ転校してきた頃だった。
『今日、あの子に会った。
三年前に図書室で見た男の子。
すぐに分かった。
あのときと同じ窓際の席に座っていた。
少し大人になっていた。
でも、どこか寂しそうなところは変わっていなかった。
私は、声をかけた。
何を話したのか、あまり覚えていない。
緊張して、頭が真っ白になった。
でも、話しかけることができた。
三年前には、できなかったことができた。
それだけで、今日は少しうれしかった』
涙がこぼれそうになった。
美月にとって、僕に話しかけたことは、小さな勇気だったのだ。
僕は、彼女が自然に近づいてきたのだと思っていた。
最初から、誰とでも話せる人なのだと思っていた。
違った。
美月も怖かった。
それでも、僕に話しかけてくれた。
僕はそのことを、今まで知らなかった。
ノートの最後のほうには、文字が少し乱れていた。
体調が悪くなってから書いたものなのだろう。
『直人くんと話すのが、楽しみになってしまった。
でも、怖い。
この先、もっと仲良くなったら。
私がいなくなったとき、直人くんは悲しむのかな。
そんなことを考える自分が嫌だ。
私は、誰かの記憶に残りたいと思っている。
でも、誰かを悲しませたくないとも思っている。
どうすればいいのか分からない』
僕はページをめくる手を止めた。
美月は、答えを見つけられなかったのだ。
僕と同じように。
正しい言葉が分からなくて。
どうするのが正解なのか分からなくて。
それでも、何とかしようとしていた。
最後のページには、短い文章があった。
『直人くんへ。
もし、このノートを読んでくれたなら、ひとつだけ覚えていてほしい。
私は、あなたを助けるために近づいたのではありません。
あなたに救ってもらおうとしていたわけでもありません。
ただ、あなたと話したかった。
あなたが読んだ本の感想を聞きたかった。
あなたが何を考えているのか、知りたかった。
そして、私のことも知ってほしかった。
それだけです。
だから、どうか私との時間を、失敗だったと思わないでください。
あなたが私に出会ったことを、後悔しないでください』
最後の文字を読んだとき、僕はノートを閉じた。
図書室は静かだった。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
翔は何も言わずに、隣に座っていた。
僕は、しばらくしてから口を開いた。
「……僕は、美月に何もできなかった」
翔は、すぐには答えなかった。
「好きだって言えなかった。もっと話したかったのに、話せなかった。病気のことだって、何も分かってなかった」
「うん」
「最後まで、何も分かってなかったんだ」
声が震えた。
翔は静かに言った。
「それでも、美月はお前と話したかったんだろ」
僕は顔を上げた。
「お前が何でもできる人間だったからじゃない。何でも分かってくれる人間だったからでもない」
翔は、机の上のノートを見つめた。
「ただ、お前と話したかったんだよ」
僕は、返事ができなかった。
その言葉を、すぐに受け入れることはできなかった。
僕はまだ、自分を責めていた。
でも、美月が残した言葉を、なかったことにするのも違う気がした。
美月との時間は、失敗だったのだろうか。
言えなかった言葉があるから。
伝えられなかった気持ちがあるから。
約束が果たせなかったから。
それだけで、全部が間違いだったことになるのだろうか。
僕はノートを鞄にしまった。
「翔」
「ん?」
「ありがとう。預かっててくれて」
翔は、小さく頷いた。
「……おう」
図書室を出る前に、僕は窓際の席を振り返った。
三年前。
美月は、あの席に座る僕を見ていた。
そして三年後、僕に話しかけてくれた。
その二つの出来事の間に、僕たちはそれぞれの時間を生きていた。
苦しんだ日もあった。
何もできなかった日もあった。
それでも、同じ場所で出会うことができた。
僕は、初めてそう思えた。
けれど、帰宅して鞄を開いたとき。
ノートの最後のページに、もう一つ文字があることに気づいた。
さっきは、涙で見落としていた。
ページの一番下。
小さな字で、こう書かれていた。
『もし私がいなくなったあと、直人くんが自分を責めていたら――』
その先は、消しゴムで何度も消されたように、薄くなっていた。
それでも、最後に残された言葉だけは読めた。
『あの日、私が本当に伝えたかったことを、先生に聞いてください』
僕は、ノートを見つめた。
まだ、終わっていなかった。
美月が伝えたかったこと。
美月が最後まで言えなかったこと。
それは、僕への気持ちだけではないのかもしれない。
そして翌朝。
学校へ行った僕を、担任の先生が廊下で呼び止めた。
「直人。少し話がある」
先生は、静かに言った。
「美月のことで、君に伝えておかなければならないことがあるんだ」
その表情を見た瞬間、僕は思った。
きっと、これから知ることは。
僕が今まで信じていた美月の姿を、少しだけ変えることになる。
そして――。
美月が僕に残したものの、本当の意味を知ることになるのだろう。




