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『普通になれなかった僕は、社会の中で静かに壊れていった』  作者: こうた
第三章「静かに消えていく日常」

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第十七話「誰にも言えなかったこと」

「これ……美月の?」


僕は、翔が差し出したノートを見つめていた。


表紙は淡い水色だった。


角が少し擦れている。


何度も開かれたのだろう。


「いつから持ってたんだ?」


「美月が入院する少し前」


翔は答えた。


「俺に預けていったんだ。何かあったら、直人に渡してほしいって」


「何かあったらって……」


言葉にした途端、胸が痛んだ。


美月は、自分が戻ってこられない可能性を考えていたのだ。


僕が「また明日」と言ったときも。


「また感想を聞かせて」と言われたときも。


彼女は、もう二度と会えなくなるかもしれないと知っていた。


「どうして、すぐに渡してくれなかったんだ?」


責めるつもりはなかった。


でも、声が少し強くなった。


翔は目を伏せた。


「美月に言われたんだ。直人が自分で手紙を読んで、それでも知りたいと思ったら渡してほしいって」


「……どういうこと?」


「俺にも全部は分からない」


翔はノートを机に置いた。


「ただ、美月は言ってた。これを読んだら、直人はきっと自分を責めるからって」


僕は何も言えなかった。


美月は、僕のことをよく見ていた。


僕が失敗したとき、何日もそのことを考えてしまうこと。


誰かの何気ない言葉を、自分への否定だと思ってしまうこと。


自分の気持ちを伝えられず、後になって何度も後悔すること。


どうして、そこまで分かったのだろう。


「……読むよ」


僕はノートを開いた。


最初のページには、日付が書かれていた。


三年前の、ある夏の日。


その下に、僕の名前があった。


『直人くん』


そして、文章が続いていた。


『今日、学校の図書室で男の子を見た。


窓際の席に座って、本を読んでいた。


誰も話しかけていなかった。


でも、その子は寂しそうに見えた。


本当は、誰かと話したいんじゃないかな。


私と同じように』


僕はページをめくった。


『私は、あの子に話しかけたかった。


でも、できなかった。


何を言えばいいのか分からなかった。


もし変なことを言って、嫌な顔をされたらどうしよう。


もし、私のせいで迷惑をかけたらどうしよう。


そんなことを考えていたら、帰る時間になってしまった。


また、何もできなかった』


その一文を読んで、僕は指を止めた。


また、何もできなかった。


僕も、何度そう思っただろう。


話しかけようとして、やめた。


謝ろうとして、言葉が出なかった。


本当は嫌だったのに、笑ってごまかした。


そして家に帰ってから、自分を責めた。


美月も同じように、自分を責めていたのだ。


僕は次のページをめくった。


そこには、数日後の日付が書かれていた。


『今日、お母さんに話した。


学校で見た男の子のこと。


お母さんは、会ったこともない人のことを、そんなに気にしてどうするの、と笑った。


私も笑った。


でも、本当は少し悲しかった。


私は、あの子がどんな人なのか知りたい。


どうして一人でいたのか。


何を考えていたのか。


どうして、あんなふうに本を読んでいたのか。


ただ、それだけなのに』


僕はノートを閉じた。


胸の奥が、じんわりと痛かった。


美月は、僕を特別な人間だと思っていたわけではないのかもしれない。


かわいそうだと思ったわけでもない。


ただ、知りたかったのだ。


僕がどんな人間なのか。


僕もまた、美月がどんな人間なのか、知りたかった。


それなのに、僕たちは互いに、自分のことを話すのが怖かった。


「……翔」


「ん?」


「美月って、いつから病気のことを知ってたんだ?」


翔は少し考えてから答えた。


「詳しい時期までは知らない。でも、三年前には、もう自分の体のことを気にしていたらしい」


「そうか……」


「ただな」


翔は、ノートを見た。


「美月がつらかったのは、病気のことだけじゃなかったと思う」


僕は顔を上げた。


「どういう意味?」


「美月、よく言ってたんだ。自分がいなくなったら、みんなすぐに忘れるんじゃないかって」


息が詰まった。


「そんなこと……」


言いかけて、止まった。


僕は美月を忘れられない。


でも、それを美月が生きているうちに伝えることはできなかった。


「美月は、自分が誰かの負担になることを怖がってたんだと思う」


翔は続けた。


「だから、何かを頼むのも苦手だった。助けてほしくても、なかなか言えなかった」


僕は、あの手紙を思い出した。


『待たないで』


美月は、僕の人生を止めたくなかった。


でも、本当は――。


あの言葉の裏に、別の気持ちもあったのだろうか。


忘れてほしくない。


覚えていてほしい。


自分がここにいたことを。


そんな気持ちが、少しもなかったと言い切れるだろうか。


僕は、ノートをもう一度開いた。


最後のページまで、まだ半分以上残っていた。


ページをめくる。


そこには、三年前から少しずつ書き続けられた、美月の日常があった。


体調のこと。


学校での出来事。


うまく話せなかった日のこと。


誰かの言葉に傷ついたこと。


それでも、次の日には学校へ行こうと思ったこと。


そして、ときどき、僕のことが書かれていた。


『今日、あの子のことを思い出した。


あの日、話しかけていれば、何か変わったのかな』


『私は、どうしてこんなに人と話すのが怖いんだろう。


普通に挨拶するだけなのに』


『いつか、もう一度会えたらいいな』


僕は、何度もページをめくった。


ある日付で、文章の雰囲気が変わっていた。


三年後。


美月が、この学校へ転校してきた頃だった。


『今日、あの子に会った。


三年前に図書室で見た男の子。


すぐに分かった。


あのときと同じ窓際の席に座っていた。


少し大人になっていた。


でも、どこか寂しそうなところは変わっていなかった。


私は、声をかけた。


何を話したのか、あまり覚えていない。


緊張して、頭が真っ白になった。


でも、話しかけることができた。


三年前には、できなかったことができた。


それだけで、今日は少しうれしかった』


涙がこぼれそうになった。


美月にとって、僕に話しかけたことは、小さな勇気だったのだ。


僕は、彼女が自然に近づいてきたのだと思っていた。


最初から、誰とでも話せる人なのだと思っていた。


違った。


美月も怖かった。


それでも、僕に話しかけてくれた。


僕はそのことを、今まで知らなかった。


ノートの最後のほうには、文字が少し乱れていた。


体調が悪くなってから書いたものなのだろう。


『直人くんと話すのが、楽しみになってしまった。


でも、怖い。


この先、もっと仲良くなったら。


私がいなくなったとき、直人くんは悲しむのかな。


そんなことを考える自分が嫌だ。


私は、誰かの記憶に残りたいと思っている。


でも、誰かを悲しませたくないとも思っている。


どうすればいいのか分からない』


僕はページをめくる手を止めた。


美月は、答えを見つけられなかったのだ。


僕と同じように。


正しい言葉が分からなくて。


どうするのが正解なのか分からなくて。


それでも、何とかしようとしていた。


最後のページには、短い文章があった。


『直人くんへ。


もし、このノートを読んでくれたなら、ひとつだけ覚えていてほしい。


私は、あなたを助けるために近づいたのではありません。


あなたに救ってもらおうとしていたわけでもありません。


ただ、あなたと話したかった。


あなたが読んだ本の感想を聞きたかった。


あなたが何を考えているのか、知りたかった。


そして、私のことも知ってほしかった。


それだけです。


だから、どうか私との時間を、失敗だったと思わないでください。


あなたが私に出会ったことを、後悔しないでください』


最後の文字を読んだとき、僕はノートを閉じた。


図書室は静かだった。


窓の外は、もう暗くなり始めていた。


翔は何も言わずに、隣に座っていた。


僕は、しばらくしてから口を開いた。


「……僕は、美月に何もできなかった」


翔は、すぐには答えなかった。


「好きだって言えなかった。もっと話したかったのに、話せなかった。病気のことだって、何も分かってなかった」


「うん」


「最後まで、何も分かってなかったんだ」


声が震えた。


翔は静かに言った。


「それでも、美月はお前と話したかったんだろ」


僕は顔を上げた。


「お前が何でもできる人間だったからじゃない。何でも分かってくれる人間だったからでもない」


翔は、机の上のノートを見つめた。


「ただ、お前と話したかったんだよ」


僕は、返事ができなかった。


その言葉を、すぐに受け入れることはできなかった。


僕はまだ、自分を責めていた。


でも、美月が残した言葉を、なかったことにするのも違う気がした。


美月との時間は、失敗だったのだろうか。


言えなかった言葉があるから。


伝えられなかった気持ちがあるから。


約束が果たせなかったから。


それだけで、全部が間違いだったことになるのだろうか。


僕はノートを鞄にしまった。


「翔」


「ん?」


「ありがとう。預かっててくれて」


翔は、小さく頷いた。


「……おう」


図書室を出る前に、僕は窓際の席を振り返った。


三年前。


美月は、あの席に座る僕を見ていた。


そして三年後、僕に話しかけてくれた。


その二つの出来事の間に、僕たちはそれぞれの時間を生きていた。


苦しんだ日もあった。


何もできなかった日もあった。


それでも、同じ場所で出会うことができた。


僕は、初めてそう思えた。


けれど、帰宅して鞄を開いたとき。


ノートの最後のページに、もう一つ文字があることに気づいた。


さっきは、涙で見落としていた。


ページの一番下。


小さな字で、こう書かれていた。


『もし私がいなくなったあと、直人くんが自分を責めていたら――』


その先は、消しゴムで何度も消されたように、薄くなっていた。


それでも、最後に残された言葉だけは読めた。


『あの日、私が本当に伝えたかったことを、先生に聞いてください』


僕は、ノートを見つめた。


まだ、終わっていなかった。


美月が伝えたかったこと。


美月が最後まで言えなかったこと。


それは、僕への気持ちだけではないのかもしれない。


そして翌朝。


学校へ行った僕を、担任の先生が廊下で呼び止めた。


「直人。少し話がある」


先生は、静かに言った。


「美月のことで、君に伝えておかなければならないことがあるんだ」


その表情を見た瞬間、僕は思った。


きっと、これから知ることは。


僕が今まで信じていた美月の姿を、少しだけ変えることになる。


そして――。


美月が僕に残したものの、本当の意味を知ることになるのだろう。

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