第十六話「三年前の私から」
封筒の中には、便箋が三枚入っていた。
一枚目の最初には、見慣れた文字で、こう書かれていた。
『直人くんへ。
この手紙を読んでいるということは、私はもう、あなたの前で話すことができないんだと思います。
ごめんなさい。
本当は、直接伝えたかった。
でも、私はずっと怖かったのです。
あなたに嫌われることが。
あなたに、私のことを忘れられることが。
そして何より、あなたに本当のことを知られることが』
僕はそこで読むのを止めた。
美月は、何を隠していたのだろう。
病気のことなら、もう知っている。
学校に戻れなかった理由も。
僕に「待たないで」と言った理由も。
それでも、まだ秘密がある。
僕は深呼吸をして、続きを読んだ。
『三年前、私はお母さんと一緒に、あなたの学校へ行きました。
私は、そのとき別の学校に通っていました。
でも、学校へ行くことが難しくなっていました。
体調が悪かったからだけではありません。
周りの人が普通にできることが、私にはできなくなっていたからです。
みんなが笑っている理由が分からない。
何気ない一言が、何日も頭から離れない。
誰かに嫌われた気がすると、次の日には学校へ行くことが怖くなる。
私は、自分が弱いのだと思っていました。
もっと頑張らなければいけない。
もっと普通にならなければいけない。
そう思っていました』
僕は、便箋を握る手に力を込めた。
普通にならなければいけない。
その言葉を、僕も何度も自分に言い聞かせてきた。
人と同じように話せるように。
人と同じように笑えるように。
失敗しても、何事もなかったように振る舞えるように。
できない自分を隠して、できるふりをする。
そうすれば、いつか本当に普通になれると思っていた。
でも、美月も同じだったのだろうか。
『あの日、私は見学に来た学校の図書室で、直人くんを見ました。
あなたは窓際の席に座っていました。
周りには誰もいませんでした。
あなたは本を読んでいました。
ときどき、少しだけ笑っていました。
私は、その姿を見て思いました。
この人も、ひとりでいることに慣れてしまったのかな、と。
本当は誰かと話したいのに、話しかけることができないのかな、と。
……勝手な想像だったかもしれません。
あなたが本当に何を考えていたのか、私には分かりません。
でも、私はあなたを見て、初めて少しだけ安心しました。
自分と同じように、うまく生きられない人がいるのかもしれない。
そう思ったからです』
視界がぼやけた。
僕は、あの日のことを少しずつ思い出していた。
誰かに笑われた日。
自分の発言が変だったのか、何度も頭の中で繰り返した日。
家に帰ってからも、何が悪かったのか分からず、眠れなかった日。
僕は誰にも言わなかった。
言えなかった。
そんなことを話しても、きっと理解してもらえないと思っていたから。
けれど、美月は見ていた。
僕が何を考えていたのか、正確に分かっていたわけではない。
それでも、僕の孤独に気づいていた。
『私は、その日にあなたへ話しかけようと思いました。
でも、できませんでした。
もし、あなたに拒絶されたら。
もし、私が話しかけたことで、あなたを困らせてしまったら。
そんなことばかり考えてしまいました。
結局、私は何も言えずに帰りました。
そのことを、ずっと後悔していました。
だから三年後、あなたと同じ学校になったとき、今度こそ話しかけようと思いました。
うまく話せなくてもいい。
嫌われるかもしれなくてもいい。
何も言わずに後悔するより、一度くらい、自分から誰かに近づいてみたかったのです』
僕は便箋を胸に押し当てた。
三年前。
美月もまた、誰かに話しかけることができなかった。
僕だけじゃなかった。
でも、だからといって、僕たちが同じ人間だったわけではない。
僕には僕の苦しさがあり、美月には美月の苦しさがあった。
それでも、あの図書室で。
僕たちは、知らないまま同じ孤独を抱えていたのかもしれない。
僕は、二枚目の便箋を開いた。
そこには、少し違う内容が書かれていた。
『直人くん。
あなたは、私に何度も「ありがとう」と言ってくれましたね。
本を貸したとき。
手紙を送ってくれたとき。
電話で話したとき。
あなたは、自分が何もできない人間だと思っているかもしれません。
でも、私はそう思いません。
あなたは、私の話を聞いてくれました。
私が話したことを覚えていてくれました。
私がいなくなったあとも、約束を忘れずにいてくれました。
それは、誰にでもできることではないと思います。
私は、あなたと話せてよかったです。
あなたに本を貸してよかった。
あなたに声をかけてよかった。
だから、お願いがあります。
自分のことを、私が思っていたよりも悪い人間にしないでください。
あなたがうまくできなかったことだけを数えないでください。
できたことも、ちゃんと覚えていてください』
涙が落ちた。
便箋の文字が滲んだ。
僕はずっと、自分のできないことばかり数えていた。
会話が続かなかった。
冗談が分からなかった。
返事が遅れた。
誰かを怒らせた。
失敗した。
そして、そのたびに自分の中で結論を出していた。
やっぱり自分は普通じゃない。
自分は誰かと一緒にいるべき人間ではない。
そんな僕に、美月は言ってくれた。
できたことも、覚えていてほしい、と。
僕は三枚目の便箋を開いた。
そこには、今までの手紙とは違う、短い文章が書かれていた。
『最後に、ひとつだけ。
私は、直人くんのことが好きでした。
でも、それが恋だったのか、私にも最後まで分かりませんでした。
あなたと話しているとき、私は自分を責める時間が少しだけ減りました。
あなたの感想を聞くのが楽しみでした。
あなたが私の話を覚えていてくれることが、うれしかった。
それだけは、本当です。
もし、いつかあなたが誰かを好きになったら。
その人に、自分の気持ちを伝えてください。
うまく言えなくてもいい。
言葉が足りなくてもいい。
あなたの気持ちまで、なかったことにしないでください。
私は、あなたに出会えて幸せでした。
ありがとう、直人くん。
さようなら』
最後の一行を読み終えたとき、僕は声を上げて泣いた。
ずっと知りたかった。
美月にとって、自分は何だったのか。
ただのクラスメートだったのか。
かわいそうな人間だったのか。
それとも――。
けれど、手紙には答えが書かれていなかった。
好きだった。
でも、恋だったのか分からない。
美月らしいと思った。
最後まで、僕に都合のいい答えをくれなかった。
それでも。
僕は初めて、自分が美月の人生の中にいたことを、はっきりと感じた。
ほんの少しでも。
彼女の時間の中に、僕がいた。
それだけで、胸が苦しくなるほど、うれしかった。
その日の帰り道。
僕は、いつもの図書室に立ち寄った。
窓際の席には、誰も座っていなかった。
僕はそこに座り、三年前の写真を机の上に置いた。
写真の中の僕は、本を読んでいる。
ひとりで。
何も知らずに。
自分の隣に、いつか自分を理解しようとしてくれる人が現れることも知らずに。
僕は写真の中の自分に、小さく話しかけた。
「大丈夫だよ」
声に出してから、自分でも驚いた。
今まで、そんな言葉を自分にかけたことがなかった。
「……全部、うまくいくわけじゃないけど」
美月はもういない。
約束した感想を、本人に伝えることもできない。
好きだと言うこともできなかった。
それでも。
僕は本を開いた。
美月から借りた本。
何度も読み返した本。
そして、まだ返せずにいる本。
「僕は、忘れないから」
窓の外では、夕日がゆっくり沈んでいた。
僕は初めて、美月を思い出すことと、前を向くことは、必ずしも反対ではないのかもしれないと思った。
そのときだった。
図書室の入口から、声がした。
「……直人?」
振り返ると、翔が立っていた。
「こんなところにいたのか」
「うん」
翔は僕の向かいに座った。
机の上の写真と手紙を見て、何も聞かずに隣の椅子を引いた。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて翔が言った。
「美月のこと、少しだけ聞いたことがある」
僕は顔を上げた。
「……何を?」
翔は、迷うように視線を落とした。
「美月が転校してくる前のことだよ」
「三年前?」
「そう」
翔はゆっくり頷いた。
「美月、あの頃からずっと、ある人に会いたがっていたらしい」
胸が跳ねた。
「誰に?」
翔は答える前に、僕の顔を見た。
「……それが、お前だったのかもしれない」
僕は息を止めた。
三年前。
美月が僕を見ていた日。
美月が話しかけられなかった日。
そして、三年後に、僕へ声をかけた日。
まだ、知らないことがある。
美月が僕を見つけた理由。
僕に話しかけようと決めた、本当のきっかけ。
そして――。
翔は、最後にこう言った。
「直人。実は俺、美月から預かっているものがあるんだ」
「……何?」
翔は鞄から、小さなノートを取り出した。
表紙には、美月の字で、こう書かれていた。
『誰にも言えなかったこと』
僕は、その表紙を見つめた。
そして、まだ知らなかった。
そのノートの最初のページに書かれているのが、僕の名前だということを。




