第十五話「三年前の写真」
写真を握ったまま、僕はしばらく動けなかった。
三年前。
そこに写っているのは、今とほとんど変わらない学校の図書室だった。
窓際の席。
午後になると、少しだけ日差しが入る場所。
僕がよく座っていた場所。
でも――。
写真の日付を見て、息が止まった。
三年前の僕は、まだこの学校にいた。
「……どういうことだよ」
美月は、この場所を知っていた。
僕よりも前に。
いや。
もしかしたら――。
僕がここにいることを知っていた?
写真の裏には、もう一つ文字があった。
『先生に聞いてください』
その文字の下に、小さく名前が書かれている。
――藤崎美月。
僕は写真を持って職員室へ向かった。
廊下を歩いているだけなのに、妙に足が重かった。
美月は、僕が思っていたよりずっと前から、この学校と関わっていた。
それなのに、僕は何も知らなかった。
職員室の前で立ち止まる。
「……聞いていいのかな」
美月はもういない。
だからこそ、聞くのが怖かった。
それでも、僕は扉を開けた。
「先生」
担任の先生が顔を上げた。
「どうした?」
僕は写真を机の上に置いた。
先生の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
でも、僕には分かった。
「……これ」
「どこで見つけた?」
「図書室です」
先生は写真を手に取った。
そして裏返す。
『私がここに来た理由を、先生に聞いてください』
その文字を見た瞬間。
先生は黙り込んだ。
「……美月から?」
「はい」
しばらくして、先生は小さく息を吐いた。
「直人」
「はい」
「この話をするかどうか……美月本人から、頼まれていた」
胸がざわついた。
「僕に?」
先生は頷いた。
「ただし、今すぐではない、と」
「……どういう意味ですか?」
先生は写真を机に置いた。
「美月がこの学校に来る前のことだ」
僕は黙って聞いた。
「三年前、美月は一度だけ、この学校に来ている」
「……やっぱり」
「正式に転校してきたわけじゃない。見学という形だった」
「なんで?」
先生は答えなかった。
その代わり、古い記録を取り出した。
紙の端が少し黄ばんでいる。
そこには、三年前の日付が書かれていた。
そして――。
僕の名前があった。
「……僕?」
声が震えた。
先生はゆっくり頷いた。
「三年前の君は、今よりもっと学校に馴染めていなかった」
その言葉に、胸が痛くなった。
「覚えてない?」
僕は首を横に振った。
覚えていない。
三年前。
何があった?
先生は記録を閉じた。
「君が図書室で、一人で泣いていた日があった」
「……」
「クラスでうまく話せなくて、何人かの生徒との間で問題が起きた日だ」
頭の奥が痛くなった。
ぼんやりとした記憶が浮かぶ。
教室。
笑い声。
自分だけが会話についていけない。
何を言えばいいのか分からない。
それでも何か言おうとして――。
「……あ」
一つだけ思い出した。
図書室。
窓際。
僕は一人で座っていた。
誰にも話しかけられたくなくて。
でも、本当は誰かに話しかけてほしかった。
そんな矛盾した気持ちを抱えていた。
「その日、美月はこの学校に来た」
先生が言った。
「そして、君を見た」
「……僕を?」
「図書室の窓から」
僕は写真を見る。
窓際の席。
そこに座っている、三年前の僕。
そして写真を撮ったのは――。
「美月ですか」
「そうだ」
胸が締め付けられた。
「どうして写真なんか……」
先生は少しだけ目を伏せた。
「美月は君を見て、自分と似ていると思ったそうだ」
「……似てる?」
「一人でいることを望んでいるように見える。でも、本当は一人でいたいわけじゃない」
言葉が出なかった。
先生は続けた。
「美月は、君に話しかけようとした」
「……」
「でも、その日は話しかけなかった」
「どうして?」
「怖かったんだそうだ」
美月が。
僕に話しかけるのを。
そんなこと、考えたこともなかった。
僕はいつも思っていた。
美月は人と話すのが上手な人だった。
僕とは違う人。
明るくて。
優しくて。
何でも自然にできる人。
でも――。
違った。
美月もまた、誰かに近づくことを怖がっていた。
「それから三年後、美月は正式にこの学校へ来た」
先生が言った。
「そして、君に話しかけた」
僕は写真を見つめた。
三年前。
僕が自分を「普通じゃない」と思い始めた頃。
そのときから、美月は僕を知っていた。
「じゃあ……」
声が詰まる。
「美月が僕に話しかけたのは……」
先生は答えなかった。
その代わり、写真の裏を指差した。
そこには、もう一行だけ文字があった。
さっきは気づかなかった。
震えるような文字で――。
『今度は、ちゃんと話しかけたい』
僕の目から涙が落ちた。
「……なんだよ、それ」
声が震えた。
「そんなの……」
もっと早く言ってくれればよかった。
もっと早く知っていれば。
もっと早く――。
先生が静かに言った。
「美月は、君に会うためだけに学校へ来たわけじゃない」
「……え?」
「もう一つ、理由があった」
僕は顔を上げた。
先生の表情は、今まで見たことがないほど重かった。
「美月は三年前から、自分の病気について知っていた」
「……」
「そして、君と話すことを決めた理由には、その病気も関係している」
胸の奥が冷たくなる。
「どういう……」
先生は答えなかった。
ただ、こう言った。
「それは、美月自身が君に伝えるつもりだった」
「……でも」
僕は写真を握り締める。
「もう、美月はいない」
先生は静かに目を伏せた。
「だからこそ――」
先生が言った。
「君自身で、残されたものを見つけてほしい」
机の上に、一枚の封筒が置かれた。
見覚えのある文字。
『直人くんへ』
僕は封筒を見つめた。
そして気づいた。
封筒の表には――。
今までの手紙にはなかった言葉が書かれていた。
『三年前の私から』
僕は、震える手で封筒を開いた。




