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『普通になれなかった僕は、社会の中で静かに壊れていった』  作者: こうた
第三章「静かに消えていく日常」

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第九話 「来なかった人」

直人は、

しばらく動けなかった。


---


手に持っていた本を、

強く握り直す。


---


「どういうこと?」


---


翔はすぐに答えなかった。


---


廊下の向こうから、

生徒たちの笑い声が聞こえる。


---


昼休み。


---


いつもと同じ学校。


---


なのに。


---


直人の周りだけ、

時間が止まったようだった。


---


「昨日、美月から連絡があったんだ」


---


翔が言う。


---


「体調が悪くなったって」


---


直人の顔から、

血の気が引いていく。


---


「……悪くなった?」


---


「ああ」


---


「だから今日は無理かもしれないって」


---


「でも」


---


直人は言葉を探す。


---


「昨日、俺には……」


---


『今日、学校に行けるかもしれない』


---


そう言った。


---


確かに。


---


聞いた。


---


「また明日」


---


とも言った。


---


嘘だったのだろうか。


---


無理をしていたのだろうか。


---


それとも。


---


自分を心配させないために。


---


直人の胸が、

強く締めつけられる。


---


「病院に戻ったのかな」


---


「分からない」


---


翔は首を振った。


---


「詳しいことは聞いてない」


---


「聞けなかった」


---


直人も、

それ以上聞けなかった。


---


二人はしばらく、

廊下に立っていた。


---


昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。


---


それでも。


---


直人は図書室へ向かった。


---


行かなければならない気がした。


---


もしかしたら。


---


本当に。


---


もしかしたら。


---


美月が来ているかもしれない。


---


そんな小さな希望を、

捨てることができなかった。


---


図書室の扉を開ける。


---


静かな空間。


---


窓際を見る。


---


誰もいない。


---


椅子だけが、

静かに置かれている。


---


直人はその席へ近づいた。


---


美月がいつも座っていた椅子。


---


そっと手を触れる。


---


冷たい。


---


当たり前だ。


---


誰も座っていないのだから。


---


それなのに。


---


「また明日」


---


昨日の声が、

何度も頭の中で繰り返された。


---


直人は自分の席へ座る。


---


鞄から本を取り出す。


---


返すはずだった本。


---


昨日まで。


---


今日の昼休み。


---


美月に感想を伝えるつもりだった。


---


どの場面が好きだったか。


---


最後に泣きそうになったこと。


---


主人公の気持ちについて、

二人で話すつもりだった。


---


そして。


---


ずっと言えなかった言葉も。


---


全部。


---


今日なら言える気がしていた。


---


「どうして今日なんだよ」


---


小さく呟く。


---


誰にも聞こえない声。


---


返事もない。


---


放課後。


---


直人は美月の教室の前へ行った。


---


誰もいない教室。


---


夕日だけが、

机を赤く照らしている。


---


美月の席がどこなのか。


---


直人は知らなかった。


---


それが。


---


急に苦しくなった。


---


同じ学校にいる。


---


同じ時間を過ごしている。


---


そう思っていた。


---


でも。


---


自分は美月のことを、

本当は何も知らなかった。


---


住所も知らない。


---


病院も知らない。


---


家族のことも知らない。


---


連絡先さえ。


---


昨日まで知らなかった。


---


昨日。


---


初めて電話がかかってきた。


---


それなのに。


---


今はもう。


---


電話をかけることすら怖かった。


---


もし。


---


誰か別の人が出たら。


---


もし。


---


美月の声が聞けなかったら。


---


その現実を知るのが怖かった。


---


夜。


---


自分の部屋。


---


スマートフォンを握ったまま、

直人は座っていた。


---


画面には。


---


昨日の番号。


---


名前は登録していない。


---


できなかった。


---


ただ。


---


数字だけが並んでいる。


---


電話をかける。


---


やめる。


---


また画面を見る。


---


指が震える。


---


「大丈夫かな」


---


何度も呟く。


---


そして。


---


意を決して、

発信ボタンを押した。


---


呼び出し音。


---


一回。


---


二回。


---


三回。


---


直人の心臓が、

それに合わせるように鳴る。


---


そして。


---


「もしもし」


---


声が聞こえた。


---


直人は、

一瞬息を止めた。


---


「……美月?」


---


返事がない。


---


「もしもし?」


---


直人がもう一度言う。


---


すると。


---


電話の向こうから、

別の声がした。


---


「どちら様でしょうか」


---


女性の声だった。


---


直人の指先が冷たくなる。


---


「あの……」


---


言葉が出ない。


---


「藤崎さんの……」


---


そこまで言って、

止まった。


---


自分は何なのだろう。


---


友達。


---


それだけ。


---


「学校の……友達です」


---


やっと答えた。


---


電話の向こうで、

少し間があった。


---


「そうですか」


---


女性の声。


---


「美月は今、眠っています」


---


直人は胸を押さえた。


---


「そう……ですか」


---


「お電話ありがとうございました」


---


それだけ言って、

電話は切れた。


---


直人はスマートフォンを置いた。


---


眠っている。


---


それだけで安心する。


---


それなのに。


---


なぜか。


---


涙が出そうだった。


---


眠っているなら。


---


また話せる。


---


そう思えばいい。


---


でも。


---


電話の向こうの声は、

どこか疲れていた。


---


そのことが。


---


頭から離れなかった。


---


翌日。


---


美月は来なかった。


---


その次の日も。


---


来なかった。


---


九月になった。


---


夏が終わった。


---


蝉の声が消え。


---


朝の空気が、

少しずつ冷たくなる。


---


それでも。


---


美月の席は空いたままだった。


---


直人は毎日、

図書室へ行った。


---


本を持って。


---


返すための本を。


---


「今日は来るかもしれない」


---


そう思いながら。


---


しかし。


---


一週間。


---


二週間。


---


また時間だけが過ぎていく。


---


ある日の放課後。


---


翔が直人を呼び止めた。


---


「直人」


---


その声だけで分かった。


---


何かある。


---


翔の顔を見る。


---


以前にも見た表情。


---


言いたくないことを、

言わなければならない時の顔。


---


「……何?」


---


直人は聞いた。


---


翔は少し俯いた。


---


「美月のこと」


---


その名前を聞いた瞬間。


---


直人の呼吸が止まる。


---


「病院の先生から」


---


翔は言葉を選ぶ。


---


「しばらく学校に戻るのは難しいって話があったらしい」


---


「……そう」


---


直人は、

それだけしか言えなかった。


---


本当は聞きたかった。


---


どんな病気なのか。


---


いつ戻れるのか。


---


本当に大丈夫なのか。


---


でも。


---


聞くのが怖かった。


---


知ってしまったら。


---


もう以前のようには、

待てなくなる気がした。


---


直人は鞄の中を見た。


---


一冊の本。


---


夏の日。


---


二人で約束した本。


---


「感想聞かせて」


---


「約束する」


---


その約束だけが、

まだそこに残っていた。


---


直人は本を取り出す。


---


表紙を撫でる。


---


そして。


---


初めて。


---


小さな声で言った。


---


「待ってるから」


---


誰に届くわけでもない。


---


それでも。


---


言わずにはいられなかった。


---


「だから……」


---


喉が震える。


---


「ちゃんと戻ってきてよ」


---


夕方の図書室には、

直人しかいなかった。


---


返事はない。


---


窓の外では。


---


夏の終わりの風が、

静かに木々を揺らしていた。


---


その風の音を聞きながら。


---


直人は初めて。


---


「待つこと」にも、

限界があるのだと。


---


少しだけ感じ始めていた。


---


第十話「待つということ」へ続く。

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