4話「琥珀色」
何週か経った火曜日の夜。
白い蛍光灯で照らされる僕の部屋には、生活というものはほとんど存在しない。
1LDKのマンション、駅から徒歩七分、築は浅いが、階数は低い。窓から見えるのは向かいのマンションの壁だけで、景色と呼べるものは何もない、それすらも常に遮光カーテンで閉じられ眺めることはない。そこまで広いとは言えないリビングにはソファもテレビもない。低いテーブルが一つと、その横に無印良品のクッションが一つ。壁には大きめのラックが並び、そこに料理の専門書が隙間なく並んでいる。
この部屋に人を招いたことはない。招く必要も用事もない。
この部屋のキッチンだけに価値があった。
業務用に近いガスコンロが三口。オーブンは二台。冷蔵庫は家庭用の最大サイズで、中は仕込み用の食材で常に八割が埋まっている。調理器具は壁面のフックに等間隔で吊るされていて、包丁だけで八本ある。それぞれの刃の角度が違う。銅鍋が四つ。鉄のフライパンが三つ。すり鉢、裏ごし器、真空パック機……。調味料はキッチンの引き出しに種類別に整理されていて、醤油だけでも常に三種類は置くようにしている。
この部屋の家賃の半分以上は、このキッチンのために払っている。
テーブルの上にパソコンを開いた。夜のこの時間はメールを確認する時間にあてている。新規が三件。一件は既存の顧客からのスケジュール変更。一件は新規の問い合わせ。もう一件は──名前を見て、開かずに削除した。
元いた店のオーナーからだ。三ヶ月に一度くらいの頻度で連絡が来る。件名はいつも「お元気ですか」。表示される一文目には、「八乙女様」から始まり形だけの季節の挨拶が綴られている。それ以上の中身は読まなくても分かる。戻ってこないか、という話だ。あるいは、あの時のことはもう気にしていないから、という話。どちらも同じ、過去のことだ。
戻る場所はない、戻る理由がない。あの厨房は十二人で回していた。十二人分の調理工程が、十二通りの精度で出ていた。僕の基準では、十一人の精度が足りなかった。このままでは料理の水準が保てない、だから足りないことを指摘した。指摘が指導になり、指導が要求になり、要求が──そこから先は、よく覚えていない。結果として、水準こそ上がったが、厨房が回らなくなった。それだけのこと。
今は一人で、一人のために作っている。誰でもない、自分のために。
冷蔵庫を開けた。あの人の分の仕込みとは別に、自分用の食材がわずかにある。卵。納豆。豆腐。冷凍庫には白ご飯もある。
あの人に出す料理とは何もかもが違う。仕込みで余る材料も使うが、火は極力使わない。調味料や香味は使わない。盛り付けもない。できる限り丼一つで済ませる。自分に無頓着だからではない、素材本来の味を自分の舌で確かめる為だ。ストイックと言えたら聞こえがいいのだろうがそういう性分なのだ。「確認」を怠ると、とても気持ちが悪くなる。茶碗蒸しもバケットも西京焼きもない食卓。今日は卵を割り入れ、九州の蔵から取り寄せた醤油を数滴垂らしただけの卵かけご飯だ。立ったまま、二分程で食べ終えて、丼を洗って伏せた。
自分のための料理に時間を割くことはしない。必要なタンパク質とエネルギー、栄養素は概ね把握している。それに足りうる食材を三食で取る意識さえすれば良い。この手は誰かの皿のために動きさえすればいい。作られたものが、誰かの喉を通り、胸を暖かくする、そんなものを作るために存在している。その「誰か」を、求めてこの道に進んだ。今は「誰か」の顔が思い浮かぶ。
テーブルに戻り腰を下ろす。パソコンの横に、一冊のノートがある。黒い表紙の薄いノート。開くと、日付と食材と簡単なメモが並んでいる。
「4/17(水)鰆 西京焼き──二切れ目で箸の速度が落ちた。一切れ目との間に間があった。味は同じはず。温度か、それとも別の要因か」
「5/3(金)煮込み──仕上げ前に味見を申し出た。初めて。小皿を差し出した時、受け取る指が少しだけ前のめりだった」
「5/3(金)──カウンターの内側に入ってきた。肩が触れた。こちらは半歩退いた。あの人はシンクに皿を置いてすぐに出た。出た後、ラップトップのキーボードに触れていなかった」
お口に合うかどうかは、毎回確認している。
その確認の精度を上げるためにこのノートがある。食べる速度、箸を置くタイミング、残す量、器を見る目の動き──。それらを記録して、次の献立に反映する。あの人の身体が何を求めているかは、あの人の言葉より、あの人の所作が正確に教えてくれる。あの出会いの夜の、熱を隠しきれない目を見た時から。
最後のページに、今週と来週の献立の下書きがあった。水曜日の接待用のメニュー構成。来週の月曜日は行かない日だ。金曜にタッパーに何を残すか──。
先々見越し概ね組み立てられた献立に満足し、ペンを置いた。
ノートを閉じて、テーブルの上に伏せた、パソコンも閉じた。部屋の電気を切ると蛍光灯の白がぼんやりと残ったまま黒が部屋を占拠する。キッチンの換気扇だけが低く回っている。止め忘れたのではない。回っている音がある方がいい。あの人の家と同じ音がする方が。
あの人は僕の「誰か」足りうるだろうか。思わず上がる口角を隠すように口元に手を当てた。
「今週の金曜だが、来期の接待方針について少し話しておきたい」
水曜日の食事が終わった後、俺はダイニングテーブルの上で手帳を開きながらそう言った。
八乙女は変わらずカウンターの内側で片付けをしていた。いつも通りの動作が一瞬だけ止まって、またすぐに再開された。
「承知いたしました。お時間はどのくらいを」
「三十分もあればいい。食事の後で構わない」
「かしこまりました」
業務連絡。来期の接待頻度や予算について話しておくのは当然のことで、何もおかしくない。何もおかしくないのだが、今までメールで事足りてたものをする必要があるのか。この提案を思いついたのは、昨晩、火曜日の夜──八乙女が来ない夜だった。一人で冷蔵庫のタッパーの切り干し大根を温めながら思いついたのは、関係ない。
金曜日。十八時ぴったりにインターホンが鳴った。
その人が入ってくる前に、俺はダイニングテーブルの上に二つのグラスを出していた。ガラスのコップではない。接待用に買って食器棚の奥に眠っていた来客用のグラス。それから、午前中に秘書に頼んで買わせた茶葉。上等なほうじ茶だった。食後に出してもらっているあの茶が旨かったから、同じ系統のものを用意した。
接待で出す茶のクオリティを確認したかっただけだ。先方に出すものと、普段飲んでいるものの差を把握しておく必要がある。
八乙女はキッチンに立ち、いつも通り料理を始めた。いつも通りの黒いシャツにエプロン、いつも通りの包丁の音。何も変わらない週三回の日常。
食事が出てきた。秋刀魚の塩焼き。あぁ、もう季節が変わっているのか。あのパーティーの夜が春の始まりで、今はもう秋の匂いがする。秋刀魚の身は水分を保ったまま舌の上で弾けて、大根おろしの辛みが脂と混ざり合いながら追いかけてくる。旨い。この一言の裏側が密になっている。旨いの裏に空洞はなく、充足感で満たされている。
食べ終わって、その人がテーブルの皿を下げにきた。俺は手帳を広げてこの後の話の段取りをシミュレートする。洗い終えただろう音を確認して八乙女に話しかける。
「座ってくれ」
ほんの一瞬だけ八乙女が固まったように見えた。カウンターの中から出てきて、テーブルの向かい側の椅子の前に立った。三ヶ月以上この部屋に通っていて、この人がダイニングの椅子に座るのは初めてだった。いつもカウンターの内側か、玄関か。座る場所がない人間で、俺もそれを促すこともなかった。
「失礼します」
静かに座った。背筋が伸びている。エプロンはもう外していた。黒いシャツだけの姿で、ダイニングの椅子に座っているその人は──客に見えた。カウンターの向こう側ではない場所にいるその人は、いつもの展示品とは違って……人間に見えた。何が違うのかは言えないが、空気の質感が明らかに変わっていた。
「茶を淹れる。少し待ってくれ」
自分で驚いた。が、今さら撤回もできないので立ち上がった。キッチンに入る。このキッチンに俺が立つのは少し緊張した。やかんに水を入れ、コンロの火をつけた。火力ダイヤルの感触が新鮮だった。この部屋のコンロは、いつも八乙女に任せているから。
茶葉をどのくらい入れればいいか分からなかったので、パッケージの裏を読んだ。大さじ一杯、と書いてある。大さじがどこにあるかは知っている、いつもその人が使っているのを見ていたから。
見ていた……?
湯が沸いた。急須に茶葉を入れ、湯を注いだ。少し蒸らす。パッケージには三十秒と書いてあった。三十秒が長い。ダイニングでは八乙女が静かに座っている。彼の様子が気になってしまう。手持ち無沙汰に指を組んでいるだろうか。それとも何かを見ているだろうか。目を上げれば正解が分かるが、三十秒を数えるために敢えて見ることはしなかった。
二つのグラスに茶を注ぐ、色は琥珀色。八乙女が淹れるのと同じくらいになっているとは言えないだろうが、人には出せるレベルだろう。
テーブルに戻って、一つをその人の前に置いた。
「どうぞ」
八乙女がグラスを見た。数秒間、ほうじ茶の表面を見つめていた。何かを計っている目だった。温度なのか、色なのか、それとも別の何かなのか。集中する時のこの人は目の奥の熱量が増すな。
「いただきます」
八乙女は一口飲んだ。俺はもう一つのグラスを持ち上げたが、口にはつけなかった。八乙女の喉が動くのを見る、小さな喉仏が一度上下して、それからグラスがテーブルに戻された。
「美味しい」とも「ありがとうございます」とも言わない。ただ、グラスを置いた指がいつもより一拍長くグラスに触れていた。気のせいかもしれない。俺は手帳を開いて、来期の接待方針の話を始めた。頻度、予算、想定される取引先の顔ぶれ。その人は丁寧に聞き、必要な質問をし、適宜スマホを取り出しメモを取って「承知いたしました」と応じた。予告通り、三十分で打ち合わせは終わった。
八乙女が立ち上がって、グラスを下げようとした。
「置いといていい」
「いえ、洗って──」
「いいから」
少し強く言ってしまった。その人の手が止まった。一瞬だけ、視線がこちらに向いた。いつもの壁のある目ではなかった。その目の奥で何かが揺れていた──ように見えたのは、照明のせいか慣れないことをしたせいか。
「では、失礼します」
その人は保冷バッグを持って玄関に向かった。靴を履く音、扉が閉まる音──いつも通りの音。いつも通りの帰り方。
ダイニングにいつもと違う二つのグラスが残った。俺のグラスと、その人のグラス。どちらも半分ほど残っている。その人のグラスを持ち上げて、中身を見た。色は同じだ。俺のと同じ茶葉で、同じ湯で、同じ時間蒸らした。同じもの。持ち上げて匂いを嗅いだ。ほうじ茶の匂いがした。
その人の唇が触れたグラスの縁に目がいく──それに気づいて、シンクへと持っていし、二つとも洗った。洗いながら、自分が今何をしていたか記憶も共に洗い流した。冷たい水が指先から温度を奪っていく。
手帳を開いて、来期の接待予算の数字を確認した。さっき話したばかりの内容だが、もう一度確認した。数字を見ている方が楽だった。数字には熱がない、裏もない、何も言わない……。つい数分前までその人が座っていた前方を一瞥してから、概算をラップトップへ打ち込んでいく。




