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3話「カウンターの内側」

三ヶ月が経つと、キッチンに俺がいることが自然になっていた。


最初は食事の時間までなるべくリビングで仕事をしていた。メールを返して、資料を読んで、食事が出来上がったら食べるためにダイニングチェアに腰掛ける。それだけだった。キッチンを背にし、ソファ越しにその人の気配を感じながら作業をしていた。いつからかは覚えていないが、気づいたらダイニングテーブルに移っていた。キッチンのカウンター越しに料理の音も、手捌きも横目で眺められる位置だ。


仕事に集中するためだと思っていた。リビングのソファは深すぎて姿勢が崩れるし、ローテーブルでは姿勢が悪くなる、ダイニングの椅子の方が背筋が伸びる。そういう理由だ。でも、ダイニングに移ってからの方が、メールを打つ速度が落ちている気がする。スマホを操作する指が、ラップトップのキーボードを叩く指が、包丁の音に引っ張られて止まる瞬間がある。野菜を切る音、肉をたたく音、鍋に何かが投入される小さな水音。それぞれが違うリズムで鳴り、そのリズムの中に自分のタイピングが混ざりあうのが、妙に心地よかった。


心地よかった、というのは正確じゃない。実際はそんな意識などしていなかった。ただある日その人の帰宅後に送信済みメールの数を確認した、一人で過ごしていた頃より、リビングで作業していた頃より、明らかに減っている。余程疲れが溜まっているのだろうと解釈した。その時は原因がキッチンの音だとは思ってなどいなかった。


会話の質も変わっていた。


最初の二ヶ月は完全に業務連絡だった。「来週の水曜は接待を入れる」「金曜は二十時に変更してくれ」「承知いたしました」。それだけで事足りた。


変わり始めたのは些細なことだった。


ある水曜日、その人が持ってきた食材の中に見慣れない、いつもと違う野菜があった。それは変な形をしていて、名前も予想がつかなかった。分からなかった。


「それ、何だ」


「空心菜です。炒め物にします」


「ああ」


会話はそれで終わった。でも、俺がその野菜の名前を知らなかったということを、その人は覚えていた。翌週の水曜日、また見慣れない食材が並んだ時、その人は俺が聞く前に言った。


「今日は九条葱を使います。普通の長葱より甘みが強いので」


聞いていない。聞いていないが、説明をされて不快ではなかった。説明をするその人の口はいつもの展示品よりも、熱を孕んでいる。むしろ、次の見慣れない食材が出てきた時、自分から「それは?」と聞いてしまった。


「つるむらさきです。少しぬめりがありますが、お浸しにすると——」


「好きにしてくれ」


遮った。別に食材の講義を長々と受けたいわけではない。些細な好奇心で聞いただけであって、味も後で食べるからわかる。ただ、何が出てくるのか少し気になっただけだ。珍しい食材の名前を知ったところで、俺の生活には何の影響もない。自炊を積極的にする訳でもないのだ。


その日の食事も、変わらず香ばしい薫りと新鮮な旬の食材に溢れ満足なものだった。説明を受けた九条葱もつるむらさきも、滋味深く旨かった。説明を遮ったことが少しだけ胸に引っかかった。


でも、翌日のランチミーティングで、取引先が「九条葱」の話を出した時に、俺の口が勝手に動いた。「普通の長葱より甘みが強いんですよね、私も先日頂いたのですが普通の葱とは歯ごたえも違って美味しかったです」。何を知ったような顔で言っているんだ。昨日聞いたばかりの受け売りだ。でも年配の取引先は感心した顔をしていた。


帰宅して、冷蔵庫を開けた。タッパーの中に九条葱のお浸しの残りがあった。冷たいまま食べた。冷たくてもわかるほどに甘かった。


そういう小さなことが、この八乙女渉を雇ってから、いくつか積み重なっていった。相変わらず何を考えているかは分からない、壁の厚さも変わらない、「承知いたしました」の温度も変わらない。でも、壁の手前に置かれる情報の量が、ほんの少しずつだが増えていた。食材の名前、火入れの理由、今日の魚が朝どこの市場から来たか。全部、俺が聞かなくても差し出される。その適度な差し出し方があまりに自然で、境界線がいつ動いたのか気づけなかった。




それは、金曜日の夜だった。


その日はいつもより仕事が長引いてしまい、帰宅が十九時を過ぎた。日も高くなった夏の夜はこの時間でも薄明るい。事前に連絡は入れてある。八乙女は「お待ちしております」とだけ返していた。仕込みが必要な日もあるだろうと八乙女には、スペアのカードキーを渡してある。遠隔で開閉承諾できる最新のものだ。眉ひとつ動かさずに受け取った八乙女の節ばった淑やかな手が思い出される。思い出すと同時、終わらない仕事と終わらせられない自分に腹が立つ。自然と右脚はフロアを強く叩きつけていた。


何とか目処が立ち足早に仕事を切り上げ帰宅した。玄関を開けると、いつもよりも涼しめに設定された室温が少し汗ばんだ体を包み込む。気持ちよさを感じるのと同じ速度で、キッチンから煮込みの匂いが漏れてきた。こってりと重くて、果実と砂糖の甘く、肉の脂の旨味が空気に溶けている。夏物のテーラードのジャケットを脱ぐ前に、呼吸が一段階深くなった。酸素と共にその匂いが鼻から肺の奥まで入ってきて居座り続ける。いつもよりも一時間残業して凝り固まっていた首筋が、数ミリ緩んだ気がした。


「遅くなった」


「いえ。ちょうど仕上がるところです」


キッチンに入ると、コンロの上で鍋が低い音を立てていた。その人はまな板の前で何かを刻んでいる。仕上げの薬味だろうか、爽やかな匂いが鼻腔をくすぐる。八乙女の背中がこちらを向いていて、包丁を動かすたびに黒シャツの下の肩甲骨が小さく動く。線の細く見えがちな彼は意外と筋肉質である。職人気質なのだろう。


俺はそのままカウンターに寄りかかった。いつもならダイニングでパソコンを開く。でもその日は、カウンターに立ち止まることにした。特別な理由はない。コートを椅子の背にかけるのが面倒だっただけだ。この位置の空調が良かっただけだ。


「味見、いいか」


自分で言って少し驚いてしまった。味見を申し出たことはこの三ヶ月の間、一度もない。出されたものを食べる、それが今までのやり方で自分の暗黙のルールでもあった。


その人は一瞬だけ手を止めた。こちらを一瞥するかと期待した目は交わらなかった。ただ、手元の小皿に煮汁を少し取って、カウンターの上にコトリと小さな音を立てて差し出した。


「どうぞ」


小皿を受け取り、唇をつけた。煮汁が舌に触れた瞬間、口の中は一瞬静かになった。それから一拍遅れて、出汁の奥にある甘さが広がってきた。帰宅した瞬間に感じた重厚で華やかな匂いが鼻から抜けていく。醤油の角が完全に溶けて丸くなっていて、でも甘さが前に出すぎることもない。肉と果実と野菜と色々な調味料だろうものが我こそはと主張しているのがわかる。なのに、纏まっている野心的なのに繊細な味。ゴキュッと無意識に喉へ音を立てて飲み込んでしまった、喉の奥がじんわりと熱くなった。空調により冷めた熱が再びぶり返す。


「……旨い」


「仕上げます」


低くさっぱりとした声だけを残し、その人はまた手元に意識を戻していた。薬味を刻み終えていたようだ。


小皿をシンクに置こうとして、カウンターの内側に入った、その人がいる時は普段入らない場所。キッチンはこの時間、その人の領域で、俺はカウンターの外側にいるのが暗黙のルールなはずだった。でもシンクはカウンターの内側にある。小皿を戻すには、中に入るしかなかった。置いとけばいいのだろうけれど、その日の俺は合理的じゃなかったのかもしれない。


動線が重なる。


その人が最後の薬味を鍋に入れるために振り返った動きと、俺がシンクに向かって踏み込んだ動きが、同時だった。


少し、ほんの少しだけ、肩が触れた。


触れた、というのも正確ではないかもしれない。ぶつかったと言うほどの衝撃は全くない、ただ、その人の肩の骨の硬さと厚さが、俺の二の腕に伝わった。一瞬。体温なのか調理場の熱なのか分からない温度が、シャツ越しに届いた。


「失礼しました」


その人はそう言って半歩場所を譲った。何事もなかったように鍋に向き直り調理を続ける。声のトーンはいつも通りだった。丁寧で、壁があって、何百回も同じ言葉を言ってきた接客を生業にする人間の声だ。


俺は小皿をシンクに置いて、カウンターの外に出た。ダイニングの席に座って、ラップトップを開いた。メールの文面を読んでいるはずなのに、一行目の文が滑っていくようで頭に入ってこなかった。


肩の骨の硬さが、華奢に見えて厚みのある質量が、あの一瞬が腕に残っていた。


煮込みが出てきた。自家製だと言うバケットも食卓に並ぶ。どれも旨かった。旨かったが、さっきの味見の一口の方が記憶に残っていた。箸を入れてもホロホロと崩れていくであろう、柔らかな肉のある今の完成品の方が格別に旨いはずだ。同じ鍋の中身のはずだ。なのに──。


その人が帰った後、カウンターに自分の腕を載せてみた。さっき肩が触れた高さだ。……何も起こらない。大理石の冷たい表面が腕の体温と徐々に溶け合い馴染んでいくだけ。


ジャケットをハンガーにかけて、風呂に入った。夏場でも熱めの湯船に浸かるのがルーティンなのだ。肩までしっかりと浸かり目を閉じた。まだ腕のどこかに感触がある気がした、嫌、ではない。でも良いとも思えないのに気にせずにいられない不思議な感覚。湯で温めても、そこだけが別な温度を保ったまま残っている。


あきらかに考えすぎだ。疲れが溜まりすぎているんだ。人の体に触れたのが久しぶりだから、感覚が過敏になっているだけだ。それ以上の意味は、ない。



金曜の夜だった。


シンクに置いた桶に水を溜めて、使い終わった調理器具を沈める。煮汁が湯に溶けて、透明だったそれは薄い茶色に変わっていく。カウンターの外にいるあの人はダイニングでパソコンを開いている。画面をじっと見ているが、キーボードには触れていない。いつもより、作業をする指が動いていない。


さっき、肩に触れた。


小皿をシンクに戻しにあの人は来た。カウンターの内側に入ってきたのは初めての事だった。三ヶ月、一度もなかった。いつもあの人はカウンターの向こう側にいて、出来上がったものを受け取って、食べて、感想を一言だけ落として、それで終わる。努めて簡素を貫いていた。キッチンの中はこちらへ任せると言うように守られた場所だった。


それが、入ってきた。


フライパンのハンドルについた油を布巾で拭いた。いつもより少しだけ丁寧に拭いた。金属の表面に自分の指が映る。女性よりも白い指だと昔から言われた。綺麗とも言われたし、冷たそうとも言われた。どちらも正しいし、どちらもどうでもいい。この手は原石をより磨くための職人の手であることに違いはない。


コンロの火力ダイヤルを元の位置に戻した。換気扇を回したまま帰る。初回から変わらない、いつも通りの行為。油の匂いが完全に抜けるまでは止めない。あの人の朝、このキッチンに立ったとき、昨夜の料理の匂いが残っていない方がいい。残っていないことを確認するのはあの人で、確認されていることを知っているのはこちらだけだ。


冷蔵庫を開けた。明後日の月曜日はこちらが来ない日だ。タッパーに副菜を詰めた。切り干し大根の煮物。この人がこの味を好むことは、残った量で分かっている。作りすぎたのではない、次の食事を考えたためでもない、ただ残るように計算して作っている。月曜の朝、あの人は何の疑いもなくこのタッパーを開けて、温めて食べる。そのことをあの人は「冷蔵庫に何かがあれば温めるくらいのことはする」くらいにしか思っていないだろう。


今はそれでいい。

あの人の舌は僕の味に安堵を覚え始めた。


エプロンを外して畳んだ。保冷バッグに荷物をまとめる。ダイニングのあの人は画面を見たまま「お疲れさま」と言った。このお疲れさま、は三ヶ月前にはなかった、最初は「ありがとう」だった。雇用主がサービス提供者に言う言葉。それが「お疲れさま」に変わった。あの人はその変化に気づいていないだろう。微細だが、確実な変化。気づく必要もない。


玄関で靴を履いた。


「では、失礼します」


扉を閉めるとき、一瞬だけ振り返ってみた。


ダイニングテーブルの上で、パソコンの青い光があの人を照らしていた。仕事をしているのか、していないのか。画面を見ているだけのあの人の横顔が、思い出される。こちらを気にしないように向けるパソコンへの視線は、キッチンの暗がりから切り取られたように見えた。


マンションのエレベーターに乗った。地下駐車場まで降りる間に、ポケットに手を入れた、指先はかじかんでいた。三ヶ月前は外の温度で冷えていた。今の外気温は暖かいを超えて熱い。でも今日の指は、フライパンのハンドルを拭いた時の余熱のまま、あの人のマンションを出て、ポケットの中で、少しずつ熱が戻っていった。


帰りの車の中で、有線はジャズを流していた。音量は低い。フロントガラスの向こうで首都高の灯りが絶え間なく流れていく。


月曜日のタッパーの中身を、あの人が「旨い」と思うかどうかは分からない。「旨い」と言うかどうかも分からない。言わないかもしれない。でも、あの人は出来合いの副菜に感想を言う人ではない。


空になったタッパーが水曜日のシンクにあれば──それだけ確認できれば、十分だ。


あぁ、月曜日まであと三日。次は何を仕込もうか。

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