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2話「旨いの裏側」

八乙女渉を接待に使ったのは、一ヶ月半が経った頃だった。


相手は建設系の中堅企業の役員で、うちとの取引を渋っていた。提案書は通っている、数字も悪くない、でも最後の判断を保留にされ続けてすでに三週間。こちらとしても早く話を進めたい、そのためには俺が直接会って、もう一押しする必要があるだろう、この接待はそのための会食だった。


普段なら六本木の店を押さえる。個室があり、静かで、値段がそのまま格になるような店。キャバクラ通いをよくするという噂の役員なら同伴で使いたくなるような店だろう。でも今回は自宅にした。理由は簡単で、あの料理を出した方が効果的だと判断したからだ。レストランは誰でも予約できる。自宅に招き入れることと、専属の料理人がその場で作る姿を見ながら食べることは、中々経験できるものではない。私というこの会社の船頭に、他とは違う価値があると差別化するためのパフォーマンスだ。


八乙女には事前にメールを一本送った。「来週の水曜、取引先の役員を自宅に招く。私を含めて三名分。先方は和食と日本酒を好む。アレルギーはない」


返信は翌朝には届いていた。「承知いたしました。お飲み物のご用意はこちらで進めてもよろしいでしょうか」


酒まで選ぶのかと少し驚いたが、任せることにした。料理人としての判断材料が増えるのはいいことだ。俺としても商談はもちろん、八乙女の能力を正確に測るよい機会にもなる。了承の返事をして以降、特にメールは無かった。


迎えた当日。先方が到着する一時間前に、その人はキッチンに立っていた。いつもと同じ黒いシャツにエプロン、いつもと同じ生活感のない顔。でも、食材の量がいつもの倍はあった、大きな保冷バッグに加えて、酒屋の紙袋が二つ。気になりはしたが、今聞くことでもないと中身は確認しなかった。保冷バッグから予め仕込みをしていたであろうタッパーがいくつも出てくる。淡々と無駄な動作もなく準備を進める様を眺める。眺めながら、先方との話の段取りを何パターンかシミュレーションしてみる。なんて事ない、断られる可能性の方が低い商談だ、今日ここで決める。


部屋に美味しい匂いが充満し馴染み始めた頃、先方が来た。いつも取引している役員の上司だと言う方との名刺交換をして、リビングに通し、用意していた軽い雑談を始めた。キッチンからは音がしている。包丁の音、鍋の蓋が持ち上がる音、換気扇の低い唸り。それらが会話の背景に混じって、部屋の空気を少しずつ変えていた。レストランの個室には絶対に出せない空気だった。生活の延長線上で、でも生活では起こり得ない精度の音。小気味よいそれに気づいたであろう先方がちらりとキッチンの方を見た。興味を引けている。ここまでは計算通りだ。会話の切れ目を鋭敏に感じ取り、一品目が出てきた。


小さな器に、白身魚の薄造りが盛られていた。柑橘の香りが新鮮に鼻に届く。その上にうっすらと塩が振られていて、箸で持ち上げると身が光を透かすほど薄い。先方がそれを口に入れた瞬間、目を見開いた。二人して顔を見合わせている。


「これは……」


「良いでしょう。うちの料理人です」


自然に出た。うちの料理人。まだ1ヶ月半の付き合いではあるが、言ってから妙な充足感があった。うちの──所有を示す言葉だ。この味を出せる人材を俺が囲っている。それを商談の場で見せている。先方がこの料理に感嘆することは、私の判断力への評価と同義だ。


二品目は焼き物だった。三品目は椀物。酒は要望通り日本酒で、二合目に出された純米大吟醸を先方はお気に召したのか三杯おかわりした。料理に合わせて酒を変えている。一品目の柑橘の酸味には辛口を、椀物の出汁には甘みのある一本を。俺はそこまで日本酒に詳しくないが、先方の表情で合っていることだけは分かった。


商談自体は最初の三十分ほどで終わっていた。数字と条件を確認して、先方は「前向きに進めたい」と言った。三週間保留していた案件が、二品目の焼き物を食べる頃には決まった。後押しの接待なんてこんなものだ。


残りの時間は、先方がひたすら料理の話をしていた。「この出汁は何で取っていますか」「火入れの時間はどのくらい」「お店を出されているのですか」。キッチンに向かってそう聞く先方に、その人はカウンター越しに丁寧に答えていた。初めて会った夜と同じ、少し高めで明るい声色、壁のある丁寧さ。聞かれた質問以上のことは語らず、必要なことだけを相手の気分が高まるように。思惑通り、先方は満足していた。料理人に直接質問できるという体験自体が、この会食の価値を上げている。


その人は先方に求められ握手をし、玄関先で「手土産にどうぞ」と一合サイズの日本酒と弁当だろうかが入った紙袋を手渡していた。俺は八乙女をキッチンに残し、呼んでおいたタクシーまで先方を見送りに出た。「素晴らしい料理をありがとう」「また話を進めておくので今後ともよろしくお願いします」そう言ってから去るタクシーをにこやかな表情を作り見送った。


先方が帰った後、俺はダイニングに戻ってきた。キッチンではその人が片付けを進めている。皿を洗う水の音、調理台を拭く布の音。俺はグラスに残っていた日本酒を一口飲んだ。甘い。先程までは感じなかった甘さ。料理がないとこの酒は甘すぎるのか、料理と一緒だった時は完璧だったのに。


「今日のメニューは誰が決めた?」


聞いてから、変な質問だなと我ながら思った。決めたのはその人に決まっている。でも、俺が出したのは「和食、日本酒、二名、アレルギーなし」だけだ。手土産まで用意しろとは言っていない。


「こちらで組ませていただきました」


「何を基準に?」


「いつもお召し上がりになっているものから、好みの傾向を推測しました。和食がご希望とのことでしたので、接待のお相手方にはその方向で。千賀様の分は──」


そこで言葉が切れた。何か考えるように視線が一瞬だけ宙に泳いで、それからまたこちらに戻った。


「お口に合うかどうかは、毎回確認しております」


確認。いつ。どうやって。俺は毎回「旨い」としか言っていない。食べ残すこともほとんどない。それだけで何が「確認」できたというのか。でも現に、今日の接待のメニューは完璧だった。先方の好みにも、俺の好みにも、合っていた。そう、俺の好みに──俺はこの人に好みを伝えたことがない。アレルギーの有無と、和食か洋食かの大枠しか伝えていない。


それなのに、合っている。


「来週から週三にしてくれ。月・水・金」


ビジネスの判断だ。今日の接待で八乙女は証明した。この人材を最大限に活用するべきだ。週二では足りない。重要な接待はすべてこの形式にする。今回の先方の反応を見れば、効果は明らかだ。


「承知いたしました」


いつも低く落ち着いた声、いつもの丁寧で壁のある声。その唇からは迷いなく了承の言葉が紡がれた。勝ち取った満足感の裏にうっすらと何故この人は即答できるのか疑念が渦巻く。でも、誰よりもこの人を拘束できる事実に安堵が勝つ。


その人が帰った後、キッチンに立ってみた。あれだけ手の込んだ品を作っていたと思えないほど、何もなかった。調味料は元の位置に戻り、シンクは乾いていて、ゴミ箱の中身も替えられていた。この空間につい三時間前まで別の人間が立っていた痕跡が一つもない。


なのに、匂いだけがかすかに残っていた。出汁でも油でもない、もちろん香水なんかでもない。何の匂いなのか分からない。鼻の奥のずっと深いところで、何かが引っかかって取れなかった。




週三になってから、変化が起きた。いや、変化と呼ぶのは少し大袈裟かもしれない。単なる慣れかもしれない。


月曜。出社前に冷蔵庫を開けると、前の金曜日に置かれたタッパーがある。出汁か、作り置きの副菜か、それを温め直し食べ終えてから家を出る。朝食を作る習慣なんてなかったのに、冷蔵庫に何かがあれば温めるくらいのことはするようになった。冷蔵庫を開けるという行為自体が、以前はほとんど存在しなかったのにだ。


水曜と金曜の夜は、仕事の上がりが少し早くなった。定時より前に切り上げているわけではない。ただ、十八時に間に合わせる意識が生まれた。デスクに残って今日やらなくてもいい作業をする癖が減った。取捨選択の質が上がり効率的になったのだと思う。これは思わぬ副産物だ。


火曜と木曜。その人が来ない日。夕食をどうするかという問題が、以前より重くなっていた。それまでは考えたこともなかった。コンビニかデリバリーか外食か、どれでも良かった。今も別にどれでもいいのだが、どれを選んでも何かが足りない。栄養はたりているはずなのに、欠けている。


接待で使っていた六本木の店に久しぶりに一人で行った。カウンターの寿司。無骨な大将が従業員を何人も抱えた静かで落ち着いた店だが、煌びやかな装飾もあるモダンな造りの店。十分に満足できていた店だ、値段も味も、申し分ないはずだった。以前までは。


一貫目を口に入れた。旨い、変わらず確かに旨い。でも、旨いという言葉の裏側が空洞になっているような感触があった。シャリの温度が、ネタの厚みが、醤油の塩分が、全部ちゃんとしている。ちゃんとしているのに、喉がそれを受け入れる速度がどこか渋い。飲み込んだ後に残る温度が満足感がどうにもしっくり来ない。


舌が肥えたのだと思った。あの料理を週に三回食べていれば、基準が上がるのは当然だ。むしろ、それだけの腕を持つ人材を押さえていることの証左だ。舌の基準が上がることは、悪いことではない。むしろ自分のステージが上がった証拠だ。


七貫食べて店を出た。今までは十二貫食べていた。腹が空いていなかったわけではない。ただ、七貫目で箸を置いてしまった。理由は分からない、もういい、そう思ってしまったから。


帰りのタクシーの中で、ああ、明日はやっと水曜日だ、と思った。


思っただけだ。


その週の水曜日、その人が作った鰆の西京焼きを食べながら、六本木の寿司のことを考えていた。あの寿司に足りなかったものは何だったのだろう。技術じゃない、素材でもない。あの店は老舗で、腕も確かだ、ミシュランに掲載されていることがそれを表している。では何だ、何が原因だ。


鰆を一切れ、口に入れた。味噌の甘さがじんわりと舌に広がって、その奥から鰆の脂が溶けてくる。二つの種類の違う甘さが順番に届く。飲み込んだ後に、喉や胃ではなく、胸のあたりが温かくなる。そうだ、この暖かさだ。これが六本木にはなかった。


温度の問題だと結論づけた。寿司という料理という点。それとは違い様々な料理を作り出す八乙女。出来立てを、この距離で、この速度で食べられること。レストランではどうしてもテーブルに届くまでの数十秒で何かが抜け落ちる。それだけの話だろう、物理の問題なのだ。


そう思って、鰆をもう一切れ食べた。旨かった。旨かったが、さっきの一切れ目と違った。何がと聞かれても分からない。同じ皿の、同じ魚の、同じ焼き加減のはずだ。なのに一切れ目にあった「あれ」が、二切れ目では薄まっている気がした。


冷めたのか。いや、まだ温かい。


温度の問題でないなら気のせいだ。そう処理して、食事を終えた。


カウンターの向こうで、その人は洗い物をしていた。毎回思うが、洗い物をしている時のこの人は展示品に戻っている。手は動いているのに、存在の密度が薄い。料理中の火が完全に消えて、元の──何と呼べばいいのか分からないが、元のものに戻っている。作られた、借り物のような、触れるに触れられないそんな感じ。


俺はいつもならソファに行くところを、ダイニングチェアに座り、近くでしばらくその背中を見ていた。見ていた理由は、スマホの充電が切れていたからだ。動いているものを見る方が暇つぶしになるから。ソファの横にあるテレビのリモコンはただの飾り、換気扇のまわる音が彼の帰宅するまでのカウントダウンに聞こえて、ほんの少しだけ名残惜しく思った。


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