1話「名刺の延長線上」
『人は機能で測れる。』
これは私、いや、俺が駆け抜けた社会という海の中で弾き出した一つの答えである。別に個人の感情や内面を度外視している冷たい話ではなく、単純に効率の話だ。海を駆けるためには、船、船頭、技術も海図もいる。その全てを一人で担う必要はない、社会を歩んでいくのも同じことだ。秘書は俺の時間を生む機能、顧問弁護士はリスクを数値化する機能、経理は金の流れを透明にする機能。それぞれが自分の持ち場で自分の能力を発揮してくれたら、益が生まれる、それ以上のことを俺は求めない。飲み会も慰労会も歓迎会もやるし、相応の働きがあればボーナスだって出す。そういう点で言えば俺の会社は人を大事にしている方だと思う。ただ、大事にすることと興味を持つことは別の話だ。昨日の食事を覚えていたってどうにもならないのと同じ。
名前は覚える。仕事をする上で必要になるから。顔も覚える。それぞれの報告内容に顔がついていた方が脳内の処理が速いから。適切な配置を検討するのにも役立つし。でも好きな食べ物とか、週末の過ごし方とか、そういうものを知りたいと思ったことは一度もない。会社の同僚として必要な情報は既に持っている。それ以上踏み込むのも野暮であり、俺の容量も限られている。
三十二になった。会社も七期目に突入した。大学の同期がまだ係長だの主任だの言っている間に、俺は従業員を二百五十二人にした。来期にはメガベンチャーと言ってもいい規模になってくるだろう。自慢がしたいんじゃない。ただ、この速度で走ってきた人間にとって、他人の私生活に関心を割くのは無駄でもあるが、何よりも贅沢すぎるのだ。試合としてのマラソンの最中に景色を眺める余裕なんてないのと同じ。ただの趣味の片手間じゃ、従業員を養うことはできない、多くの人の生活がかかっている。
食事は、まあ、それなりに気を使っている方だと思う。接待で使う店は三ヶ月に一度入れ替える。基本的には個室か貸切ができる個人経営の店がいい。ミシュランは一応チェックしている。味がわかるかと聞かれたら、多分わかる方だと答える。ただそれは舌が肥えているかどうかの問題じゃなくて、場の問題だ。あの店を予約できること、あの皿を知っていること。誰も知らない店を発掘するのは俺の仕事ではない。相応の立場の人が耳にしたことのある店に出入りすること、それができること、これらが取引先との席で何を意味するか。ビジネスにおいての食事とは名刺の延長線上にある。
今朝もコンビニのサンドイッチを片手に出社して、もう片方の手でスマホのスケジュールを確認していた。サンドイッチの味は覚えていない。新作の商品だったのは覚えているけれど、卵だったのか、ツナだったような気もする。でも正直どっちでもいい。胃に入り一日のエネルギーとして不足がないのであれば。
その日は、投資先のベンチャーが主催するパーティーがあった。
六本木のイベントスペース。高層ビルの最上階から二つ下の階にあるそこのスペースは、天井が高くて、照明が暗くて、人の声が反響して輪郭を失う。大きな窓から見える都会の夜景は眩く、品の良い音楽がスピーカー越しに控えめに、それでいて「こういう音楽も私は嗜んでいます」というアピールを忘れずに流れる。こういう場は苦手じゃない、むしろ得意な方だ。主催に軽くそれでいて愛想良く挨拶をしてイベントという名の立食パーティーの波に身を任せる。こういう場は、名刺を渡して、顔を売って、情報を拾って帰るのが鉄則。立食パーティーとは名ばかりで、こういう場の食べ物は基本的にケータリングが多いので期待はしていない。でも、名前の知っているところであればそれとなく褒めるのを忘れてはいけない。そこさえ抑えておけば大きく外すことはない。
でも、この会場の端にはキッチンが組まれていた。出張料理人がその場で仕上げるスタイルになっていた、ほぅ、テックのイベントにしては凝ったことをする。一つ捻りを加えるのが好きだと語っていた代表を思い出す、そういうのを好む趣味が高じてなのだろう。周りの参加者の反応を見るに、キッチンには目もくれず会話を楽しんでいてあまり効果はなさそうだ。コスパがいいとは言えないがそういう挑戦心は好ましい。
サーバーから皿を受け取った。色とりどりの野菜と少しの肉や魚が顔を合わせる、前菜の盛り合わせ。見た目は綺麗だが、残念ながらこういう場の料理はだいたい温度が死んでいる。仕方がない、大量に出すのだから、一皿ごとの精度は落ちる。皿は温かなものだが、慣れもあり、期待も何もこれっぽっちも湧いてこない。
口に入れた瞬間、胃に入れるだけ入れて立ち去る予定の足は止まった。
温かい。それだけ。当たり前のことだ。出来立てなのだから温かくて当然だ。でも、この温かさは違った。暖かい、が適切かもしれない。舌に触れた瞬間に、目を少し開けてしまう、薄暗いはずの手元がより鮮明になり、口の中の空気ごと変わったような──そんな何かが鼻の奥まで通り抜け喉を通り嚥下した。素材の名前は分からない。でも喉がそれを受け入れる速度が、同じ食べ物というカテゴリのはずのコンビニのサンドイッチとは段違い、全く違っていた。飲み込んだ後というのに、胸の奥に温度が残る。感心の一言が頭を占める。
しかしながら、立食パーティーの前菜で立ち止まっている自分が滑稽である。周りを見てみるが、他の客は普通に食べて、普通に喋って、普通に次の皿を取りに行っている。誰もこの前菜の異常さに気づいていないようだった。いや、異常というのは大袈裟か。旨かったのだ。ただそれだけのことだ。食べ物を旨いと心の底から思うほど飢えていた自分がやはり滑稽だった。そう処理して、俺は歩き出した。
でも、足は自然とキッチンの近くへと向かっていた。
カウンター越しに料理人が見えた。イベントスタッフと分かる黒いシャツを着ている。背は俺と同じくらい。顔は──綺麗だった。整っている、というのとも少し違う。ガラスケースの中の展示品みたいに、触れる前提で存在していない顔。色が白くて、輪郭が薄い。会場の暗い照明の中で、あの人だけ光の当たり方が違うように見えた。人形じみている、という言葉が浮かんで、自分で消した。顔の品評をしたとて何になるというのだ。
その人形が、手元の皿に向かった瞬間に変わった。
包丁を持つ手。フライパンを振る腕。油が跳ねる音の中で、さっきまでガラスケースの向こう側にいたはずの顔に生命の火が灯った。目の奥が、まるで別の生き物のように動いている、冷たく見える切れ長の目なはずなのに野心が隠しきれていない。同じ人間の二秒前と今を見ているのに、接続が切れていた。
俺はカウンターに肘をついて、しばらくその手元を見て、自然とグラスを煽った。主目的であったはずの名刺交換が頭からすっかりと抜け落ちていた。忘れていた。忘れていたことに気づいたのは、隣に立ったこの主催である投資先の代表に肩を叩かれた時だった。
「あ、千賀社長も気になりました? 彼、いいでしょう。元々、結構有名な店にいたらしいんですけどね。今は出張専門で」
代表はカクテルグラスを片手に嬉しそうに喋っていた。自分のパーティーの料理が褒められていると思ったのだろう。俺は適当に頷いた。
「紹介しましょうか?」
その一言に、俺は三秒だけ考えた。三秒で十分だった。
「いえ、自分で声をかけます」
代表は少し驚いた顔をしていた。俺が自分から人に声をかけるのが珍しかったのだろう。珍しいのは俺自身が一番わかっている。でもこれは、他人に興味が湧いたのとは違う。良い人材を見つけたのだ。投資先の発掘と同じ感覚。数字を見て、可能性を見て、誰も価値を見出していない今、先に手を打つ。海を歩むのは船だけではない。より快適により速く目的地につけるのであれば手段は船でなくていいのだ。彼は私の航海での新たな一手に足りうる。
料理の手が止まるタイミングを待った。一通りの提供が落ち着いたらしく、その人はカウンターの内側で手を拭いていた。さっきまでの火が消えて、また展示品に戻っている。切り替わる速度が異常だった。無駄を削ぎ落としたその振る舞いも悪くない。
「すみません、少しお時間いいですか」
声をかけると、その人はゆっくりとこちらに向きかえった。
「はい」
丁寧な声だった。接客業の声、見た目よりも少し高めの明るい声。感じは良い、でも距離がある、何百回も同じトーンで同じ返事をしてきた人間の声だ。壁の厚さが声に染み出ている。
「今日の料理、非常に良かった。出張料理人と代表から伺いました。個人の依頼も受けていますか」
「内容にもよりますが、お受けしています」
簡潔だった。営業トークも自己紹介もない、聞かれた事への答えのみ。目が合っていたが、見ているというより確認しているだけだった。俺はこういう相手の方がやりやすい。
「週に二、三回、自宅での食事を頼みたい。接待で使うこともある。詳細は改めて。連絡先を教えてもらえますか」
名刺を差し出した。その人は受け取って、数秒間だけ視線を落とした。名刺に書かれた社名と肩書きを読んだのだろう。それから静かに頷いて、自分の名刺を返してきた。
シンプルな黒い名刺だった。名前と、電話番号と、メールアドレスがシルバーで印字されている。肩書きも屋号もない。
「後日、ご連絡いただければ」
それだけ言って、その人はまたカウンターの内側に戻っていった。振り返ったときにはもう次の仕込みに手を動かしていて、俺との会話は三十秒前に終わったことになっていた。
帰りのタクシーの中で名刺を取り出す。名前を覚えた。八乙女 渉。仕事に必要だから。
最初の出張の依頼は、翌週の水曜日にした。
あのイベントから1週間も経たなかったが、こういうのは先延ばしにしてもいい事はない。向こうもそれが分かっているからか、了承の返事は早かった。決まってからは、事前にメールで簡単なやり取りをした。アレルギーの有無、好みの傾向、キッチンの設備。初回の定型文なのであろうメールの文面は丁寧で、必要なことしか書かれていなかった。「承知いたしました」が三回続いた。無駄がない。踏み込まないその料理人としてのスタンスもいい。
指定した時間に、インターホンが来客を告げる。十八時。一分の誤差もない。
玄関を開けると、黒いシャツのその人が立っていた、まだ薄ら寒い春の陽気にしては少し肌寒そうな装いだが車移動だろうから余計な荷物にならないようにとの選択だろう。大きな保冷バッグとその上にもう一つの箱──調理器具でもはいっているのだろう、それを両手に提げている。イベントの時とは違うが、印象は同じだった。生活感のない顔、展示品のように誰の手も寄せ付けない雰囲気。どの家の玄関にも馴染まない佇まい。
「お邪魔します」
靴を脱いで上がる所作が静かだった。音がなく、足の運び方や所作に一切の無駄がない。俺は先にリビングのソファに座って、その人がキッチンに向かうのを眺めていた。
間取りは事前に共有してある。それでも、初めての他人のキッチンに立つのだから多少の確認はするだろうと思っていたが、その人はエプロンをつけ保冷バッグを開けて食材を並べ始めるまでに四十秒もかからなかった。冷蔵庫を開ける、引き出しを確認する、コンロの火力を見る。全部が一連の動作に組み込まれていて、立ち止まる瞬間がない。
あぁ、また、変わった。
さっき玄関に立っていた展示品は、包丁を持った瞬間にいなくなった。代わりに、目の奥に火が灯った人間がキッチンにいる。まな板に刃が触れる音は小さいが正確で、リズムがある。あのイベントスペースの音楽よりもこの家に馴染むリズム。切られた食材がまな板の端に等間隔で並んでいってるのが見なくても分かる。鍋に水が張られ、コンロに火がつく。油がフライパンの表面を滑る音。
俺はスマホを触るつもりでソファに座ったのに、気づいたら画面を見ていなかった。ローテーブルに置かれたラップトップも画面が開かれることはなかった。ただただ、キッチンから聞こえてくる音に耳を持っていかれている。別に見ていたい訳じゃない。好奇心というより感心。音だけでなく効率化された作業を見てみたい。視線を外すタイミングが見つからなかった。傍に来た俺をチラリと一瞬確認だけして何も言わずにその人は作業を続ける。以前の愛想の良い対応は雰囲気だけで、言葉としては現れなかった。
三十分ほどで、ダイニングテーブルに三皿が並んだ。
前菜。メインの魚。副菜の温野菜。
「本日のお食事です。ごゆっくり」
その人はカウンターの内側に下がって、使った調理器具を洗い始めた。食べている間に片付けるらしい。合理的だ。
前菜だと説明されたその皿には、茶碗蒸しが置かれていた。見た目は地味だ。しかし、一口目で、あのパーティーの夜が戻ってきた。
茶碗蒸しの出汁の中には、カリフラワーとモッツァレラチーズであろうチーズが木の匙で掬うのに丁度の大きさで隠れていた。口の中にカリフラワーの甘みとチーズのコクが出汁と一緒に溶けだしていく。
あの時は前菜の一品だけだった。今は三皿、目の前にある。全てが温かく、全部の温度が違っていて、どれもが適切な温度で正確に皿に乗っている。魚の表面は箸を落とすとパリッと音を立てて、中の身は柔らかくハーブの匂いが香り立つ。舌の上で解けた瞬間に喉の奥が勝手に動いた。咀嚼し飲み込むのではなく、身体が万全の体制で受け取りにいく感覚。普段の食事では起こらないことが今、口の中で起きている。目の前の皿に起こされている。
接待で使っている六本木の店と比べてどうか、と考えた。考え始めてすぐに、比べるものが違う気がした。あの店は空間ごと料理で、この食事は──なんだろう。テーブルの上に皿が置いてあるだけなのに、空気の密度が違う。皿が料理がこの空間を支配している。一見すると華やかさが無いものでも、口に入れたら主役級の輝きを放つ。
「旨いな」
声に出していた。出すつもりはなかった。
カウンターの向こうで、洗い物をしていた手が一瞬だけ止まった。それからまた動き始めた。返事はなかった。表情を確認する余裕は俺にはなかった。この一食で八乙女という料理人の腕が確かであると確信づけられた。
全部食べ終わった。食べ終わったという実感は薄かった、普段よりも満足する量は食べている、でも食事の終了が惜しまれた。皿が空になっているのに、口の中にまだ温度が残っている。残った温度が消えるまでのこの充足感を味わい、食後に出されたほうじ茶を飲む。熱すぎず、それでいて腹を落ち着ける包容力のある味わい。ここまで手抜かりがないとは想像の上をあった。
その人はダイニングの皿を下げて、キッチンを元の状態に戻していた。いや、俺が使い始める前よりも綺麗になっている気がする。この徹底した料理人としての信念が屋号を構えずに一人で活動している所以なのだろうか、ふと思ったがそれ以上は考えなかった。
「来週も同じ曜日でお願いできるだろうか」
水曜。ではなく。
「水曜と金曜。週二で」
自分で言って、自分で頷いた。ビジネスの判断だ。これだけの腕を持っている人材を週に一度しか使わないのは勿体ない。一人で味わうのはもちろんだが、接待にも使える。自宅に招いて、この料理を出す。それだけで商談の成功率は確実に上がるだろう。この人の所作はわかる人にはわかる気品がある。先方相手でも失礼がないだろうことはこの一日でわかった。見積もりの話は翌日メールですればいい。
「承知いたしました」
断られる可能性は大いにあった。でも、あの夜よりも低く落ち着いた声で返事が返ってきた。これが本来のこの人の声色なのだろう。その人は長いまつ毛を伏し目がちにして小さく頭を下げた。他の客よりも俺は羽振りがよいのだろうか、なんせ快諾して貰えたのは大きい。行きには見当たらなかった春物のコートを羽織り、保冷バッグを抱えて、玄関で靴を履いた。
「では、失礼します」
最小限の音で扉は閉まった。
リビングに戻ると、キッチンの換気扇がまだ回っていた。止め忘れたのかと思ったが、油の匂いを完全に抜くために回しているのだろうと気づいた。そういう手順の人なのだな。自分がいなくなった後のことまで計算に入れている。
少し酒を飲もうかと冷蔵庫を開けた。目線と同じ高さ、でも正面ではなく視界の端になる位置に、小さなタッパーがあった。俺はタッパーを使うことがないし、入れた覚えがない。蓋を開けると、あの茶碗蒸しと同じ出汁の匂いがした。ふんわりと優しい鰹が華やかに広がる。なぜこれがこのままあるのだろうか。持って帰るのを忘れたのか? それとも、翌朝用の味噌汁の出汁だろうか。何も言われていないし、もちろん頼んでもいない。スマホのメールをチェックしてみたが、何も書いていない。
蓋を閉めて、冷蔵庫に戻した。
いい人材だ。大当たりだ。俺の嗅覚は正しかった。
酒を飲もうと思ったが、気分にあうものがなかったので近くのコンビニまで買いに行くことにした。ハイボールとツマミのジャーキーと、ついでに味噌。
翌朝、その出汁で味噌汁を作った。具は冷蔵庫にあった豆腐だけ。自炊なんてほとんどしないけど、手順は検索した。出来上がったそれを啜っても、思ったよりも旨いとは思わなかった。ただ、いつものインスタントとは明らかに何かが違っていて、その「何か」が何なのかまで考えることはしなかった。食器を簡単に洗って置物となっていた食洗機をまわす。
出社してから、手帳をひらき、来週のスケジュールのページに「出張料理・水/金」と書き加えた。他のスケジュールと同じ黒い文字で書かれているのに何故か目立って見えた。万年筆が古くなったのか、筆圧がいつもよりも強くなったのか、いつもと同じだったはずの行為に少しの違和感を覚えた。




