5話(最終話)「回り続ける換気扇」
心地よい秋は一瞬で過ぎ去り、冬の肌を刺すような冷たさが忍び寄ってきた。そんな十一月の水曜日。
もはや恒例となった出張料理人による自宅での接待が終わり、先方が帰った後のダイニングで、俺は八乙女が淹れたほうじ茶を飲んでいた。あの金曜日以降、打ち合わせの名目はない、しかし、食後に茶を出す習慣が残った。あの時のように俺が淹れることはせず、自然と八乙女が皿を下げた後に差し出すようになった。キッチンに立ったのはあの一度きり。
八乙女がキッチンを片付けている。換気扇の音、水の音、布巾で調理台を拭く音。もう半年以上聴いている音だ。最初の他人を招き入れている違和感はもはや無い、日常の一部と化した夜。あの日、あのイベントスペースのキッチンでの出会いから、季節が二つ変わった。春に出会い、夏に肩が触れ、秋に茶を淹れ、今は冬の入口にいる。窓から小さく見える街路樹も紅葉し、段々と葉が静かに数を減らしていっていた。
秘書の高橋が、昼に妙なことを言った。
「社長、最近お食事に気を遣ってらっしゃるんですか? 肌の調子が凄くいいって、営業の子たちが噂してましたよ」
「あぁ、出張料理人を使うようにしたんだ。接待用でな」
「もしかして、先日の接待の時の料理人さんですか? すごく綺麗な方ですよね」
高橋は気にした様子もなく次の議題に移った。
綺麗──。そうだ、八乙女は綺麗だ。それは最初から分かっていたことで、今さら確認する必要もない。でも高橋の口から出た「綺麗」という言葉が、妙に長く耳の中に残った。他人の口を通して聞く八乙女の印象は、俺とは違う温度で、何よりむず痒い感覚が足元から押し寄せてきた。
だからだろうか、その夜、食事の後に八乙女がカウンターで片付けをしている背中を見ながら、不意に考えてしまった。
この人は、ここに来る前に何をしていたのか、と。
元名店のシェフだったと、あのパーティーの夜に代表が言っていた。結構有名な店だったらしいが、名前まで聞かなかった、必要性を感じなかったから。でも今になって、その店の名前が知りたくなってしまう。なぜ辞めたのか、なぜ出張料理人をしているのか、なぜ一人で、なぜこのキッチンに立ち続けるのか……。
知ってどうなる。脳内のよしなしごとを押しやり、事実を再確認した。契約内容も了承の上だ、料理の味や質がかわることもない。他人の私生活に関心を抱くなんて──、
思考が止まった。
止まった自分に気づき、その理由を考えようとまた脳が働き始めたところで、考えるのを中断する。あと1ヶ月しか書けない手帳を開いた。来週のスケジュールを確認するためだ。月、水、金。いつも通り、週三の依頼は快諾されている。その事実を記した黒のインクを指でなぞり、手帳を閉じた。
「千賀様、来週の月曜日ですが」
八乙女が片付けを終えてカウンターの内側に立ったまま、こちらを向き珍しく声をかけてきた。
「月曜は接待の予定は入っていますか」
「いや、ない。どうした」
「少し仕込みに時間のかかるものを考えておりまして。もし日曜も伺えるようでしたら」
週四。月・水・金に加えて、日曜も。
「構わない」
即答した。普段なら早くても三秒は考える。スケジュールを確認し、コストを計算し、必要性を判断する。そういう手順を一つも踏まずに口からは返答の言葉が零れ落ちていた。
「ありがとうございます。では、日曜日も十八時に」
八乙女はいつもの低い、あの壁のある丁寧さで応じた。八乙女は何も変わらない。変わったのは、俺の方だ。何が変わったかは──。
あの金曜日。
秋刀魚を出して、いつも通りのメールのやり取りを対面でするだけだと思っていた金曜日。
ノートに記す手が、渋く鈍く、動きを止めた。
「10/──(金)──千賀様がほうじ茶を淹れた」
あの日の記録を、出来事を、もう何日も経ったというのに僕はまだ書けていない。他の記録はすべて当日中に書き記している。食べる速度、残す量、箸を置くタイミング──。それらは事実の記録であり、次の献立のための情報だ。迷う必要もない。
でもあの金曜日のことだけは、何と書けばいいか……。
千賀様がキッチンに入った。
大さじの場所を知っていた。
急須に茶葉を入れた。
三十秒蒸らした。
二つのグラスに注いだ。
一つを僕の前に置いた。
「どうぞ」と言った。
事実はそれだけ。それだけのことなのに、僕はノートに書けなかった。
あの人が僕のために何かをする、という可能性を僕は想定していなかった。あの人は食べる側で、僕は作る側だ。あの人は受け取る側で、僕は差し出す側だ。その構図は最初から契約してあった。あの人の生活動線の中に、僕の料理を少しずつ組み込んでいく。タッパーを残す位置、味の方向性、僕が去った後の換気扇──。すべて計算の中。中のはずだった。
でも、あの人が淹れた茶は、計算になかった。
琥珀色だった。少し色の薄い琥珀色。温度はやや高すぎた。プロの味とはお世辞にも言えない味だ。でも、グラスを持ち上げたとき、指先に届いた温度は──記録すべき情報ではなかった。分析すべき対象ではなかった。咄嗟に、僕は、してしまった。
あの茶が旨かったかどうかは、分からない。提供者としては落第点、でも受給者としては。味覚では判定できないものがあの液体に含まれていた気がしてならない。
ノートのページをめくって、来週の献立に思考を戻した。日曜日が追加された。千賀様の提案ではない、こちらから打診した曜日。仕込みに時間がかかるというのは本当だ。本当だが、実際は自宅のこのキッチンでも事足りる。仕込み、それだけが理由ではないことを自分が一番分かっている。
換気扇を回したまま、テーブルの上でノートを閉じた。静かな部屋に小さいけれど紙が音を立てて閉じる音がした。蛍光灯を消し、暗闇が広がる。無の世界で、キッチンの音だけがあの部屋の音と同じ音を奏でている。
あの人の家のキッチンに立っている時の僕は、この部屋にいる僕とは違う。違うけど、観察はしない。
十二月になった。
気温はめっきり下がり、街はどことなく忙しさが増したようで余裕が無い。広葉樹は葉を落とし、針葉樹にはイルミネーションで飾られる。
八乙女が来る日と来ない日の区別が、以前ほど明確ではなくなっていた。以前は平日は火曜と木曜が「来ない日」で、その日の夕食をどうするかが問題だった。でも今は月曜も加わって、更に日曜も加わり週四になった、来ない日は火曜と木曜、土曜だけになった。火曜と木曜の夕食は、タッパーの残りか、八乙女が置いていった出汁で作る味噌汁で済ませている。
コンビニに行かなくなった。
いつから、だろう。朝食はタッパーの副菜と、八乙女が常備してくれている出汁で味噌汁を作る。具はいつも豆腐だけだったが、最近は冷蔵庫に八乙女が置いていった刻み葱や油揚げがあるので、それを入れるようになった。昼は社食か、取引先とのランチミーティング。夜は八乙女の料理。来ない日はタッパー。
コンビニのサンドイッチの味は覚えているも何も、食べていない。冷蔵庫に食材があるなら、わざわざコンビニに行く必要がない。八乙女の残すものの方が栄養バランスも良い。栄養バランスが整えば、体調も安定し効率が上がる。
かの有名な経営者も選択は少ない方が良いと言っていた。その通りだと、今の生活をしてしみじみと感じる。判断する必要も迷う必要もないのだから。
金曜の夜。食事が終わって、いつものように茶が出た。八乙女が淹れた、程よい温度の、綺麗な琥珀色。俺はダイニングでそれを飲みながら、ラップトップの画面を見ていた。見ていたが、画面の光が目に入っていただけだ。
キッチンでは八乙女が片付けをしている。金曜日はいつもより少し丁寧に、時間をかけて片付ける。平日最後だから、前までは月曜まで間が空くから、そんなところだろうと思っている。冷蔵庫にタッパーを入れる音、調味料を棚に戻す音、布巾を洗う水の音──。
「千賀様」
「ん」
「来週の水曜の接待ですが、先方のご人数は」
「三名だ。前回と同じメンバーで」
「承知いたしました」
いつもの会話。いつもの声。いつもの壁。
でも今の「千賀様」は、半年前の「千賀様」とは違っていた。何が違うのかは分からない。音の高さも、速度も、丁寧さも同じに感じる。なのに、「千賀様」という三文字が、以前より少しだけ短い距離から発せられた気がする。
ラップトップを見つめながら、頬杖をつく。何故かニヤける頬を八乙女から隠すように左手を頬に押し当てた。
その日は、何でもない水曜日だった。
接待のない、普通の水曜日。八乙女がキッチンで料理をしていて、俺はダイニングでラップトップを開いていた。冬の夜で、外は暗くて暖房をかけているというのに室内も薄らと寒い。キッチンからは鍋の匂いが漂っている。根菜の甘く優しい匂い。
何の変哲もない日常だった。こうして半年以上、同じ時間を過ごしてきた。依頼とはいえ他人とプライベートな時間をこれだけ長く過ごしたのは何年ぶりだろうか。八乙女がキッチンにいて、俺がダイニングにいて、包丁の音がして、料理の匂いがして、やがて皿が食卓に並ぶ。そういう水曜日を何十回と繰り返してきた。
カウンターの向こう側で八乙女が鍋の蓋を持ち上げた。カタリと低い陶器の音を立て、追って白い湯気が上がった。湯気に包まれ、八乙女の顔が僅かにぼやけた。レードルで鍋の中身をかき混ぜている。味を見るために少量をすくって、小皿に移して、唇をつけた。
いつもの動作。いつもの確認。いつもの──
「──もう少し、塩を」
独り言だった。実は八乙女が調理中に独り言を言うのは珍しくない。火加減の調整や、味の微調整の時に、小さく声が漏れる。自分自身との対話、多分本人も無意識なのだろう耳を済まさないと聞こえない程の声。料理中の八乙女は、ここにいて、ここにはいない。目に火が灯って、展示品ではなくなり、やっと浮世にいる存在になる。でも俺のいるダイニングとも接続が切れている場所にいる。
塩を足した。もう一度味を見ている。小さく頷いた。それから──
「──に、出汁を足してから仕上げますね」
言葉の頭が聞こえなかった。聞こえなかったのか、聞こえていたのに、脳の処理が否定したのか、
「あなたに」と言ったように聞こえた。
千賀様に、ではなく。
「こちらに」かもしれない。「仕上げに」かもしれない。鍋のクツクツと沸く湯気の音に混じり定かではない。
俺は思わずラップトップから目を離し、キッチンへ向き直ったまま停止してしまった。
そんな俺に目もくれず、八乙女はもう鍋に向き直っていた。出汁を足して、レードルでゆっくりとかき混ぜている。真剣に、でもどことなく無邪気に、さっきの声など何もなかったかのように、調理が続いている。
俺はラップトップの画面に目を戻した。メールの文面が並んでいる。一行目を読んだ。読めた。二行目も読めた。三行目で、指が止まった。また一行目に戻った。
聞き返したら──。
何と言ったか確認する必要はなかった。「千賀様」でも「こちら」でも「あなた」でも、出汁を足して仕上げるという事実は変わらない。呼び方が何であっても、鍋の中身は同じだ。確認する必要はないのに、三行のメールすら頭に入ってこなかった。
十分後、食事が出てきた。根菜の煮物と、焼き魚と、菜の花のお浸し。冬の食卓だった。一口目を食べた。旨かった。旨かったが、味を分析する余裕はなかった。ただ旨くて、ただ温かくて、ただ胸のあたりが──
「旨い」
「ありがとうございます」
八乙女が小さく頭を下げた。いつもの声、いつもの壁、いつもの距離。何も変わらない、何も起きていない。食事を終えて、茶を飲んで、八乙女が片付けをして、帰っていった。いつも通りの「では、失礼します」で。
扉が閉まった後、俺はダイニングに座ったまま動けなかった。
手帳を開いた。来週のスケジュールが並んでいる。月、水、金。もう確認する必要もないくらい見慣れたパターン。黒い文字が並んでいる。万年筆で書かれた、いつもと同じ文字。カーテンを閉め忘れた窓から、チラチラと白が舞っているのが見えた。雪だ。
手帳を閉じた。
電気の消されたキッチンでは換気扇が回り、八乙女がいなくなった後の、いつもと同じキッチンがあった。何の痕跡も残っていない、いつもと同じ清潔な空間。ふ。口から息が漏れた。ああ、そうか。
まだ、今は匂いが、しっかりと残っている。
水曜日の夜だった。
帰りの車の中で、ハンドルを握る手がいつもより強くなっていた。チラつく雪、とまではいかないみぞれが段々と増え、ワイパーをつける、暖房も少し強めた。寒いからではない、でも熱を浴びて落ち着けたかった。
鍋の味見をした時、口が滑った。何と言ったか──出汁を足す、という説明をしようとした。その前に何かつけてしまった、「千賀様に」と言おうとした、頭では確かにその文字が出ていたと思う。でも、口から出た言葉は。
ハンドルをもう一度握り直した。革の音がキュッと鳴る。
あの人は聞き返さなかった。でもこちらをじっと見ていた、視線が刺さっていた。でも、画面に目を戻し、何事もなかったように食事をして、「旨い」と言って、茶を飲んで……それで終わった。
首都高の灯りが流れていく。有線のジャズが低く唸りをあげる。冷たいはずの夜を、熱くなる暖房の風を受け走っている。
あの人のキッチンに立っている時の僕は、普段の僕とは違う。包丁を持てば、鍋の前に立てば、集中する。皿を仕上げれば、僕の仕事は完成する。切り替えは、この道に入ってからずっと完璧であらねばと思っていたし完璧だった、はずだ。
でも、鍋の前で、切り替えの隙間に漏れた。湯気の中で、あの人がダイニングにいることを意識した。意識してはいけない瞬間に、意識した。調理中の僕は、あの人を観察する僕であって、あの人を──
その先の言葉を、紡いだら壊れてしまう。
タッパーには明日の分の副菜を入れてきた。蓮根のきんぴら。あの人が好む歯ごたえ。好むことは、残った量と反応から分かっている。
信号が赤に変わった。車が止まった。フロントガラスの向こうで、首都高の灯りがみぞれで滲む。
次の献立も、もう決まっている。決まっているのに、ノートのあのページだけが、まだ白いままだ。
「10/──(金)──千賀様がほうじ茶を淹れた」
この一行を書こうとして、消して、下の行は元の白ではなくなってしまった。あの場所に言葉を埋めたら、次に進める気がする。進んだ先のいつか来るその日を、僕は違う意味で楽しみにしていたはずだった。僕の味に慣れたあの人が、僕が離れてしまった後どうなるのか──。なのに、これは、何だ。
信号が青に変わった。車を出した。
キッチンの換気扇の音が、まだ耳の奥に残っている。あの人の家のものか、自分の家のものか。もう、どちらの音なのか分からない。




