第9話 写真に写る、知らないはずの誰か
学校という場所は、思い出を勝手に増やしていく。
別にこちらが望んでいなくても、行事のたびに写真が撮られるし、クラスごとの記念だの部活の記録だのと理由をつけて、日常のあちこちが四角い画面の中に押し込められていく。撮られる側はたいていその瞬間のテンションで笑っているだけなのに、あとから見返すとやけに意味ありげに見えたりもするから不思議だ。
その日の六時間目は、来月の文化祭準備についての軽い説明だった。
まだ本格的な話し合いには早い時期で、担任も「まあ今日はイメージ共有くらいな」と気の抜けた調子だった。去年の先輩たちの出し物の例を挙げたり、注意事項を黒板に書いたり、わりとどうでもいい話が中心だったのに、文化祭という単語が出るだけで教室の空気は少しだけ浮つく。高校生にとって、文化祭はそれだけで特別な言葉だ。
「去年の写真、見たい人いるか?」
担任が何気なくそう言ったのが、たぶんきっかけだった。
「見たいー」
「見せてください先生」
「黒歴史も含めて?」
「それはそれでおもしろい」
教室のあちこちから声が飛ぶ。担任は苦笑しながら、「じゃあホームルーム終わったら去年のフォルダ開いとくわ」とだけ言った。
その時点では、それ以上の意味はなかった。
六時間目が終わって、終礼が終わって、放課後の教室が始まる。今日の空は久しぶりに少し晴れていて、窓から差し込む光が昨日より明るかった。曇り空が続いたあとに陽が差すと、教室の色まで少し軽くなる気がする。
担任は本当に去年の写真フォルダを開いたまま職員室へ行ってしまい、教壇のパソコンを囲むように何人かが集まった。僕は最初、その輪には入っていなかった。窓際の席で鞄をまとめながら、前の方のざわめきをなんとなく眺めていただけだ。
「湊、来ないの?」
花音が前の方から手を振る。
「去年の文化祭とか、絶対お前みたいな普通の顔して変な写真写ってるタイプだよ」
「偏見がひどい」
「ほらほら、篠宮さんもいるよ」
そう言われると、行かない理由もない。僕は鞄を机の上に置き直して、教壇の方へ向かった。
前方にはすでに何人かが集まっていて、パソコン画面をみんなで覗き込んでいる。去年の文化祭、体育祭、校外学習、そんなフォルダ名が並んでいた。誰かが勝手にマウスを動かし、写真が次々に開かれていく。
「うわ、これ誰」
「待って、その髪型やばい」
「先生若くない?」
「いや同じだろ」
笑い声が重なる。
文化祭の装飾。体育祭の応援合戦。校外学習で撮った集合写真。どれも、その場では大真面目だったはずなのに、あとから見ると妙に間の抜けた面白さがある。写真ってそういうものだ。
美晴は僕の少し前に立っていて、誰かが変な顔で写っているたびに呆れたように笑っていた。花音はそのたびにコメントを挟み、場をさらに盛り上げる。栞は少し離れた位置から眺めていて、輪の中心には入らないけれど、完全に外にもいない距離を保っていた。
たぶん、そのときの僕も普通に笑っていた。
誰かの変な顔を見て笑い、自分が端っこにぼんやり写っている写真を見つけて「あ、これ俺だ」と適当なことを言う。そのくらいには、何も変わらない放課後だった。
写真が何枚目かに進んだとき、去年のクラス集合写真らしい一枚が表示された。
教室の前で撮ったものだろう。黒板の前に担任が立ち、その前後に生徒たちが並んでいる。文化祭の打ち上げのときなのか、みんな制服のまま少し気の抜けた顔をしていて、何人かはピースをしていた。
「うわ、懐かしい」
「このときまだ髪切ってなかったな」
「先生の顔、ちょっと疲れてる」
「それいつもじゃん」
軽い笑いの中で、僕はその写真をなんとなく見ていた。
真ん中に担任。前列にしゃがんでいるやつら。後ろでふざけている男子。端の方で控えめに笑っている女子たち。ごく普通のクラス写真だ。
なのに、視線が妙に一箇所で止まった。
左端寄り、後列の少し後ろ。
並びの外れみたいな位置に、一人の女子がいた。
制服姿で、髪は肩につくくらい。派手でも地味でもない。笑っているようにも、笑っていないようにも見える、中途半端な表情。画質のせいか顔立ちは少しぼやけているのに、不思議と「見覚えがある気がする」と思った。
でも、誰だかわからない。
いや、わからないというより――思い出せない、の方が近かった。
知らない顔ではない気がする。なのに、名前が出てこない。どのグループにいた子かも、どんな声だったかも、何一つ浮かばない。ただそこに写っている、という事実だけが妙に浮いて見える。
「……これ、誰だっけ」
気づけば、そう口にしていた。
声は大きくなかったはずなのに、近くにいた何人かにはちゃんと届いたらしい。
空気が、止まる。
本当に、一瞬だけ。
それまで写真のたびに飛び交っていた軽口が、そこでぴたりと切れた。笑い声も、誰かがマウスを触る音も、全部まとめて薄くなる。
「え?」
誰かがそう言った気がした。
でもそれが誰の声だったのかはわからない。
僕は画面を指さしたまま、もう一度言おうとした。
「いや、これ――」
「ていうか写り微妙じゃない?」
花音の声が、思ったより明るく割って入った。
「この集合写真、全体的に顔死んでない? 先生だけ妙に現実感あるし」
その言い方があまりにも自然で、一瞬、僕の方が遅れた。
「え、あー、たしかに」
「文化祭の後って疲れてるしね」
「てかこの時の湊、今よりちょっと幼くない?」
今度は別の誰かが話を広げる。空気が元に戻っていく。笑い声も戻る。マウスがまた動き始め、次の写真へ進みそうになる。
でも僕は、まだ画面のその位置を見ていた。
「いや、でもさ」
もう一度言いかけたとき、横からスマホが差し出された。
「湊、これ見て」
美晴だった。
「こっちの写真の方がひどいから」
画面を見ると、去年の体育祭で僕が妙な体勢のまま写っている写真が映っていた。明らかに転びかけている。自分でもちょっと面白い。
「うわ、何これ」
「ひどいでしょ」
「なんでこんな瞬間撮られてるの」
「知らない。でもすごい間抜け」
美晴はそう言って少しだけ笑った。
その笑い方は普通だった。普通すぎて、さっきの一瞬の空白が逆に嘘みたいに思えるくらいに。
なのに、僕の手の中にはまだ違和感が残っていた。
さっきの写真の、あの女子。
誰だろう。
知らないはずはない。去年のクラス写真なら、同じ学年の誰かなんだろうし、見覚えがある気がする以上、たぶん本当にどこかで見ている。でも思い出せない。妙に、それだけが気になる。
「水野くん?」
少し離れたところから、栞の声がした。
顔を上げると、彼女はみんなの輪の外側でこちらを見ていた。表情は静かで、いつも通りと言えばいつも通りだ。でも、何かを待っているようにも見える。
「なに」
「次、見ないの?」
そう言われて、ようやく僕はパソコン画面がもう別の写真に切り替わっていることに気づいた。
去年の校外学習の写真だった。写っているのは今のクラスメイトたちで、さっきの一枚はもう流れてしまっている。
「あ、うん」
僕は返事をしたけれど、意識はまだ半分くらい前の写真に置き去りのままだった。
誰かが「これ誰の変顔?」と騒ぎ、花音が「男子ってなんで集合写真で一人は絶対変なことするの」と笑う。美晴も「ほんと意味わかんない」と続く。周りの空気は完全に元へ戻っている。
たぶん、本当に何でもなかったんだろう。
僕が知らないだけで、みんなにとっては当たり前の顔だったのかもしれない。写真の画質が悪くて、ただ誰かを別人に見間違えただけかもしれない。
そういう可能性は、いくらでもある。
でも、じゃあさっきの一瞬の沈黙は何だったんだろう、と思う。
気のせいだと言われたらそれまでだ。実際、気のせいかもしれない。誰かが次の写真を開こうとしていただけで、たまたま話が途切れたのかもしれない。
なのに、その「かもしれない」がうまく自分の中へ収まらない。
写真の閲覧会みたいな騒ぎは、そのあともしばらく続いた。何枚か見て、飽きて、また誰かが別のフォルダを開き、先生の昔の写真がないか探そうとして担任に怒られる。そんな、どうでもいい放課後だった。
ただ僕だけが、そこから少しだけずれていた。
やがてみんなが少しずつ散っていく。
部活のやつは教室を出て、帰るやつは鞄を持つ。パソコンの前の人だかりも解けて、教室の明るさはそのままなのに、さっきまでの「みんなで見ていた」熱だけが薄れていく。
僕は自分の席に戻り、鞄を手に取った。
前方では美晴が誰かと話している。花音は別のグループの輪の中にいて、いつも通り笑っていた。栞は一番後ろの席で静かに本をしまっている。
全部、普通の放課後の風景だ。
なのに、あの写真だけが頭から離れない。
左端寄り。後ろの列。少しぼやけた顔。見覚えがある気がするのに、名前だけがどこにも引っかからない。
そんなことがあるだろうか。
同じクラスの写真に写っている相手を、ここまで思い出せないなんて。
「湊」
前から声が飛んでくる。
美晴だった。
「帰る?」
「うん、たぶん」
「たぶんって何」
「まだちょっとだけ」
「変なの」
彼女はそう言ったあと、一度だけ僕の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。
「さっきからまた変な顔してる」
「そんなにわかる?」
「わかるよ」
美晴はあっさり言う。
「今度は何?」
今度は何。
その問いかけに、僕は少し迷った。
写真のことをそのまま言ってしまってもよかったのかもしれない。でも、さっきの一瞬の空白を思い出すと、なぜか口が止まる。別に隠す必要なんてないはずなのに、そこへ言葉を伸ばすこと自体が少しだけ場違いに思えた。
「……いや、別に」
結局、そう言ってしまう。
美晴は露骨に不満そうな顔をした。
「またそれ」
「本当に大したことじゃないから」
「そうやって自分で終わらせるよね」
その言い方は、前にも聞いた。
そうやって、すぐ気のせいにするところ。自分で終わらせるところ。
たぶん美晴は、今日の僕の顔を見て、本当に何かあると思っている。でもそれが何なのかは知らないし、僕が言わないなら無理には聞けない。そんな微妙な距離感が、その言葉には滲んでいた。
「……先に行ってていいよ」
僕が言うと、美晴は少しだけ口を開きかけて、やめた。
「じゃあ、行くけど」
「うん」
「連絡くらいしてよ」
「わかった」
それだけ残して、彼女は教室を出ていく。
花音はまだ誰かと笑っていた。栞は一度だけこちらを見た気がしたけれど、何も言わなかった。
僕は机の上に置いたスマホを手に取り、さっきの写真がもう一度見られないかと思って、教壇のパソコンの方を見た。
でもそのときには、すでに誰かが別のフォルダを開いたのか、画面は違う場所へ移っていた。元の写真に戻ろうにも、どのフォルダのどこにあったのか、今さらわからない。見つけるほどの執着があるのかと自分に問われると、それも微妙だった。
ただ一枚のクラス写真だ。
知らないようで見覚えのある女子が写っていた。それだけ。
それだけなのに、胸のどこかが静かに引っかかっている。
僕は結局、そのまま教室を出た。
廊下は夕方の薄い光で満ちていて、窓の外の空は少しだけ金色に寄り始めている。階段を下りながら、頭の中で何度も写真の構図をなぞった。
左端寄り。後ろの列。制服。肩くらいの髪。
誰だろう。
知らないのではなく、思い出せない。
その違いが、妙に気持ち悪かった。
昇降口まで来て、靴を履き替える。外へ出ると、春の風は思ったよりやわらかかった。昨日までの曇り空が嘘みたいに、空は少しだけ広く見える。
それでも、気分は晴れなかった。
写真の中にいたあの子は、僕の記憶のどこにいるんだろう。
いるはずなのに、名前のつかない場所にいる。
そして、もっと引っかかるのは、たぶんそのこと自体よりも――僕がそれを口にした瞬間、教室の空気が一度だけ確かに止まったことだった。
気のせい、で済ませるには、あの沈黙は少しだけ輪郭がありすぎた。




