第10話 君とだけ、秘密の話をする
その日は、まっすぐ帰るつもりだった。
写真のことをこれ以上考えても仕方がない。そう結論づけたわけではないけれど、少なくとも放課後のうちに何か答えが出る話じゃないのはわかっていた。クラス写真に見覚えのある知らない女子が写っていて、そのことを口にしたら一瞬だけ空気が止まった。事実としてはそれだけだ。そこから先は全部、僕の感覚の問題になる。
感覚なんて、だいたい当てにならない。
そういうふうに片づけるのは、昔からわりとうまい方だった。
教室を出て、廊下を歩く。
夕方の校舎はいつも少しだけ静かで、だからこそ自分の足音がやけに耳につく。窓の外の光はまだ残っていたけれど、さっきまで教室にあった明るさとは質が違う。人の気配が薄くなったぶん、建物そのものの輪郭だけが前に出てくる感じがした。
階段の前まで来たところで、僕は立ち止まる。
帰るつもりだった。帰るつもりだったのに、足はまだ一階へ向いていなかった。
頭の中には、さっきの写真が残っている。
左端寄り。後ろの列。肩くらいの髪。見覚えがあるような気がするのに、思い出せない顔。知らないのではなく、思い出せない。その違いが、どうしても気持ち悪い。
そして、それ以上に引っかかっているのは、あの一瞬の沈黙だ。
もし本当に僕の気のせいなら、ここまで残るだろうか。
そう考えた時点で、もうだいぶ気にしているのだと思う。
僕は小さく息を吐いて、踵を返した。
向かった先は階段ではなく、廊下の突き当たり。図書室だった。
理由はたぶん、半分くらいは本当にただの口実だ。返す予定もない本をまだ借りているのに行くのも変だし、写真のことをわざわざ誰かに聞くのも妙だと思っている。でも、聞くなら栞だという気もしていた。
あの人は、たまに最初から一歩ぶん先の空気を知っているみたいな顔をする。
図書室の扉を開ける。
いつもの匂いがした。紙とインクと、少し乾いた木の匂い。静かな場所の空気は、だいたい似たような匂いをしている気がする。窓際の机には誰もいなくて、奥の席に一人、参考書を広げている生徒がいるだけだった。
カウンターの向こうには、栞がいた。
今日は眼鏡を外していて、その代わり髪を少しだけ耳にかけている。手元では返却された本を整理していたらしい。僕が入ってきたのに気づくと、指先の動きだけを止めて顔を上げた。
「また来た」
「なんかそれ、頻度高い人に言うやつだよね」
「高いでしょ、最近」
否定できなかった。
僕はカウンターの前まで歩いて、本を返しに来たふりもできず、そのまま立ち止まる。
「本は?」
「まだ途中」
「じゃあ今日は何」
いつも通り、無駄のない聞き方だった。
少しだけ笑ってごまかそうとしたけれど、うまくいかなかった。
「……今日、写真見たんだよね」
そう口にした瞬間、栞の表情がほんの少しだけ動いた。
目が合う。静かなままの顔なのに、その一拍だけは確かにあった。
「文化祭の?」
「たぶん。去年のクラス写真」
「ふうん」
その「ふうん」は、軽くはなかった。
僕はそこで、妙に喉が渇いていることに気づいた。さっきまで普通に話していたはずなのに、今さら自分が何を聞こうとしているのか、急に曖昧になる。
「それで」
栞が続きを促す。
「写ってたんだよ。……誰かわからない子が」
言いながら、自分でも少し変な言い方だと思う。
誰かわからない子。そんな表現しかできないくらい、輪郭が曖昧だ。でもそれがいちばん近い。
「知らない顔だったの?」
「知らない、っていうか」
僕は少し考える。
「見覚えがある気がした。でも、名前が出てこない」
栞は何も言わなかった。
ただ、カウンターの上に置いていた貸出カードの束から手を離して、完全にこちらへ向き直る。それだけで、この話はもう「ついでの雑談」じゃなくなった気がした。
「僕がそれ、誰だっけって言ったら」
言葉が少しだけ詰まる。
「一瞬、空気が止まった気がした」
図書室は静かだった。
静かだからこそ、その一文だけが妙にはっきり聞こえた気がした。自分で言ったのに、自分の声が少し遠く聞こえる。
栞はすぐには返事をしなかった。
数秒の沈黙。重い沈黙というより、言葉を探していない人の沈黙だった。たぶん彼女は、何を言うかより、どこまで言うかを考えている。
そう思った。
「それで」
彼女はやがて、静かに聞いた。
「湊くんは、どう思ったの」
「どう、って」
「その子のこと。空気が止まったこと。どっちでもいいけど」
質問の向きが、少しだけ意外だった。
何があったのかを聞くでもなく、誰のことか知っているかどうかを答えるでもなく、先に僕がどう思ったかを聞いてくる。
「……変だと思った」
僕は正直に言う。
「知らないのがおかしい気がする。っていうか、知らないはずないのに思い出せないのが、気持ち悪い」
「うん」
「それに、たぶんみんなあの子のこと知ってる感じだった」
「たぶん?」
「空気がそう見えたから」
「見えたんだ」
その返し方が少しだけ引っかかった。
「見えたよ」
思わず強めに言ってしまう。
「ほんとに一瞬だったけど、止まった感じがした」
「感じがした、じゃなくて?」
「……いや、止まったと思う」
言い切った瞬間、少しだけ居心地が悪くなった。
さっきまで「気のせいかもしれない」と思っていたものを、自分で肯定してしまったからだ。言葉にすると戻れなくなる。知らなかった頃には戻れない。栞が言っていたのはこういうことかもしれない。
栞は僕を見て、少しだけ目を細めた。
「じゃあ、たぶん止まったんだよ」
その言い方は不思議だった。
断定しているようで、でも完全には断定していない。けれど僕が言い切ったことを否定もしない。まるで、言葉の責任だけは僕に返しつつ、内容は認めるみたいな話し方だ。
「雪平さん」
僕は少しだけ身を乗り出した。
「知ってるの?」
今度は直球だった。
栞の視線は揺れなかった。揺れなかったけれど、その代わり、ほんの少しだけ呼吸が浅くなったように見えた。
「何を」
「その子のこと」
「写真の子?」
「うん」
彼女はそこで、初めて少しだけ視線を落とした。
カウンターの木目を見るみたいに、ゆっくりと目を伏せる。図書室の外では、遠くで運動部の声がした。ページをめくる音も聞こえる。静かな場所の中で、時間だけが少しずつ進んでいる。
「……たぶん」
やがて、栞はそう言った。
「たぶん、知ってる」
その一言で、胸の奥が少しだけ冷えた。
やっぱり、と思ったのか。ようやく何かが確かになったと思ったのか。自分でもよくわからない。ただ、気のせいではなかったことだけは、もうごまかしにくくなった。
「誰?」
すぐに聞き返す。
でも栞は、それには答えなかった。
「先に言っとくけど」
彼女は静かな声のまま言う。
「私も、ちゃんと全部知ってるわけじゃない」
「でも知ってるんだよね」
「断片だけ」
「それでもいいから」
自分でも、少し焦っているのがわかった。
たった一枚の写真のことなのに。たった一人、名前が思い出せない相手のことなのに。どうしてここまで引っかかるのか、自分でも説明できない。でも、いったん「知ってる人がいる」とわかった瞬間、その曖昧さは一段階だけ重さを変える。
栞はその焦りを見ていたと思う。
それでも、彼女はすぐには話さなかった。
「湊くんって」
代わりに、そんなことを言う。
「知りたいの?」
「え?」
「その子のこと」
「そりゃ……」
知りたい。
たぶん、そうだ。
でも、その「たぶん」がまだ口の中に残っている。
「さっきも言ったけど」
栞はカウンターの端に指を置いた。
「知ったら、知らなかった頃には戻れないよ」
「それは、前にも聞いた」
「うん」
「でも、もう気になってる」
そこまで言って、僕は少しだけ苦笑した。
「気になってる時点で、たぶんもう戻れてない」
栞はそれを聞いて、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
「それはそうかも」
認められてしまうと、逆に少しだけ苦しくなる。
戻れないのなら、知らないふりの逃げ道が少しだけ狭くなるからだ。
「じゃあ」
僕は言う。
「教えてよ」
栞はまた、すぐには答えなかった。
その沈黙は、さっきまでより重かった。けれど嫌な重さじゃない。今ここで何かを決めてしまうことの重さだ。たぶん彼女も、話すことの責任と、話さないことの責任を秤にかけている。
やがて彼女は、小さく息を吐いた。
「名前は――」
そこで一度だけ言葉を切る。
「たぶん、水崎澪」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った気がした。
知っている。いや、知っていた、の方が近い。
でもそれは、顔や声や出来事と結びついた記憶ではなかった。ただ名前の音だけが、ずっと前からどこかにしまわれていたみたいに、静かに出てくる。
「みずさき、みお……」
小さく口の中で繰り返す。
口にしたところで、何かがはっきりしたわけじゃない。でも、その名前だけが妙にしっくり来るのが怖かった。知らない名前じゃない。なのに、どうして思い出せなかったんだろう。
「思い出せる?」
栞が聞く。
「……いや」
本当のことを言う。
「名前は、わかる気がする。でも、それだけ」
栞は頷いた。
「そんな感じだと思う」
「そんな感じって何」
「みんな、そんな感じだから」
その言い方が、ぞっとするほど自然だった。
みんな、そんな感じ。
名前はわかる。あるいは気配だけはわかる。でもそれ以上は曖昧で、話題にしないまま薄れていく。そういう意味に聞こえた。
「なんで?」
僕はすぐに聞いた。
「なんでそんな感じになるの」
栞は少しだけ困ったように眉を寄せる。
「教室って、誰か一人のことを話さないって決めると、本当にその人がいなかったみたいになるから」
その一文は、静かなのに冷たかった。
僕はすぐには理解できなかった。
理解したくなかった、のかもしれない。
「……何それ」
声が少しだけ乾く。
「どういう意味」
「そのまま」
「そのままじゃわかんない」
「わかんない方が普通だよ」
栞はそう言った。
「でも、たぶんそういうこと」
図書室の空気は静かなままだ。窓の外の光も、机に落ちる影も、何も変わっていない。なのに、自分のいる場所だけがほんの少しずつ遠くなっていく感じがする。
教室で一人のことを話さないって決めると、本当にその人がいなかったみたいになる。
そんなこと、あるだろうか。
あるのかもしれない。
だって僕は今、水崎澪という名前を聞いて、「知らない」とは思えなかった。思えなかったのに、思い出せない。つまりどこかで知っていたはずなのに、その知っていた部分ごと薄くなっている。
それは記憶の問題なんだろうか。
それとも、もっと別の――日常の中で少しずつ削られていった何かなんだろうか。
「ねえ」
僕はようやく言う。
「水崎澪って、どうなったの」
その質問に、栞は目を伏せた。
ほんの一瞬だけじゃない。今度ははっきりと。
答えを選んでいるというより、答えること自体をためらっている顔だった。
それを見て、僕は初めて少しだけ後悔した。
ここまで来てしまった、という意味の後悔だ。知りたくて聞いたくせに、答えの方がこちらを見返す段になると、急に足元が薄くなる。
「それは」
栞は静かに言う。
「今はまだ、やめた方がいい」
「なんで」
「湊くん、今その名前を思い出したばっかりでしょ」
「だから何」
「だから、急に全部は重い」
その言い方は、拒絶というより制止だった。
でも僕は、そこで引き下がれるほど器用じゃなかった。いや、たぶんいつもなら引いていた。でも今は無理だった。写真の中の顔、止まった空気、名前だけ先に戻ってきた感覚。その全部が、ここで止まることを許さない感じがした。
「雪平さんは」
少しだけ強く聞く。
「知ってるのに、知らないふりしてるの?」
言ってから、かなりひどい聞き方だと思った。
でも栞は怒らなかった。
ただ、少しだけ寂しそうな顔をした。
「してるよ」
あっさりと、彼女は認めた。
「してる」
その二文字が、予想以上に痛かった。
言い訳も、否定も、濁しもなく認められてしまうと、責める先がなくなる。
「……なんで」
今度の問いは、さっきより弱かった。
栞はすぐには答えない。
代わりに、カウンターの上に置かれた一冊の本の背を、指先でそっと撫でるみたいに触れた。
「こわいから」
それだけだった。
すごく単純で、でもたぶん一番正直な答え。
こわいから。
その理由を、僕は否定できなかった。
知らないふりをする理由なんて、だいたいそのくらいで十分なのかもしれない。面倒だからでも、悪意があるからでもなく、ただ怖いから。関わることが。知ることが。そこから何かをしなきゃいけなくなることが。
そして、それはたぶん僕にもよく似ていた。
見てるようで見ない方を選ぶ。気のせいで終わらせる。自分で話を閉じる。
結局、僕も同じ側なのかもしれない。
「……ごめん」
気づけば、そう言っていた。
何に対しての謝罪なのか、自分でもよくわからないまま。
栞は小さく首を振る。
「別に、謝らなくていい」
「でも」
「湊くん、今やっと気になったんでしょ」
その言い方に、責める響きはなかった。
だから余計に苦しい。
今やっと気になった。たしかにそうだ。今までは何度も、小さな違和感を気のせいで済ませてきた。たとえそこに何かがあったとしても、自分から掘り返すことはしなかった。
それが楽だったから。
「今日はもう帰った方がいいよ」
栞が言う。
「秘密の話、しすぎると放課後が終わるから」
どこか冗談めかした言い方だった。けれど、その奥に本気の線引きがあるのはわかった。
今ここで全部は話さない。話せない。たぶん彼女はそう決めている。
僕はしばらく黙っていたけれど、やがて小さく頷いた。
「……うん」
「本は?」
「借りたままにしとく」
「そう」
「読めるかわかんないけど」
「無理ならそのまま返して」
そのやりとりだけは、少しだけいつも通りだった。
僕はカウンターから離れる。
扉の前まで行って、少しだけ振り返った。栞はもうこちらを見ていなかった。何かを整理するふりをしていたけれど、たぶん本当に整理しているわけじゃない。彼女もまた、自分の中を整える時間が必要なんだろうと思った。
図書室を出る。
廊下の空気は、さっきより少しだけ冷たかった。
名前を知ってしまった。
水崎澪。
それだけなのに、知らなかった頃へはもう戻れない気がした。
階段を下りながら、その名前を頭の中で繰り返す。すると不思議なことに、名前だけはちゃんと居場所を持っているのに、それ以外が何ひとつついてこない。声も、表情も、教室のどこにいたのかも。
まるで、名前だけが残っていて、人の輪郭だけが薄く消えているみたいだった。
昇降口を抜け、外へ出る。
春の夕方はまだ明るい。校門の向こうには、いつもの帰り道が伸びている。明日もたぶん同じように学校は始まって、教室では誰かが笑って、花音が軽口を叩いて、美晴が僕の変化に気づいて、栞は静かな顔で本を整理している。
そういう普通の風景の中に、もう一人、名前だけが戻ってきた。
水崎澪。
その名前を僕は口の中で小さく呟く。
返事はない。
でも、返事がないこと自体が、妙に現実味を持って胸に残った。




