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放課後、君とだけ秘密の話をする  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第11話 名前を知ってしまった朝

 水崎澪。


 朝、目が覚めた瞬間に、最初に浮かんだのがその名前だった。


 目覚ましを止めて、カーテンの隙間から入る光を見て、それでもまだ半分眠いまま布団の中でぼんやりしているあいだに、その四文字だけが妙に鮮明に頭の中にあった。夢に出てきたわけじゃない。顔を思い出したわけでもない。ただ、音だけが先に残っている。


 水崎澪。


 昨日までは、たしかに知らなかった……いや、知らないと思っていた名前。


 なのに今は、「知らない」と言い切れない。栞にそう言われたからかもしれない。でも、それだけじゃない気もする。口にしたとき、あの名前は僕の中でまったく異物ではなかった。知らない名前なら、もっと引っかかるはずだ。字面の手触りとか、音の収まりとか、そういうものがどこかに残るはずなのに、それがなかった。


 つまり、たぶん僕は本当に知っていたのだ。


 知っていたはずなのに、思い出せなかった。


 そのことが、目覚めたばかりの頭には少し重かった。


 洗面所で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見る。別にいつもと変わらない顔だ。寝癖が少し残っていて、目元にはまだ眠気がある。学校へ行って、授業を受けて、放課後になって帰ってくる。その程度の一日を送る顔。


 なのに頭の中だけが、もう昨日までと同じじゃない気がする。


 名前を知ってしまった。


 それだけで、教室の見え方まで変わってしまうんだろうか。


 そんなことを考えている時点で、もうだいぶ影響されているのかもしれない。


 朝食の味はあまりよくわからなかった。母親に「ぼーっとしてるけど大丈夫?」と聞かれて、「大丈夫」と答えた自分の声が少しだけ遅れて聞こえる。別に体調が悪いわけじゃない。ただ、考えごとが先に立っているだけだ。


 考えごと――と言うほど筋道が立っているわけでもない。


 水崎澪という名前。写真の中の顔。教室で一瞬だけ止まった空気。栞の「教室って、誰か一人のことを話さないって決めると、本当にその人がいなかったみたいになるから」という言葉。


 どれも一つひとつはまだ断片だ。


 でも、断片であること自体がもう気持ち悪い。


 登校中、信号待ちのあいだもその名前を頭の中で繰り返した。


 水崎澪。


 口に出したら、何かもう少し思い出せるだろうかと思ったけれど、さすがに朝の通学路で一人呟くほどには勇気がない。いや、勇気の問題ではないかもしれない。ただ、口にしたら本当に現実味を持ちそうで、それが少し嫌だった。


 校門をくぐる。昇降口で靴を履き替える。廊下を歩いて教室へ向かう。


 当たり前の手順。当たり前の朝だ。


 でも教室の前に立った瞬間、少しだけ息を止めた。


 昨日までと同じ教室。窓際の僕の席。前の方にいる美晴。誰かと笑っている花音。一番後ろの席に鞄を置いている栞。


 全部、同じだ。


 同じなのに、僕だけが少し違う位置に立っている感じがする。


 たぶんそれは、みんなが何も変わっていないように見えるからだろう。


 昨日、僕は名前を知った。少なくとも、知らなかったままではいられなくなった。なのに教室は何もなかったみたいな顔をしている。笑い声も、朝の雑談も、プリントの回収も、全部いつも通りの速度で進んでいく。


 その無傷さが、少しだけ怖かった。


「湊」


 教室に入った途端、美晴に呼ばれる。


 彼女は前の席から半分だけ振り返って、僕のネクタイをちらっと見た。


「今日ちゃんとしてる」


「第一声それ?」


「だって珍しいから」


「今日は自力で整えました」


「毎日そうして」


「厳しいなあ」


「普通でしょ」


 そのやりとりだけなら、完全にいつも通りだ。


 でも美晴は次の瞬間、少しだけ眉を寄せた。


「……眠い?」


「いや」


「なんか顔違う」


「そんなに?」


「うん」


 彼女はあっさり言う。


「最近ずっとだけど、今日いちばん変」


 いちばん変。


 朝から容赦がない。


 でも、美晴にとってはそれがたぶん普通なんだろう。わざわざ気を遣って遠回しに言わない。気づいたことは気づいたまま出てくる。それが幼馴染としての遠慮のなさなのか、彼女自身の性格なのかは、もうわからないくらい長い付き合いだ。


「そんなに変な顔してるなら、今日一日隠し通せないかもな」


 冗談っぽく言うと、美晴は笑わなかった。


「隠してるんだ」


「いや、そういう意味じゃなくて」


「じゃあ何」


 真っすぐな問いが返ってくる。


 僕はその場で少しだけ言葉に詰まった。


 ここで水崎澪の名前を出すことは、できなくはない。むしろ一番自然な相手かもしれない。美晴はクラスのことをよく見ているし、たぶん何か知っている気もする。


 でも、知っているからこそ、その名前を口にしたとき彼女がどんな顔をするのか、僕はまだ見たくなかった。


「別に、大したことじゃないよ」


 結局そう言ってしまう。


 すると美晴は、露骨に不満そうな顔をした。


「またそれ」


「いや本当に」


「湊の“大したことない”って、だいたいちゃんと何かあるやつだから」


 図星だった。


 図星すぎて返しに困る。僕自身、自分が何を抱えているのかまだ説明できないくせに、それを「大したことない」で片づけようとしているのはたしかだ。


「今日、放課後時間ある?」


 美晴が聞く。


「たぶん」


「たぶんじゃなくて」


「ある、かな」


「かなって何」


「尋問?」


「普通の会話」


 彼女はそう言うけれど、視線は少しだけ鋭かった。


「話せるなら話して」


「何を」


「それを、だよ」


 それ以上は言わず、美晴は前を向いた。


 朝の教室はいつもざわついているのに、その会話のあとだけは少しだけ自分の周りの音が遠くなった気がした。


 僕は席に座り、机の中へ教科書を押し込む。


 そして、何気ないふりをして視線を教室のあちこちへ滑らせた。


 黒板の横の掲示。時間割。掃除当番表。連絡用のプリント。座席表の控え。どこかに水崎澪の名前が紛れていないか――そんなことを探している自分に気づいて、少しだけ嫌になる。


 何をしているんだろう、と思う。


 昨日まで気にも留めなかったものの中に、一人分の痕跡がないかを探している。まるで、自分の感覚が正しいと証明したいみたいに。


 でも証明したいのかもしれない。


 名前だけ知っている相手が本当にこの教室の一部だったのかどうか、今の僕にはまだ確信がないからだ。


 ホームルームが始まる。


 担任が入ってきて、いつものように出席簿を開く。昨日までなら何も考えずに聞き流していた点呼の声が、今日は妙に耳についた。


「……」


 名前が順番に呼ばれる。


 返事が返る。次の名前へ移る。


 僕は出席簿そのものを見ているわけじゃない。見えているわけでもない。なのに、どこかに空白がある気がしてしまう。あるいは、空白なんて最初からなかったのに、今の僕が勝手に探しているだけなのかもしれない。


 何もわからないまま、自分の番が来て返事をする。


「水野」


「はい」


 そのあとも点呼は普通に続き、普通に終わった。


 何もなかった。少なくとも表面上は。


 なのに、僕の中だけには「本当に?」という声が残る。


 休み時間になるたび、僕は無意識に教室の中を見ていた。


 机の数。窓際の列。後ろの席。出席番号順の並び。誰がどこに座っていて、誰がどこで喋っているか。そういうものを、たぶんいつもより少しだけ細かく見ている。


 細かく見たところで何かが見つかるわけじゃない。


 でも、見ないではいられない。


「湊、今日ほんと変」


 二時間目後の休み時間、花音が机に肘をついてそう言った。


「最近の中でも上位」


「ランキング化しなくていいよ」


「してないけど。何、昨日寝てない?」


「普通に寝た」


「じゃあ考えごと」


 その言い方があまりにも軽くて、逆に返しに困る。


「人のこと見すぎじゃない?」


「見てるからね」


 またそれだ。


 花音は笑っている。たぶん本当に、ただの会話のつもりだ。


「ていうかさ、湊って前より教室の中見るようになったよね」


「そう?」


「うん。なんか探してる人みたい」


 その一言に、心臓が少しだけ跳ねた。


「探してないよ」


「そう?」


 花音は首を傾げる。


「まあ、別にいいけど」


 いいけど、と言ったあとの一拍がほんのわずかに長かった気がした。でも彼女はすぐに別の話題へ移った。昨日のバラエティ番組がどうだったとか、購買に新しいパンが入っていたとか、そういうどうでもいい話へ。


 それがありがたかった一方で、少しだけ気持ち悪かった。


 花音の話題の変え方はうまい。うますぎる。何かに触れかけた会話を、相手が困る前に滑らかに別の方向へ流してしまえる。前はそれを単純に「会話上手」だと思っていたけれど、今は少し違うものに見える。


 何かを残さないための上手さ。


 そんなふうに思ってしまう自分が嫌だった。


 昼休み、美晴は前の席から振り返ってきた。


「ねえ」


「なに」


「今朝の話」


「うん」


「放課後、逃げないでよ」


「逃げないよ」


「ほんとに?」


「そんな信用ない?」


「今はちょっと」


 あっさり言われて、苦笑するしかない。


 でも、たぶんその通りだった。今日の僕は自分でも少し信用できない。何かを口にするべきか、まだ黙っておくべきか、その判断すら曖昧だ。そんな状態で「大丈夫」と言っても説得力がない。


 ふと、一番後ろを見る。


 栞はいつも通り本を読んでいた。教室のざわめきから少し距離を置いて、自分の席の空気をきれいに保っているように見える。昨日、図書室で水崎澪の名前を口にした人と、今ここで静かに文庫本を読んでいる同級生が、同じ人だということが少し不思議だった。


 この教室の中で、昨日の話を知っているのは僕と彼女だけだ。


 そう思った途端、教室の中の明るさが少しだけ薄く見える。


 誰も何も知らない顔で笑っている。いや、もしかしたら知らないわけじゃないのかもしれない。ただ、知らない顔をしているだけで。


 その疑いを持ち始めた時点で、もう昨日までの僕には戻れないのかもしれない。


 放課後。


 チャイムが鳴って、教室の空気がまたほどける。いつもならその緩みの中へ自然に溶けていけるのに、今日はどこか体が一拍遅れている感じがした。


 美晴が前の席から立ち上がり、こちらを見た。


「湊」


「うん」


「時間あるんでしょ」


「ある」


 僕が答えると、彼女はほんの少しだけ安心したような、でもまだ警戒しているような顔をした。


 その表情を見て、僕は思う。


 美晴はたぶん、まだ何も知らないわけじゃない。けれど今の彼女が気にしているのは、水崎澪のことそのものより、僕が何かを抱え始めていることの方だ。置いていかれる感じ、いつもの流れが少しずれる感じ。そういうものに反応している。


 それが恋なのか、ただの習慣の乱れなのかは、まだわからない。


 たぶん、この作品の中でさえ、今はまだわからなくていい。


 でも少なくとも、僕が昨日の名前を知ってから、放課後の形は少しずつ変わり始めていた。


 そして何より気味が悪いのは――


 その変化が僕の中にしか起きていないように見えることだった。


 教室は今日も明るい。


 花音は誰かと笑っていて、栞は静かで、美晴は少しだけ不機嫌そうで、担任はどうでもいい連絡を残して出ていく。


 何も壊れていない。


 でも、僕の中ではもう、どこか一人分だけ、名前の形に空白ができている。

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