第12話 もう一度写真を探す
人は、気になり始めたものを放っておくのが苦手だ。
いや、正確には、僕はそうだ。
普段はどちらかといえば、気になってもそのまま曖昧にしておく方だと思っていた。答えがすぐ出ないことにわざわざ首を突っ込むより、日常の流れに紛らせてしまう方が楽だからだ。実際、これまでだってそうしてきた。少しだけ引っかかることがあっても、「まあいいか」で済ませて、そのまま別の話題へ流れていく。
でも、一度名前がついてしまうと、それは前よりずっと曖昧にしづらい。
水崎澪。
その名前を知ってから二日目の放課後、僕は教壇の方を見ていた。
今日は教室の前に誰も群がっていない。文化祭写真をみんなで見て騒いだあの日とは違って、パソコンはただそこにあるだけだ。教室では花音が誰かと笑っていて、美晴は黒板横の掲示を見ながら友達と何か話している。栞は一番後ろで本をしまっていた。
見た目には、完全に普通の放課後だった。
なのに、僕の意識だけが、教壇のパソコンへ妙に引っ張られている。
もう一度、あの写真を見たい。
それだけだ。本当に、それだけのつもりだった。
見間違いじゃないと確認したい。あの位置にあの女子がいたことを、自分の感覚ではなく、もう一度ちゃんと目で見て確かめたい。ただそれだけ。
でも、そういう「ただそれだけ」が一番厄介なのかもしれない。
「湊、今日も残るの?」
前の方から美晴が聞いてくる。
「いや、ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、最近多いよね」
その言い方には軽い棘があった。
でも前みたいな露骨な不機嫌ではない。今の美晴は、怒っているというより、たぶん様子を見ている。僕が何を抱えているのか、自分に言う気があるのか、黙ったままどこへ行くのか。そのあたりを測っている感じがした。
「先帰る?」
僕が聞くと、美晴は少し考えてから答える。
「……今日はいい。友達と駅前寄るから」
「そっか」
「だからって連絡いらないって意味じゃないけど」
「まだそこ気にしてるんだ」
「当たり前でしょ」
彼女は小さく睨んで、それから少しだけ視線を柔らかくした。
「変な顔してたら、気になるから」
そう言って前を向く。その背中が少しだけ遠い。
前の席にいた頃なら、こういう一言のあとにもっと何か続いていたはずだ。軽口とか、呆れた溜息とか、僕のだらしなさへの説教とか。今は席の距離のせいか、それとももっと別の理由か、その続きを互いに探りながら話している感じがする。
僕はその感覚から目を逸らすように、教壇の方へ歩いた。
パソコンの前に立つ。画面はスリープ状態で、キーボードの横には担任が置きっぱなしにしたらしい赤ペンが転がっている。パソコンに触れるのは少しだけ気が引けたけれど、文化祭準備で使う資料を見るくらいなら誰でもやることだ。そう自分に言い訳しながら、マウスを動かす。
画面がついた。
デスクトップにはいくつかのフォルダが並んでいる。学年通信、文化祭関係、出席簿バックアップ、昨年度記録、校外学習、行事写真。
その中に、たしかにあの日見た名前があった。
行事写真
心臓が少しだけ速くなる。
僕は周囲をちらっと見る。誰もこちらを気にしていない。花音はまだ笑っているし、美晴は友達と話している。栞は一番後ろからこちらを見て――いたような気がしたけれど、すぐに本の方へ視線を落とした。
僕はフォルダを開こうとして、そこで止まった。
「水野ー」
担任の声だった。
びくっとして振り返ると、教室の入り口に立っている。いつ戻ってきたのか気づかなかった。
「悪い、そのパソコンあとで使うから、今ちょっと閉じといて」
「あ、はい」
反射的にマウスから手を離す。
担任は何か書類を探しに来ただけらしく、教卓の引き出しを開けながら「文化祭関係のデータ見るならあとで配るし」と軽く言った。その口調は自然だった。あまりに自然で、僕が別の目的で触ろうとしていたことなど一ミリも想定していないように聞こえる。
僕は「わかりました」と答えて、自分の席へ戻った。
それだけだ。
ただタイミングが悪かっただけ。写真を確認できなかったのも、偶然だ。そう考えれば済む話なのに、席に戻る途中で妙な敗北感があったのは、自分でも少し可笑しかった。
「何してたの?」
斜め後ろから花音が聞く。
「先生のパソコン見ようとして怒られてた?」
「怒られてはない」
「でも止められてた」
「文化祭資料は後で配るって」
「ふーん」
花音は頬杖をついて僕を見た。
「昨日からなんか、探しものしてるみたいだよね」
その一言に、思わず呼吸が止まりかける。
「そんなことないよ」
「あるって」
彼女は明るい調子のまま言う。
「教室の中きょろきょろ見たり、急にパソコン行ったり。いつもの“なんとなく流されてる湊”じゃない感じ」
言い方は軽い。でも、観察はやけに正確だった。
花音はたぶん本当に気づいている。僕が最近、何かを探しているみたいに見えることに。探している対象まではわからなくても、その状態そのものは見えている。
「大したことじゃないって」
僕が言うと、花音は少しだけ目を細めた。
「最近、その台詞多いね」
「みんな同じこと言うな」
「だってそうだし」
彼女はそこで一度だけ声のトーンを落とす。
「まあでも、変なこと気にしてるなら、あんまり掘らない方がいいかもよ」
その言い方は、今までの軽口と少し違っていた。
反射的に彼女を見る。
花音は一瞬だけ僕の視線を受け止めて、それからすぐ、いつもの笑顔に戻った。
「ほら、湊って考えすぎると顔死ぬから。そういう顔、似合わないし」
そう言って笑う。近くにいた別の女子が「何の話?」と聞いてきて、花音は「最近の湊、哲学者っぽい顔してるって話」と適当に答えた。笑いが起こる。
話題は流れた。
きれいに、何事もなかったみたいに流れた。
でも今の一言だけは、たしかにそこに残った。
あんまり掘らない方がいい。
それは忠告なんだろうか。軽い冗談に混ぜた、ただの雰囲気の言葉なんだろうか。それとも、花音自身も何かを知っているから出た言葉なんだろうか。
そのどれなのかを確かめる前に、彼女は笑いへ戻ってしまう。そうなると、こっちもそれ以上は踏み込みにくい。
気づけば、美晴がこちらを見ていた。
たぶん今のやりとりの全部ではなく、最後の笑い声だけを見ていたんだと思う。けれど彼女はそのまま何も言わずに鞄を持ち上げた。
「じゃ、私行くから」
「うん」
「今日は本当に帰るの遅くならないでよ」
「遅くはならない」
「そういう返事が一番信用できない」
それだけ言って、美晴は友達と一緒に教室を出ていった。
僕はその背中を見送ってから、もう一度教壇のパソコンを見る。
担任はまだ書類を整理していて、触れそうにない。今日は無理だろう。そう考えている自分と、少しだけほっとしている自分がいる。もし今すぐ写真を見られたとして、僕は何を確かめたかったんだろう。あの子がそこにいたことか、自分の違和感が間違っていなかったことか、それとも――空気が止まった理由か。
自分でもまだ整理できていない。
チャイムが鳴って、廊下から部活の声が近づいてくる。教室に残る人数も少しずつ減っていた。花音も「じゃ、私も行く」と言って部活の方へ向かい、空気の温度だけを残していく。
気づけば、教室はだいぶ静かになっていた。
一番後ろから、椅子を引く小さな音がする。栞が席を立ったのだとわかった。
「写真、見たかったの?」
声は静かだった。
僕が振り返ると、栞は本を鞄にしまったところだった。彼女はわざとらしくなく、でもたしかにこちらを見ていた。
「……うん」
否定しても仕方ない気がして、僕は素直に頷く。
「確認したかっただけ」
「何を?」
「僕の見間違いじゃなかったかどうか」
そう言いながら、自分でもそれだけじゃないと思う。
見間違いじゃないとわかれば何かが楽になるのか、逆に苦しくなるのか、たぶんまだわかっていない。
栞は少しだけ考えてから言った。
「見間違いじゃないと思うよ」
「なんでそう言えるの」
「湊くん、あのとき顔が本気だったから」
「顔で判断しないでほしいな」
「でも、顔でわかることもある」
それは、花音も同じようなことを言っていた。
見てるからわかる。顔でわかる。変なとこで引っかかってるのが見える。
最近、僕のことを見ている人が妙に多い。
そして僕自身は、今さら誰かのことを見ようとしている。
「……でも、もう一回見たい」
僕が小さく言うと、栞はカウンターでもない教室の後ろから、少しだけ前方を見る。
「今日じゃなくても見られると思う」
「そうかな」
「たぶん」
「たぶん多いな」
「断定しない方がいいこともあるから」
その言い方は、いつも通り栞らしかった。
けれど今日の僕には、その曖昧さが少しだけありがたかった。今、ここで何も確かめられなかったことに意味を持たせすぎなくて済むからだ。
「帰る?」
栞が聞く。
「……うん」
「そう」
それで会話は終わった。
本当に短いやりとりだった。なのに、その短さの中に妙にたくさんの含みがあるように思える。たぶん僕がそう受け取ってしまっているだけなのだろうけど。
教室を出て廊下へ出る。
窓の外は夕方の色になりかけていて、空は薄い灰色から少しだけ金色へ寄っていた。雨は結局降らなかったらしい。曖昧なまま始まった一日が、曖昧なまま終わろうとしている。
階段を下りながら、花音の言葉が頭の中で繰り返される。
あんまり掘らない方がいいかもよ。
それから栞の言葉。
見間違いじゃないと思う。
どちらも断定ではない。どちらも少しだけ曖昧だ。なのに、その曖昧さがかえって現実味を持つ。
もしかしたら、今のクラスでいちばん怖いのは、「誰もはっきり嘘をつかない」ことなのかもしれない。
言い切らない。否定しない。だけど真ん中にも触れない。
そのまま話題が流れて、日常が続いていく。
僕は昇降口で靴を履き替えた。
外へ出ると、空気は少しだけ湿っていた。雨が降らなかったぶん、雲だけが残り続けた一日の匂いがする。校門の外では、何人かの生徒がまだ喋りながら帰っていた。どこにでもある高校の夕方だ。
それなのに、僕はたった一枚の写真に辿り着けなかったことを、思っていたよりも重く受け取っていた。
確認したいだけだったはずなのに。
見間違いじゃないと確かめたいだけだったはずなのに。
そうやって理由を小さく言い直している時点で、たぶんもう「それだけ」ではないのだろう。




